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居ながらに背伸びして見る夕陽かな [週末大島暮し]

ohsimayuuhi_1.jpg 今回の大島シリーズは冒頭に我がロッジから見る海の図で始まったが、ラストも「居ながらに背伸びして見る夕陽かな」の絵で終わる。

 新宿の自宅では、早起きのあたしはマンション7階から日々朝日の昇るシーンを愉しんでいる。年に2度、下町に聳える東京スカイツリーと朝陽がクロスする光景もある。片や西はビルが立ちはだかって夕陽は見えない。大島の夕陽がうれしい。

 島を去ったのが10月16日だった。大島は2年前の同日に、大雨による土石流災害で多くの方々が亡くなった。当日は午後1時の防災無線の合図と共に全島1分間の黙とうが行われた。現場では献花台が設けられ法要も行われた。東京へのジェット艇は多くの喪服の方々、多数お坊さんと一緒になった。改めて亡くなった皆様のご冥福と大島の復興を祈念して、秋の大島シリーズを終える。


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大島牛乳とソフトクリームと [週末大島暮し]

simanousi1_1.jpg 大島に着くと、まず野菜即売場「ぶらっとハウス」へ。野菜を仕入れた後に、概ね大島牛乳のソフトクリームを舐める。気分次第でアイスクリーム。大島バターを購う場合もある。女性陣の買い物は長いゆえ、あたしはソフトクリームを舐めつつ牧場を眺める。眼は牛ではなく野鳥を探している。小さい野鳥なら双眼鏡が必要だが、大きな鳥ならキジ、アマサギなどに出会える。

 大正~明治初期の大島は、乳牛の島だった。昔の「島新聞」にはホルスタイン種の優良牛表彰記事が載っていたりする。大島牛乳は2007年に撤退したが、有志が新会社を興して軌道に乗せた。

 昔、大島が「畜産の島」と知っても驚くに値しない。あたしは新宿在住だが、明治中期~大正初期には現・新宿末広亭の靖国通り側に「牧場」があった。芥川龍之介の養父が経営する「耕牧舎」。牧場移転後に遊郭ができ、今は近くにゲイの天国・新宿二丁目がある。新宿「牛込」だって、牧場の名残りだろう。自転車散歩をしていれば「牧場跡の碑」に出会ったりし、「おぉ、昔はそうだったか」と思う。

 かかぁの「ソフトクリームを持つ手」を写真に撮れば、「それなら、もっと盛りましょうか」と。「いえ、ありのまま」。この絵を見たかかぁは「あらっ、こんなに盛られていなかったわ」。あたしはダイエット中ゆえミニ盛りで充分。価格はうろ覚え。

 牛の絵にソフトクリームを添えたワケは、同じく20年余も島通いの友人が先日「元町に旨いソフトクリームがあったよ」との電話に、冒頭記述通りのことを言えば「へぇ、前からあったんだ」と驚いた。島のことは〝暮らし様〟で知ること・知らぬこと様々。彼のサイトは左にリングしている「つくって、つかって、つないで」。素晴らしい島暮しをしている。クリックでカテゴリー「島」を見て下さい。


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新芽と妖しい穴の物語 [週末大島暮し]

sinme3_1.jpg 庭の雑草を刈ったら、塩害で朽ちたはずの「グミとクチナシ」の根元から新芽が出ていた。また大きく育って花や実をつけてくれるだろうか。おや、そのグミの木の下に穴が空いていた。 

 以前、松喰虫にやられた松を取り去った跡の穴があって、そこで庭仕事をしていたら、ムッとした臭気がしてヌッと大ヘビが這い出てきたことがあった。以来、穴は恐くて埋めることにしている。

 運んで来た土を穴に入れると「あぁ!」。スゥ~ッと吸い込まれたじゃないか。ドキッとした。再び土を盛れば、また吸い込まれた。外見は凹状に過ぎなかったが、これは相当に深い穴らしい。何度か穴に土を盛って足で押し固めた。いったい、この穴はなんなのだろうか。

 そう云えば、ロッジ前の雑草を刈っていた時だった。一瞬の事で確証はないが、白毛に茶毛混じりの少動物が草の中から走り去ったような気がした。そやつが棲んでいた穴だろうか。島には動物園から逃げ出して野生化した異国のサル、リス、キョンが大繁殖している。

 「グミとクチナシと妖しい穴」。これ、庭の片隅わずか1㎡内の出来事。それだけで充分に歓びと驚きがある。大島はまさに「超ワンダーランド・アイランド」。あたしはボケ始めた隠居爺だが、島での暮しはワクワク・ドキドキ。少年時代に戻ったかの日々になる。


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乳ヶ崎は描ききれまいぞ崖と海 [週末大島暮し]

nodahama1_1.jpg 初めて描いた風景スケッチが、ロッジ前「ケイカイ」より望む「乳ヶ崎」だった。今度は近く、野田浜から断崖・乳ヶ崎を仰ぎ見つつ、その迫力を描いてみようと思った。乳ヶ崎は大島の最北端。一度だけ登った事がある。麓に戦後処理を終えて自決した『福井参謀の碑」があった。

 頂からの眺望は海を見て、振り返って三原山を見て、海岸線を見て、すべてが絶景だった。岬先の眼下に瀬があって、常に白波が立っている。昔(昭和8年)東京湾汽船「葵丸」が乳ヶ崎海岸で座礁したとか。現場は絶壁下の岩礁か、岬沖の早瀬だろうか。黒砂の海岸(野田浜)は一気に深くなっている。子供や泳げぬ人は波打ち際から沖に出ないほうがいい。

 弘化3年(1846)の長谷川晋吉(渡辺崋山の門人・永山茜山)が描いた「伊豆七島図会」の「千賀崎(乳ヶ崎)遊竿の図」は、実際の景色とは異なる「奇景」に描かれていた。今、話題の印象派・モネには「ノルマンディーの絶壁と海」の連作がある。乳ヶ崎もまた朝霧の岬、陽光浴びる岬、夕陽に映える岬、西の風に耐える岬~と日々刻々と多彩な表情があろう。隠居趣味のスケッチでも、島に行く度に描いても描き切れぬだろう乳ヶ崎です。


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長七輪でサンマを焼く [週末大島暮し]

sanmayaku1_1.jpg 「おまいさん、島に行ったら長七輪でサンマを焼いてみようよ」とかかぁが言った。都会のマンション暮しで七輪を使うは〝憧れ〟に近い。細長い七輪をどこで買ったのだろう。通販、東京のホームセンター、いや島の「くぼごん」だったか。

 ちょうどテレビでサンマを旨く焼くコツが紹介されていた。通常は〝焼き過ぎ〟とか。ガスレンジでほどよい焦げ目ができるのは約14分。それでは焼き過ぎで実がパサついてしまう。コツはサンマ両面にミリンを10分の1ほどに希釈して塗ると、焦げ目が7分程で出来て火から下せる。これでホッコリとした身になるとか。

 さて、長七輪の炭をほど良い熾火にして、四匹のサンマを乗せた。するってぇと「あぁ!」。弱い熾火なのにボウボウと炎が上がってしまった。サンマにたっぷりと乗った脂がしたたり落ちての炎上らしい。これは計算外だった。

 かくして真っ黒焦げなのに、まだ骨まわりに血が残るサンマを恐々と喰うハメになった。来年はサンマの脂の乗り具合によって、網の高さを調整してみようと思う。失敗は成功の元。来秋の大島暮しでは、あたしサンマ焼きの名人になる。カット絵の七輪右端は焼きミカン。


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シーグラス夜長のひとり戯れぞ [週末大島暮し]

seaglass_1.jpg 十数年も前から、気が向くと海岸で「シーグラス」を拾ってきた。いつかは何かを作ろうと思って年月が経った。今回、やっと「シーグラス・キャンドル」を作ってみようと思い立った。

 ネット調べをすれば、決まった方法はないらしい。某サイトではガラス接着はグルーガンがいいと記し、某サイトはソレは接着力が脆く熱を帯びるランプには向かないとあった。平らに積み上げる法、プラ板を円筒状に形どってグラスを貼る法、風船にグラスを貼る法と実にさまざま。

 東京・中野のホームセンターで「タイル目地材」「グルーガンと樹脂棒」「Scothガラス用強力接着剤」を購って島に持参した。その買物散歩中に金魚鉢を見た。これを裏返せば形も良く、波状縁の隙間に電気コードも通せる。グッドアイデア!とひらめいた。

 金魚鉢での製作は後にして、まずは小手調べ。大島の「やすとく」で大ジョッキーグラス千円が半額で売っていたので、まずはこれにシーグラスを貼ってみることにした。それは眠れぬ某深夜のこと。下らんテレビを観つつシーグラスをガラス用接着剤でひとつ、ふたつと張り出した。接着剤が固まるまで、ビニールテープで仮止め。

 次第に熱中で、こんな感じに仕上がった。これに「白いタイル目地材」を埋め込めば、より良い感じになりそう。次は玄関の小窓にグルーガンでシーグラスを貼ってみましょうか。大島の眠れぬ夜のひとり遊びでした。


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海越しに初冠雪や日本一 [週末大島暮し]

tigasaki2_1.jpg 野菜即売場「ぶらっとハウス」から「乳ヶ崎トンネル」越しに、初冠雪の富士山が見えた。このトンネルは「YS-11」引退に伴うジェット機「DASH8-300」就航による滑走路拡張で出来たもの。平成13年(2001)のDASH8就航の前年2000年4月に開通。

 しかしながら搭乗率悪く「ANA羽田~大島便撤退」(60年の歴史に幕)が決定。今年10月24日がラストフライト。愛宕山の一部を削り、周辺地を買収するなどした大工事はいったい何だったのか。

 そう思いつつトンネルの向こうの海、その向こうに聳える富士山の初冠雪を描いた。富士山の下辺りが熱海、その左が伊東。夜になると漆黒の海向こうに伊豆半島の街々の明かりが美しく見える。悠久の富士山に観られつつ伊豆半島や伊豆諸島で暮す人々にも有為転変、盛衰あり。

 我がロッジは同トンネルをくぐった向こう側で、海抜5メートル看板が建つ海っぺり。島の人は「津波が来れば真っ先にやられるのがお前ぇの家だ」とうれしそうに言う。

 ※スケッチ初心者ゆえメモをしておく。~富士山が高いと思えば、実際より高く描こうとする。対象によって自分の感情や情念が引っ張り出される。山は高く描き、筆も対応して勢いが違ってくる。それがスケッチ。対象モロの写真ではない〝絵の面白さ〟がそこにある~(高名画家の言葉)。(以下は自省)このスケッチは高い富士山に比し、地下に潜るトンネルの対比が面白い。それが絵のテーマなら、それを強調するように他をもっと省略・簡略した方がいい。


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雑草と格闘せんとまずMKへ [週末大島暮し]

kusakariki_1.jpg 天候のせいか、久し振りの島は庭もロッジ周りも雑草大繁茂だった。だが肝心の草刈機始動せず。同機は中野「島忠」にて数万円で購った「タナカ・エンジン刈払機CB-23 HTS」。「25:1」の燃料を購ういつものGSで、草刈機修理をして下さる「MK商会」の存在を教えられた。

 初めて訪ねた同商会。手際鮮やかに分解・掃除・組立で、たちまちエンジンが唸りを発した。長期間使わない場合の〝終わり方〟も丁寧に教えて下さった。次は薪作りのチェーンソーもお世話になりそう。

 雑草大繁茂は管理不足。これは〝ゴミ屋敷〟にも通じよう。辺鄙な地で観光客の眼には触れぬだろうが、これでは観光振興を云々する資格もない。

 今は島を去った友人は、常に広大な庭の手入れ怠らず〝杜撰な庭は家主もだらしない〟と叱っていた。彼の言を思い出しつつ、背丈ほどに伸びた雑草と格闘。草刈機作業後は、数日かけて庭細部の手仕事。庭がすっかりきれいになりつつ頃に、決まって東京へ帰る日を迎える。相変わらず「虚しいなぁ」と呟きながらの庭仕事。

 ここまで荒廃させぬには、島通いの回数を増やす他にない。同じ島通いの知人は、真夏に草刈りのためだけの一泊二日を欠かさない。島を去る日に島の知人が言った。「雑草繁茂がより旺盛になるよう、たっぷりと肥料を撒いておいてやるよ」。


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海一望暮しも立たぬ西の風 [週末大島暮し]

umiitibou_1.jpg 久し振りに大島へ。前回の島暮しで、初めて絵(風景画)を描いた。だが風景スケッチに魅力を覚えず、以来あれこれと他の絵を描いてきた。今回は改めて風景スケッチ用に各種ペンを試すべく、スケッチブック一冊くらいは描いてみようと思った。

 だが久々の大島暮しは甘くない。難問続出。まず庭はむろんロッジ周りも雑草繁茂。我がロッジも埋もれる勢い。なのに草刈機エンジン始動せず。冷蔵庫も冷えぬ。車は買物途中でエンスト。他にも心配事、イヤな事、考えなきゃいけない事など山積。絵を描くにはそれなりの気分や状況が整っていなければと、改めて気付かされた。

 かくしてスケッチが出来たのは数点のみ。まずはベランダからの景色。かつては防風林に守られて海の見えぬ地だったが、今は丸裸で〝海一望〟。家ん中からでも、夕陽が伊豆半島先端に沈んでゆく美しいシーンが楽しめる。比して冬は恐ろしい〝西の風〟直撃を受けることになった。ボロロッジが吹き飛ばされる恐怖。〝西の風〟が収まる春過ぎまで暮らせなくなった。

 初風景スケッチは「極細ペン」で恐々と描いていたが、今回は「三菱サインペン・リブ(毛筆タッチ)」で試みた。当日は早くも〝西の風〟の予兆か、スケッチブックは煽られ、水彩筆は床下に転げ落ち、その隙を狙っての「早描き」。右側は大別荘一部。前面は同邸庭、僅かに残った防風林も伐採され、その中に塩工場も出来ている。やがては塩害で防風林も枯れ朽ちるやも知れない。居ながらに海が見え、伊豆半島も見える。

 その意を反映してか〝長閑な島暮らし〟より、自然の厳しさを思わす絵になったか。写実からもっと離れて、マチスのように原色も荒々しく使ってみたら良かったのかもしれぬ。さて、我がロッジは、これから襲って来る本格的な〝西の風〟に耐えられるだろうか。


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伊豆大島のニューファミリー層 [週末大島暮し]

map1_1.jpg 今回の大島シリーズは、島を去る前日5月10日に「ぶらっとハウス」裏の多目的広場で行われた「春の軽トラ市」見聞記で終える。これは中古の軽トラ販売市ではなく、軽トラによる30ほどの模擬店集合お祭りだった。

 行ってみて、まぁ、眼を丸くした。子連れの若い夫婦らで大賑わいなのだ。今は東京の祭りでも高齢化・少子化でジイさんバアさんばかりなんだが、同イベントには若さが溢れていた。主催は北ノ山青年会だが岡田の青年会も一緒らしい。

 3月のブログに<大島町も「消滅可能性町」>と題して「日本創生会議」のデータを紹介し、大島で若い女性を観たら神々しく、赤ん坊を見たら宝物と思える~と記した責任上、この「軽トラ市」に溢れた若さに言及しなければいけないだろう。島のよそ者で僭越ながら、ここで見た大島ニューファミリー層についてちょっと考えてみた。

 北ノ山、岡田地区は土地が平らで、かつ安い。若いカップルが両地区に続々と持ち家を構えているらしい。しかもこの辺の都道沿いには三軒のスーパーマーケット「げんろく」「八木商店」「さむかわ食賓館」があり、島のドン・キホ-テこと「やすとく」もある。大島空港寄りには野菜即売場「ぶらっとハウス」もある。小・中学、高校も近い。改めてこの地区が大島で最も生活便利な地区になっていたことを認識した。

 この変化は、大島広報誌の人口統計からも伺える。島の南部・北部の人口減が目立ち、今は「北の山+岡田」の人口が元町に肉薄している。広報誌の「お誕生おめでとう」コーナーでも、春の新生児5名中4名が「北ノ山」だった。差木地の保育園定数が減少して、北ノ山保育園定員が増員されている。

 広報誌は町別人口だけではなく、町別年齢層比も発表したら、興味深いデータになるような気がしないでもない。大島滞在の最後に楽しんだ「軽トラ市」(北ノ山や岡田の青年会主催?)で見た島のニューファミリー層に明日の大島の若さ、希望、パワーを感じて、とてもうれしくなってしまった。


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伊豆大島10「坂を曲がり下ると~」 [週末大島暮し]

wagayahe2_1.jpg ロッジの防腐剤塗装の合間に、大島最後のスケッチをした。この坂を下り曲がると我がロッジに至る。描く地点からもう少し下れば、防風林奥の白亜邸隣に小さな我がロッジ屋根が見える。

 往き復りの船の中からも、白亜邸奥の小さな屋根が見える。24年前にロッジを建てた当初は、防風林ん中に隠れるように2軒だけが建っていた。今は家数も増え、なんだかんだと防風林が伐採されて〝海一望〟なった。

 海が見えるようになって、冬の強烈な西風をまともに受けるようになった。怖くて〝冬の大島暮らし〟はできない。建てた当初は「島は冬暖かく、夏は涼しい。クーラーなんかいらないよ」と言われたが、次第に夏は灼熱化した。テレビの天気予報が〝老人は熱中症で死ぬぞ〟と脅すので、夏は東京のクーラーの部屋に籠るようになった。あたしにとって島は春と秋がベストシーズン。島の自然環境も変わり、島の状況も大きく変わった。

 絵は色使い、筆使いが汚いと(この絵のように)見るに耐えぬ。下手でも思い切りの良さ、潔さが肝心(=写真のように描こうとしない)と反省。それが初スケッチ行で得た〝私流水彩画の方向性〟のような気もする。さて、次から〝潔い水彩画〟が描けますでしょうか。明日は5月10日開催の「軽トラ市」について記し、今回の大島シリーズを終える。


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伊豆大島9「 ロッジの防腐剤塗り」 [週末大島暮し]

wagaya1_1.jpg 海っぺりの家の金属は、あっという間に錆びる。ロッジは木造だがメンテナンスは欠かせない。島に行く度に中野のホームセンター「島忠」で購った4リットル防腐剤を持ち込み、外壁やベランダなどをちょこちょこと塗ってきた。

 今回はひょんな事で、島でケミプロ化成「アリシスステイン(油性 ウォールナット)」の一斗缶=16リットル(防腐・防虫・防蟻木材保護塗料。2万円ほど)が入手できた。次に島に来るまで間が空こうから、一斗缶すべてを使い切ってしまいたい。

 「おまいさん、絵なんか描いている暇はないよぅ」。いやはや大変なことになってしまった。幸い前回の島暮しで脚立を買った。これに乗ってロッジ外壁とベランダ(建物全四面の二面分)を三日をかけて塗った。

 塗っている刷毛が錆びた金属部分に触れただけで、それがボロッと落下した。おぉ怖い・怖い。海辺の家の理想は金具を一切使わぬ建築なのだろう。「錆」は鉄の酸化だ。潮風がいけないのは塩分を含んだ水分が酸素と作用して錆の進行を早めるとか。防腐剤を塗っているこっちの身体も、酸化による老化、塩分による高血圧、血管劣化、痛風などでボロボロ状態。こっちも何時ボロッと逝ってもおかしくない。

 ロッジのスケッチは、今までに何度かトライしたことがある。ここはこういう斜線かなと思えば直線で、直線かなと思えば斜め線だったりで単純なはずの遠近法もままならず、数分で描くのを放棄していた。今回は絵の内容は別に初めて描き通した。描こうという気持ちが優ったのだろう。描くことのひとつの壁を乗り越えたような気がしないでもない。油性防腐剤を塗り終わった後は、この絵より濃い色でテカテカと輝いている。


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伊豆大島8「底付蚊帳と殺虫剤」 [週末大島暮し]

musikoro1_1.jpg 某日夜、寝ていたら「キャッ」という声に起こされた。洗面所の網戸にタランチュア似のクモが張り付いていた。忍び寄ってサッと硝子戸を締めて一件落着。また別の夜「キャッ」の声に起こされた。台所流しに今度はアシダカグモらしきクモがいた。

 叩き起こされ、頭の回転悪く対処策が浮かばない。ムカデなら熱湯をかけて一瞬で終わるが。クモはどうすればいいのだろう。ふと殺虫剤が眼に入り、これで弱ったところを紙に包んでトイレに流した。このクモはゴキブリを食う益虫らしいが、部屋ん中にいれば新宿育ちのかかぁは一睡も出来ない。

 クモ騒ぎで眼が覚めたので、殺虫スプレーを描いた。虫の時期なのだろう、スーパーへ行くと各種殺虫スプレーがズラリッと並んで壮観だった。殺虫剤を描きつつ、スズメバチと闘ったことなどを思い出した。最初はまだ二階ベランダがあった頃で、軒下に巣を作られた。忍び寄ってビニール袋を被せ取った。二度目は玄関天井に巣を作られた。バズーカ―砲風の殺虫剤と棒を武器に除去した。今思い出してもヒヤリとする。

 ヘビ、ムカデ(刺され痛さにのたうち廻ったことがある)、スズメバチ、巨大クモ等々~これらが怖くちゃ田舎暮らしは出来ない。あたしらは共に東京育ちで、大島で初めて遭遇する生物たち。喰われ・刺されたくないが、彼らの生命をむやみに奪えない。

 せめて夜は安眠と参りたく、高額の底付き本格蚊帳を購った。最近は蚊帳を吊るのが面倒でワンタッチで広がる底付きナイロン製蚊帳(数千円)で寝ている。都会育ちの島暮しには底付き蚊帳と殺虫剤は欠かせない。


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伊豆大島7「岡田漁港」 [週末大島暮し]

okadagyokou1_1.jpg いやはや難しいスケッチだった。多くの線が複雑に交差して遠近法もままならぬ。描く姿なんぞ人に見られたくないから、鉛筆5分+ペン5分でデッサンを終了。着色と仕上げはロッジでやった。己の絵を見て、早くもワンパターンっぽいと反省した。大島シリーズが終わったら、他の描き方もやってみたい。

 かかぁの新宿の友達の息子らが、船釣りに凝っている。釣りに行った夕方は必ず電話があって、釣果のお裾分けに預かっている。その息子らが最近になって伊豆大島に通いだしたが、お裾分けの電話がさっぱり鳴らぬ。きっと釣れないか、大物狙いなのだろう。

 友人おばさんは、大島ロッジに二度ほど泊まっている。息子らの釣りグループはどこに泊まって、どこの船で釣りに出ているのだろうか。おばさんにはよく会うが、息子にはなかなか会えず、大島釣りの詳しい話はまだ聞いていない。

 岡田漁港スケッチは実力が試されそうだ。春と秋の二度、五年で十枚も描けば多少は満足できる絵になるだろうか。漫然と描くのではなくテーマを絞り込まなければいけない。色使い、筆使いをもっと多彩にしなければいけない。

 水彩画入門書をみると、透明水彩画には「テッシュペーパーの使い方」「洗い出し」の技法があり、さらには「スクラッチ(削る)」「マスキング(覆って白を残す)」「クロスハッキング(エンピツやペンの斜線で濃淡をつける)」「ウォッシュ(濡らし流しつつの着色)」「ウェットインウェット(塗れた色の上に濡れた色でにじませる)」「グレイジング(乾いた色の上に重ね塗る)」などの技法もあるそうな。

 むろん、それら技法のトライも今後のこと。絵の道へ進み込むのは容易じゃない。かかぁの友人の息子らの大島船釣りが、満足な釣果を得るのは一体いつになろうか。


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伊豆大島6「新鮮野菜と花」 [週末大島暮し]

wat1_1.jpg 大島はガソリンをはじめ全物価が高い。船で運ばれてくるから当然なのだろう。島ゆえ魚が豊富・安いと思いがちだが、そうは問屋が卸さない。地魚が少ない。新宿暮しで魚が食いたければ、小田急ハルク地下へ行けば全国の旬の魚が揃っている。

 島では意外に思われるが、野菜が新鮮で安い。野菜即売場「ぶらっとハウス」があって、農家さんが早朝出荷で、島民が開店同時に列をなす。あたしらは大島で大輪の「ハナオクラ」を食らう愉しみを知った。芋状根菜「ヤーコン」を段ボールで新宿へ送ってもらったこともある。明日葉やキヌサヤは特産で大島土産になる。この時期は夏野菜の苗も売り出される。西瓜の苗を植えておくと、夏に島に来た時にゴロゴロなっている。

 そしてなにより安いのが花だ。今回は「カラー」3本300円を買った。東京なら1本3~500円だろう。市場を経ないとかくも安く元気だ。またこの時期には我が家周辺には「ワトソニア」の白い花が咲いている。南アフリカ原産で、英国の植物学者ワトソンにちなんだ名とか。実はこの地は昔は「ワトソニア」栽培地だったらしく、ロッジ建築当初は庭を掘れば球根が続々と出てきて、それが今も生きている。

 スケッチは「ワトソニアとフリージア」。最初に白い大輪の花「カラー」を描いたが、白を塗らない透明水彩で白い花を描く技量があたしにはなかった。


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伊豆大島5「岡田港のエギング」 [週末大島暮し]

0kadaturi2_1.jpg 早朝、岡田港へ写生に行った。堤防で若いカップルがエギングをしていた。釣果を伺うと保冷バッグを指さす。旨そうなアオリイカが入っていた。

「僕もエギング用具を揃えたが、まだ一杯も釣れていない」と告白すれば、「最初の一年は僕もそうだったよ」と言い、「3時~6時にヒット率が上がるから一緒に釣ろうよ」と誘って下さった。

 港でデッサン二枚後、ロッジに戻って久し振りにエギング竿を引っ張り出せば、かかぁが「おまいさん、まだ草刈りが済んでいないよぅ」。半年振りの草刈機エンジンが動くはずもない。試みに始動ロープを引っ張れば、なんと「ブルルッ・ブルンブルン」と小気味よく唸り出したじゃないか。これはやるしかない。

 結局、スケッチ着色もエギングにも行けずに雑草刈りに奮闘。誘ってくれた若いカップルに「ごめん・ごめん」と謝りながら庭仕事に汗を流すことになった。翌日、エギングの仕度を整えて岡田港に行くも、彼らにはもう逢えなかった。

 堤防スケッチに若いカップルのエギング姿を描き加えて着色した。相変わらず木々(森)が描けぬ。海を描く難しさも知った。それでも悩みつつ筆を動かしていると「あぁ、そうか」という要領を一つ二つと覚えることになる。エギングもスケッチも始めたばかりで、面白くなる域には未だまだ入っては行けない。


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伊豆大島4「キジとキョン」 [週末大島暮し]

kiji1_1.jpg アカッパゲのスケッチをしていると、近くの礒岩の上にキジがとまった。普段ならば、この辺の礒岩にはイソヒヨドリがいるのだが、キジとは驚いた。そう云えば島に着いて車で我がロッジに向かう途中でもキジを見た。野菜即売場「ぶらっとハウス」前の牧場や飛行場では常にキジを見た。「ケーン・ケーン」とキジの鳴き声もよく聞いた。

 キジが殖えているのだろうか。キジは蛇を食らう。芭蕉句「蛇くふときけば恐ろし雉の声」。そういえば今回は蛇を見なかった。キジよ!もっと殖えろと思った。

 ロッジから海に出る防風林で、車の前をキョンが横切った。この道はコジュケイらが出没するが、キョンとkyon_1.jpgは驚いた。キョンは大島動物園の中で放し飼いされていた時期があり、それが脱走して大繁殖したのだろう。同じくタイワンリス、タイワンザルも脱走して大繁殖している。ベランダで昼寝をしていたら、眼の前を長い尾をユサユサさせながらクジャクが横切ったこともある。昔の「島の新聞」を読むと、熊三頭の脱出が報じられていた。

 11日間の島滞在を経て帰京すると、自宅ポストに「大島支庁土木課管理係」からの封書。何事だろうと封を切れば「岡田新開地に土地をお持ちの島外地権者の皆さまへ」とあった。そんな手紙は24年間一度も来たこともなく驚いた。読めば「キョン防除説明会のご案内」、及び捕獲事業者の敷地内立ち入り、柵やワナの設置、必要な場合は一部草刈りなどの了承をいただきた旨の文面。キョンが相当に殖え、農作物を荒らしているらしい。

 久し振りに島暮しをすれば、さまざまな変化に気付く。キジと一瞬見たキョンを早描きした。


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伊豆大島3「アカッパゲ」 [週末大島暮し]

akappage1_1.jpg アカッパゲ(赤禿)を描いた。サイクリングロードと車道が坂を登って視界から消えている。そこが面白いのだが、それが上手く描けない。エンピツからボールペンのデッサン。描き直し三度目で着色した。

 ここから望むアカッパゲは迫力がないも、実際にアカッパゲ先端に立てば断崖絶壁。地球の曲線がわかるような壮大絶景なり。昔々、悪さを繰り返した流人が簀巻きにされてここから投げられた、と何かで読んだ記憶あり。

 今は自転車の大ブーム。あたしも東京では自転車乗りだ。島友Hもとっかえひっかえ新たな自転車に乗り始めている。そんなブームを反映して、大島にも自転車乗りが大勢やってくる。坂道が多い大島は〝チャリダーの聖地〟とか。坂にアドレナリンを滾らす彼らが駆る自転車は、あたしの中古軽自動車より高額だ。

 昨年12月のブログに「サンセットパームライン小史」を記した。昭和12年にハイキング道路として、そして昭和62年に自転車道を拡張して、その名も「サンセットパームライン」に命名。その意では自転車ブームを先取りしたのだから、大島は釣り客、ダイビング客に次いで自転車乗りの集客にアイデア&サービスを積極展開すれば、より多くの自転車愛好家の来島が望めよう。来年1月にはアジア自転車競技選手権のロードレースが大島で開催とか。島として、どこまで盛り上げられるか、集客できるかに手腕が問われよう。

 そんなことを思いつつスケッチしていれば、磯岩にキジがいた。今回の大島では至る所でキジを見て、キョンも見た。自然界にも何らかの変化が起こっているらしい。明日は「キジとキョン」。


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伊豆大島2「サントリー角瓶」 [週末大島暮し]

suntory2_1.jpg 早起きをしたら、まだ暗かった。島ロッジの東は山麓ゆえ、太陽が山を越えねば陽光が満ちぬ。そこで部屋ん中で静物〝角瓶〟をスケッチした。

 数年前から酒が呑めなくなった。〝老い〟ゆえで、それを自ら言うに抵抗ありだったが、テレビを観ていたら78歳・加山雄三が「僕かぁ~もう酒も煙草もやめた。幸せだなぁ」と胸を張っていた。ふむ、あたしも振り返れば連日ハシゴ酒の時代が長かった。今はもう胸張って「酒が呑めなくなった」と言ってもいいかと思った。友人に「もう呑みには行かんよ」と宣言した。

 横井也有が『鶉衣』に「断酒弁」を記したのは41歳だった。「いたましう酒のあたりけるまゝに(中略)試に一月の飲をたてば身はなら(楢)柴の木(生)下戸となりて(中略)「花あらば花の留守せん下戸ひとり」と詠んだ。島ではハイボールをちょっとだけ呑んだ。そのウィスキー瓶を描きつつ、絵を描くことに興味を持った理由を己に問うてみた。

 実はブログ総閲覧数が150万を越えた。記事数1500ほどで概ね写真付き。思えば一眼レフは20代から常に手にしてきた。その写真になんだか飽きてきた、倦んできた。

 今は誰もが「スマホで写真」。しかも超高性能で実にクリアでいい写真が撮れる。ヘソ曲がりのあたしは、そろそろカメラのやめ頃かなぁと思った。写真に代わって絵ではどうか。〝絵が描ければいいなぁ〟となった次第。ってことは風景画に限らず静物、人物、イラストなんでも描いてみたい。


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伊豆大島1「乳ヶ崎」 [週末大島暮し]

keikaiske_1.jpg 今回の大島暮しのテーマを、ひそかに〝スケッチ練習〟と決めていた。そのために初の透明水彩絵具12色、パレット、水彩筆なども準備した。

 最初に描いたのはロッジ前の磯・ケイカイから乳ヶ崎(野田浜)を望む景色。ロッジを建てた当初(24年前)は、まだ若かったゆえに日々この磯で潜ったものだが、今は老いた身体をいたわりつつのスケッチに相成候。

 当初は〝ケイカイ〟の意がわからなかったが、朽ちかけたコンクリート碑が今も残ってい、海面に「元村、岡田村境界」、裏面に「大正三年十一月廿四日建立」の文字が読み読み取れる。ややして「境界」の測量読みが〝ケイカイ〟と知った。

 スケッチはまず鉛筆で水平線、岬、手前の大きな溶岩のアタリをとってからボールペンで描き出した。着色はサッと淡彩。ゴツゴツした溶岩を描くのにボールペンが向いていた。苦手の〝草木〟がなかったので簡単だった。


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大島町も「消滅可能性町」 [週末大島暮し]

ohsimazennkei_1.jpg 3月22日の新聞に、4月の統一地方選では「消滅可能性都市」とされる多くの自治体で選挙が行われる、との一文があった。そこで「消滅可能性都市」を知るべく、同データ発表の「日本創生会議」のサイトを拝見した。

 平成26(2014)年5月8日発表のデータが公開されていた。「人口移動が収束しない場合に、2040年に若年女性が50%以上減少する人口1万人未満の市区町村が全国で523=これを消滅可能性市町村」。気になる大島町も予想通り?ランクインされていた。

 消滅可能性のある市区町村=東京都大島町のデータだけを以下に記す。2010年の総人口=8,461人/うち20~39歳女性631人。2040年予測の総人口=5.556人/20~39歳女性443人。2010年から2040年の若年女性人口変化率=マイナス33.2%。人口移動が収束しない場合の若年女性人口変化率=マイナス55.2%。うむ、確かに大島では若い女性は少なく、赤ちゃんを見る機会が少ないし、ご高齢者がとても多い。

 このデータは何年か前から発表されてい、消滅可能性自治体になった「豊島区」は衝撃を受けて、女性在住者獲得と活発化を促す施策を模索していた。今月22日のテレビを観ていたら、若い母親らに提案を求めて「出産前の育児支援」「女性の起業」など〝消滅可能性都市からの脱却〟に22億円、50事業の展開を早くも決定と報じていた。

 さて、大島町はデータが発表されてから、若い女性の在住者促進に何らかの施策を打っているだろうか。いや、端から東京都頼りゆえに「消滅可能性市町村」といわれても問題意識も持たぬような気がしないでもない。

 時に島に滞在するあたしらも老人だが、島はご高齢者が多い。昔から若者は高校卒業と同時に島を出て行き、若い母親と赤ん坊は滅多に見ない。あたしらは島に行けばロッジから出歩かずに静かに暮らすだけだが、それでも前回の島滞在中に、三人の新たな移住者にお目にかかった。全員男性だった。これからは島に行って若い女性を見たら〝神々しく〟思い、赤ん坊を見たら〝宝物〟と思うに違いない。


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めらめらと燃へ行く後の我が身かな [週末大島暮し]

honoo1_1.jpg 台風で落ちた煙突を直していただいた。直し方が良かったのだろう、その後の幾度もの台風にも耐え、しっかり立っていた。昨年に伐採木をいただき、チェーンソーと斧で薪を拵えておいた。それで薪ストーブを存分に愉しませていただいた。芋もいただいた。アルミホイルで包んで放り込み、幾本もいただいた。

 「いただく、戴く」と謙譲語。かくも島の方々の助けをいただいて「薪ストーブ」を愉しみ、「島暮し」をさせていただいている。燃える木々も伐採されるまでは自然の摂理を果たしていたのだろう。それをいただき暖をとる。

 ロッジを建てた20数年前は血気盛んだった。ストーブの中で元気よく燃え上がる炎を見つつ昔を振り返る。炎はやがて熾火になり灰になる。さて、心静かで穏やかな隠居暮しが送れるだろうか。

 ストーブの暖に包まれながら横井也有「鶉衣」を読んだ。こんな文があった。~官路の(小生は場合は生涯フリー)険難をしのぎ尽し、功こそならぬ、名こそとげね、ほまれのなきは恥なきにかへて(小生は誉もなく恥は多く)、今此の老の身しりぞき、浮世の塵を剃りすつべきは、いかでうれしとおぼさざるや。

 これは也有翁が隠居して髪を剃る辨だが、あたしはすでに40代で長髪を切って坊主頭なり。さて隠居して浮世のどんな塵を払うべきかと考えてみた。<秋の大島暮しシリーズ>これにて終わり。


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マメガキとメジロとローズマリー [週末大島暮し]

kakine_1.jpg 島滞在中のこと。某氏がミニ柿の鈴なりの小枝を持ってきた。「メジロが群がっていた。食ったらちゃんと柿の味がした。食ってみろよ」。甘い柿。調子にのって食えば、渋いのに当たった。口を濯ぐなどエラい目にあった。「リュウキュウマメガキ」らしい。

 ガーデニングに凝った時期がある。某年、台風の塩害で全滅した。ロッジ前の三峰山も一夜にして枯れ山。この地でガーデニングは無理と諦めた。今秋はグミもクチナシも朽ちていた。

 先日、テレビで瀬戸内・離島のミカン農家を紹介していた。南斜面に見事に実ったミカン。塩害とは無縁の地と思いきや、塩害で全滅してゼロからやり直した当時の辛さを思い出して涙ぐんでいた。そうか、〝諦めちゃダメ〟ってことか。

 いまロッジの庭に残るのは垣根化したローズマリー、ソテツ2本、新宿の近所のオバさん連を招いた時に誰かが〝引き出物の苗〟を植え、今では6㍍を越える杉だけ。味気ない庭を見つつ「また庭作りを頑張ってみようか」とも思うが、西(季節風)の強いこの地ではやはり無理だろう。

 いま新宿の自宅ベランダに、大島のあの「マメガキ」が挿し木されている。根付くか、朽ちた実から芽が出るか。ひょっとしてうまく育って秋に柿が実れば大島のようにメジロが集うかもしれない。

jitakumejiro_1.jpg 新宿にメジロ? 意外に多いんです。7Fベランダで早春に咲くローズマリーにメジロが遊びに来る。それでは蜜が足りなかろうと、半切りミカンを串刺しすれば幾羽も遊びに来る。窓越しだが2㍍先で戯れるメジロを日々愉しんで4年。メジロらがパタッと姿を消すと辺りは春爛漫。新宿御苑の寒桜にメジロが群れる。

 昨年、新宿西口の雑踏の歩道にメジロの死骸があった。都市にメジロが殖えている証拠だろう。島のメジロは「シチトウメジロ」。新宿メジロとは種が違うが、大島ロッジと自宅のローズマリーは同じ挿し木で殖えたもの。ベランダには明日葉も育っている。「マメガキ」も根付いてくれたら島と新宿の絆がまたひとつ増えるのだが~。


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サンセットパームライン史 [週末大島暮し]

palmline1_1.jpg ロッジ前の大島西海岸「元町・長根浜~乳ヶ崎下・野田浜」にサンセットパームラインが走っている。片側が磯、反対側が防風林。海側にサイクリングロード併設。人家なく生活感のない美しい海岸ロード。

 同道の歴史を探った。まず昭和12年の「島の新聞」。~府は世界第二の人口を誇る大東京の六百万人の健康と行楽のため、昨年来六十八路線八百五十七粁(㎞)のハイキング道路の建設に着手中であったが、大島にも元町から乳ヶ崎に至る延長十粁のハイキング道路の工事に着手し、今秋までに完成の見込み。幅員二米乃至二米半、勾配は十分の一以内とし移動パノラマ式に雄大な自然美が眼前に展開するやう苦心が払はれている。ハイキングファンは勿論一般大衆にとっても好適の行楽地となる事が充分に期待し得られ、観光大島に又一つ名所が増えたわけである。

koujitocyu_1.jpg 大島循環道路開通が昭和38年。なんと、その26年前に開通。昭和初期のハイキングブームの反映、軍部による体力増進の意図もあったか。次に昭和60年刊の「航空写真で見る伊豆七島の海釣り」。詳細な航空海岸写真で釣りポイントを紹介。その写真集を元町から見てゆく。元町港待合室は屋根の連なりで、長根浜公園は出来たばかりで「浜の湯」は未だなく、御神火温泉の地は林。泉浜は垂直護岸だけでスロープ状護岸もトイレもない。アカッパゲは展望台なし。万立もスロープ護岸なし。ケイカイの我がロッジ辺りは防風林で四角く囲まれた畑(アヤメ科ワットソニアの栽培畑と聞いたことがある)。野田浜は駐車場が出来ているも護岸工事前。

 次に「大島町史」。~昭和62年に自転車専用帯も設けて拡幅整備。名称は公募で「サンセットパームライン」と名付けられた。(この時にヤシが植えられたのだろうか)夕日の眺望が素晴らしく、サイクリング利用者や観光客に親しまれている。

koujitocyu2_1.jpg 生活道路ではないから人家なく、交通車両も僅少。あたしが島通いを始めてからのロッジ辺りの同ラインの変化は~ 「ハマユウの丘」が出来たが、すぐに手入れなく藪と化した。その近くの防風林が大伐採されて塩工場ができた。「ケイカイ」も某年にコンクリ坂道+階段が出来ていた。そこから野田浜寄り絶壁が目下護岸工事中(写真上の坂道先が未完成。ここはどんな風になるのだろうか?)。その海は珍しく砂地。海まで下りられるように造られれば、秘密の海水浴ポイントになり、投げ釣りも釣果が期待できそう。

 一方、ロッジ前の防風林を山側に歩けば、当初はテニス民宿があってコートを拝借していたが、今はない。近くまで舗装路が伸びてきて人家も増えた。突き当り右側に新しいダイビングショップも出来ていた。忘れられたような地だったが、それなりに開発の手が忍び寄り、サンセットパームラインの自転車道もかなり老朽化した。


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伊豆大島で店・家を建てる [週末大島暮し]

osimaie_1.jpg 大島に通い出した平成3年頃の、伊豆大島の人口は1万2千人ほどで、今は8千3百人ほど。人口も観光客も減少中だが、今回の島暮しでは、三人の新たな島移住者にお会いした。島に新現象がおきているのかもしれない。それはさておき、移住に〝家〟は欠かせない。

 「伊豆大島ハワイ熱帯植物園」調べなどネット巡りをしていたら、伊豆大島に店・家を建てた手記本の新刊が二冊あった。まず最初に紹介は、今年10月刊の馬場仁氏による「自分の手で店をつくる」。同氏による「馬場自然農園」だったかのサイトは何度か拝見したことがある。氏はフジテレビ(河田町)の取材カメラマン8年を経て、36歳で大島移住。農業(養鶏)を生業にしつつ自宅をはじめ大小の家を作ってきて、今回は差木地の自宅脇に15坪のセルフビルドのカフェを240万円で作った。

 資材は主にヤフオクで調達。古民家の梁18本45,500円で落札し、落札額以上の輸送費。中古電柱は運賃込みで7万円。内装、厨房、オーディオ機器、テーブルなど次々にヤフオクで落札し、基礎工事から完成までの苦労が書かれていた。無事開店でハッピーエンドと思えば、2年を経て体調不良(腰痛)で休業。再開店に臨んで床下腐食でまた大工事。今は隔月営業とか。お洒落なカフェ「スペイキャスト」にぜひ訪ねてみたい。

 次は平成24年刊の奥井正雄氏の「終の棲家を建てる~伊豆大島、一七〇〇日の闘い」。58歳、貯蓄と年金を計算すれば78歳でホームレスになるの結果で、賃貸生活から〝終の棲家〟を建てると決意。予算2千万。房総、伊豆、九州、四国を調べて伊豆大島へ。最初は「岡田新開」で220坪600万円が決まりかけるも、他の人に渡ってしまう。差木地で329坪800万円で購入。

 ミサワホーム坪25万円の家が気に入るも、島での施工不可。著者は建築学科卒。同ホームのデザインを真似て自ら設計。島の建設会社の見積額に、資材の自己調達を決める。11ヶ月及ぶ完成までのドキュメント。結局、当初予算2千万が3千5百万。移住7年後に建築当時を振り返りつつの執筆。

 皆さん〝家〟作りに大変な苦労をされているが、あたしの場合は米国レイクタホでスキーをした際に借りたロッジを小スケール化した厚紙模型を作って、後は丸投げの安普請小屋(ロッジ)。横井也有『鶉衣』に~吉田の法師にとへば、冬はいかなる所にもすまる、あつき比(ころ)わるき住居はたへがたしとぞ、とあった。


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蟷螂の片手の思案我になく [週末大島暮し]

kamakiri_1.jpg 俳句って、いい遊びですね。お金使わずしばし没頭。下手こそ愉しいかも。下五が決まらない。歳時記をひもとけば「カマキリ(蟷螂)」でも、多くの有名俳人が詠んでいる。島で撮った写真を見つつ、あたしも駄句遊び。

 都会暮らしは隠居とて気ぜわしい。だが「のんびり」がモットーで、パソコンも持ち込まぬ島暮しでは、虫と遊ぶ心の余裕も生まれる。オイルスティンを塗ったベランダにカマキリが遊びに来た。前肢を出し、歩き出すかと思えど引っ込め、またそっと前に出して動こうとしない。

 何を考えているのだろう。春に孵化し冬前に卵を産んで死ぬらしい。短命なのに、そんなに優柔不断でいいのだろうか。そう思って、かかぁに言えば、こう返ってきた。

 「おまいさんがセッカチなんですよぅ。ここを建てるのだって、変なチラシに飛びついて勝手にコトを進めて。高い船賃、海ガ荒れれば船は出ず、物価は東京より高く、車は錆びる。陸続きのロッジだったらもっと気軽に通えたものを。せっかちを反省してよ」

 ちなみに竹芝~大島のジェット艇は往復15,740円。ANNの往復は2万数千円か。いつも二人連れだからその倍で、ガソリン・灯油・食費に加えてメンテナンス費用~。竹芝桟橋に向かう途中で眼にする格安海外ツアーの金額に、つい見入ってしまう。

 カマキリのメスはオスを食うそうだが、不便な離島にロッジを建ててしまったあたしは、かかぁにまだ食い殺されてはいない。もう残り少ない余生。カマキリのようにのんびり、大らかに生きて行きたい。


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幻の伊豆大島ハワイ熱帯植物園 [週末大島暮し]

hawaiisyokubutuenn_1.jpg 島で散歩中に廃墟「伊豆大島ハワイ熱帯植物園」の前に出た。島通い20年の当初より廃墟で気になっていた。いい機会ゆえ調べてみた。

 ネット検索すれば、いとも簡単にわかった。PDFファイル「熱川バナナワニ園50年の歴史」がヒット。伊豆・熱川温泉に開園(行った記憶がある)した同園の経営で、昭和49年に「伊豆大島ハワイ熱帯植物園」を開園。昭和60年8月31日に閉園とあった。経営的にうまくいかなかったのだろう。昭和60年閉園なら、島の方なら入園体験があるかも知れない。今度島に行った時に、どんな植物園だったかを聞いてみよう。

 「熱川バナナワニ園」研究員によるサイト「学芸員の独り言」の昨年夏の記述に、こんな一文があった。~(キミノバンジロウが)伊豆大島ハワイ植物園では露地に列植されていて、完熟した実がとても甘く風味あり最高に美味しかったのが強く印象に残っている。

 キミノバンジロウ(黄蕃石榴)は侵略的外来植物らしいが、別名イエローストロベリーグァバ。フトモモ科バンジロウ(グァバ)属。甘酸っぱくジューシーな黄色い実が秋に成るらしい。今もひょっとすると同廃墟の金網脇に実が成っているかもしれない。これも次の島暮しで調べてみよう。

 我がロッジ近くにも〝ミニ廃園〟がある。何年前だったか、久しぶりに島に行くと、道路沿いに突如「ハマユウの丘」なる東屋付きの公園ができていた。ハマユウが咲き誇る景色を期待していたが、花も咲かず手入れもされず、今は藪と化している。

 追記:昭和63年刊「郷土資料字典」(人文社)に、すでに閉館後なのにこんな紹介文が載っていた。~面積1万6,900㎡。世界各国から集められた1,500種、3,000余本の椿が植栽されているほか、6棟の大温室がある。温室内には、大島と姉妹島関係にあるハワイで収集されたハイビスカス182種をはじめ、ブーゲンビリア、熱帯性スイレン、カトレアなど1,100種5,000本が植えられてあり、四季折々美しい花をみることができる。交通は元町港と園の入口を往復する遊覧馬車を利用(有料)するのが便利。へぇ~、遊覧馬車とは驚きました。

 追記2:ウィキペディアの「大島空港」を見たら、2009年と1976年の航空写真(国土交通省国土画像)が載ってい、それらしき六つの温室らしき建物が写っていた。


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冬鳥が道を誘ふ藪の道 [週末大島暮し]

kisekifrei_1.jpghoojiro1_1.jpg 閑散とした枯葉舞う小道を車で走っていると、黄色い鳥が道案内するように先を飛んで行く。キセキレイだ。ベランダで日向ぼっこをしていたら、草刈り後の庭に二羽の鳥が舞い降りた。ホオジロのつがいが草の穂を啄んでいた。寒さ厳しくなった北の山から下りて、この辺で越冬〈島)するのだろう。車の前を赤っぽい鳥が幾羽も飛び交った。ジョウビタキ。こちらは中国、シベリアからの渡り鳥。

 昭和12年の「島の新聞」に内田農学博士の記事あり。大島で確認の野鳥は86種。留鳥23種、夏鳥7種、冬鳥24種、迷鳥10種、旅鳥5種。他が17種。

jyobitaki_1.jpg 季節毎に多くの野鳥が島にやって来るが、島の観光リピーターはどれほどか。昨年の大災害影響もあろうが、観光集客は端から減少傾向。今は「復興キャンペーン」で宿泊者やツアー客に相当の割引展開がされているも、多くの島民はお金(都の補助)施策は一過性で、抜本的な集客対策にはならぬと気付いている。

 昭和10年「島の新聞」にこんな指摘があった。~(純農村島から遊覧大島になったが)我々の耳目には彗星のように飛来しては消え、忘れ去られる遊覧地の例を多く知っている。「遊覧地は処女の如し」などと云う言葉さへも産み出されている。

 同文は「都会人が求めるだろう島本来の自然、純情、素朴さ、雰囲気を大切にするのが何よりだろう」と結ばれていた。今から79年も前の指摘。それらを大事にしてさえいれば、季節毎に多くの野鳥が戻ってくるように、観光客も戻ってくるような気がしないでもない。(参考:来島者推移=昭和48年84万人、平成3年53万6千人、今は20万人くらいかな)


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海越えの姿は見えぬ富士の笠 [週末大島暮し]

kasagumo2_1.jpg 大島ロッジから磯に出ると正面に富士山が見える。海越え、伊豆半島越えの富士。写真を撮った日は、富士の姿はなく「笠雲」だけがあった。これまた趣なり。

 島暮しでは夕方に「浜の湯」からサンセットを愉しむ。秋・冬の夕陽、富士山のシルエットの美しいことよ。先日、ハワイ観光のテレビを観ていたら〝夕陽ポイント〟に人々が集い賑わう映像があった。大島では至る所〝夕陽ポイント〟だが、秋・冬は冷たく強い西風でジックリと愉しむこと叶わず。その意では温泉に浸りつつの夕陽鑑賞は別格、至福なり。

 ハワイがハイビスカスなら、大島はツバキだろう。陽光に育まれたハイビスカスに比し、寒さに育まれて咲き誇るのがツバキ。「藪椿門はむぐらの若葉哉」は芭蕉句。むぐら=葎。蔓草の総称。庵に藪椿が咲き、門に繁った蔦には若葉が芽吹いているよ。

yuhi1_1.jpg 大島で自生しているのは「藪椿」。椿を季語分類すれば「藪椿・玉椿・赤椿・落椿・散椿・花椿・八重椿」などが春。「寒椿=山茶花と藪椿の交配種」は秋。「雪椿=藪椿の変種」「冬椿」は冬。

 ハイビスカスと藪椿の違いは大きい。大島にハワイのような開放的・陽気なリゾート感を求めるのは無理だろう。

 笠雲だけで姿を現さぬ富士山をみつつ、大島の魅力とは何なのだろうと改めて考えた。来春の大島「椿まつり」は1月25日~3月22日とか。


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西風(にし)備えこれも必需の高梯子 [週末大島暮し]

hasigo_1.jpg 都会の隠居暮しはシンプルライフ。使わぬ物は捨てる。だが島暮しはそうも参らぬ。各種大工道具(電動)、チェーンソー、草刈機、斧、鉈、熊手箒、シャベル、鍬、煙突掃除用具、釣り道具、ダイビング用品、コンクリ仕事のとろ舟、鏝、刷毛、七輪、BBQ、そして車~。東京暮しには不必要な物で溢れている。(しかも車は5代目、錆朽ちた物置も2代目をはじめ多くが買い替え)

 で、今度は念願の「梯子」を購った。何年か前に吹き抜けの照明が切れ、テーブルの上に椅子また椅子のサーカス技で電球交換をした。ペンキ塗りにも梯子は欠かせぬだろうが、急を要したのが吹き抜けの窓の鍵。内鍵で手が届かない。

 これから厳しい西風の季節です。ロッジが吹き飛ばされるかの恐怖。相当な重しを入れた物置も、西風にズルズルと動きだす。鍵かからぬ窓も隙間をジワジワと広げてゆく。防風林が伐採されて、冬は恐くて暮らせぬようになったが、冬の留守備えに窓鍵はシッカリと絞めておきたかった。島(田舎)暮らしに〝シンプルライフ〟は通じない。


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