雲のみね憑かれた夢の置き処 [おくのほそ道]
出羽三山の二つ目の芭蕉句は月山を詠っている。<雲の峰幾つ崩て月の山> 雲の峰が夕日に映え、月山を仰ぎ見れば空に淡い月。こんな月山になるまで、雪の峰は幾つ立ち崩れしただろうの意。
この句を「甲斐駒」にして私事を詠む。1960年秋、社会党の浅沼稲次郎が日比谷公会堂の演説会壇上で、17歳の右翼少年に刺殺された。同年、17歳のあたしは社会人の某山岳会に入会。大人のなかに少年ひとり。その時にアメ横で買ったジーパンに放出ジャンパー姿で、それが右翼っぽい、17歳、姓も似ているで「オトヤ」と呼ばれた。
以来、山男の日々。河原の石をリュックに詰めて荷揚げ訓練。寝ずに歩くカモシカ山行。冬季南アルプス縦走中に必死の伝令が来た。ベテラン勢がアタックの甲斐駒北壁で遭難の報。三名凍死。遺体収容は困難を極めた。ベースキャンプの山小屋生活が続いて電報が届いた。「ダイガクニュウガクテツヅキマニアワズゲザンセヨ」。
春、大学の山岳部に誘われたが断った。北壁で亡くなった先輩からいただいた赤シャツを着て山行を続けた。ザイルワークの沢登りを控えて涸沢にテント。深夜に「逃げろ」の大絶叫。着の身着のまま這い出て尾根際の木に飛び付いた瞬間、テントが土石流に埋まった。
その時に先輩のシャツを失したことで、なんだかプツンと糸が切れたようで山岳会を辞めた。今も山を、雲の峰を見上げると、そんな若かった山の日々を思い出すことがある。<雲のみね憑かれた夢の置き処>
冴へる月はだ干涸びて保湿薬 [おくのほそ道]
芭蕉は最上川から離れ、羽黒に6月3日~10日まで滞在した。3日に羽黒山に登る。呂丸を訪ね、会覚(えかく)阿闍梨に謁見。4日、本坊で俳諧興行。<有難や雪をかほらす南谷>(もじり済)を詠んだ。5日、羽黒神社に参拝。6日は行者姿になって月山(がっさん)登山強行。頂上の角兵衛小屋に泊。曾良は疲労困憊。7日、湯殿山を巡って南谷の宿舎に戻る。8日、会覚阿闍梨が南谷に来訪。9日、再び会覚が来訪し連句を完成。会覚に請われ、三山巡札の三句を短冊に書く。10日、午後1時頃に鶴岡へ。
まぁ、大充実の山岳修練の地・出羽三山(月山、羽黒山、湯殿山)だった。会覚阿闍梨に書いた短冊には、三山が詠まれている。まず31句目が<涼しさやほの三か月の羽黒山> 季は「涼し」。「ほの」は「仄」。ほのかに三日月が見える羽黒山にいると、いかにも涼しくよい気分であるの意。金森敦子著では芭蕉以後の旅人らも、山伏らに強引に出羽三山の登山を勧められていると記す。案内賃、宿料など金がらみの強引な誘いが慣例化されていたらしい。
さて「おくのほそ道」全句、これにて半分。まぁ、馬鹿な遊びを始めたもんだ。早くもマンネリだが途中で止められぬ。同句もじり遊びは「ほの三か月」を逆に「冴へる月」と季を冬にしたユーモア句、<冴へる月はだ干涸びて保湿薬> 去年あたりから冬になると手足が痒くなった。かかぁが「おまいさんのは乾燥肌ぢゃなくて、歳とって干からびたせいだよ」と笑うが、肌を美しく?保つには、掻く前に痒み止め入り保湿薬が欠かせぬ。絵は冴えた月を眺めつつ左手に薬容器、右手で薬を塗っている図。句と同じく数分即興描き。句は直してみたが、あぁ、共に救ひやうのないデキだ。
坂こいで愉悦溢るる桜坂 [おくのほそ道]
羽州路(うしゅうじ=秋田と山形の県域辺り)に入ると芭蕉さん絶好調だ。<閑さや岩にしみ入蝉の声>の次に29句目<五月雨をあつめて早し最上川>と有名句が続く。さぁ、この句をどうもじり遊びましょうか。こう飛躍してみた。<坂こひで愉悦溢るる桜坂> ※音便形の「い」は「ひ」にならず「い」。「坂こいで」が正しい。この絵の「ひ」は間違いですね。
五月雨の一粒ひと粒があつまってダイナミックに流れる・・・に似て、自転車も坂道を歯ぁくいしばって一漕ぎひと漕ぎ頑張れば、やがては頂に達す。あとはもう、ペダルを漕ぐ必要のない至福の下り坂。芭蕉句に似たダイナミズムがでたかしら。山の手からのポタリングは坂が避けられぬ。20㎞走れば10㎞は登り坂で10㎞は下り坂だ。
自転車フリークは「フリーク」ゆえバカが多いから、すぐ「ヒルクライム」を語りたがる。正直に胸の内を語れば「下り坂」ほど楽しいものはない。嵐山光三郎は「おくのほそ道」を自転車で辿ったそうだが「下り坂の至福」を語っていた。今年になって新聞広告に五木寛之「下山の思想」があって「下り坂が肝心」ってぇ惹句が踊っていた。
「下り坂」をバカにしてはいけない。あたしなんか人生下りきって隠棲の日々。下五は当初「下り坂」だったが季がないゆえ「桜坂」にしただけのこと。ふふっ、図に乗って筆で「書と絵」を描いた。それでも20㌅DAHONのEco-C7の雰囲気が出せたか・・・。もう少しサドルを高く描けばよかったかな。
減量の腹にしみ入るキムチ臭 [おくのほそ道]
芭蕉は5月27日、尾花沢から立石寺を一見すべきと、羽州街道を7里南下した。途中まで清風が用意してくれた馬に乗った。宿を決めてから山寺を見学。ここで詠んだのが28句目<閑(しづか)さや岩にしみ入(いる)蝉の声>
伊賀上野生まれの芭蕉は、二歳上の藤堂藩伊賀付き大将・藤堂新七郎良精の嫡子・良忠の俳諧相手として出仕(しゅっし)した。出世が期待されるも、良忠が25歳で早逝。芭蕉の波乱の人生がここから始まった。良忠の俳号は「蝉吟(せんぎん)」。芭蕉の胸には「蝉」に甘美な思いが秘められ、同句にはそんな思いも込められているとか。
さて、この有名句には、とぼける他になかろう。あたしは人気過熱のコリアンタウン大久保在住。人をかき分けないと歩けぬほど賑わっているが、そこに並ぶのは芸能グッズ店(先日のニュースで脱税告発の報)、韓国料理店、食材店、化粧品店、韓国イケメン店が繰り返し並ぶだけ。そんなワケで大久保通りを歩くってぇと、韓国料理の匂いが鼻をくすぐる。これがダイエット中の身にちょっと辛い。ってことで、キムチを勝手に秋冬の季語とし・・・<減量の腹にしみ入るキムチ臭>ともじった。昨夕、韓国食材店「ソウル市場」で白菜キムチ、ネギキムチ、ニンニクキムチを買った。
追記)11日、当ブログの画像ファイルがアップできなくなった。サムネイル表示が消え、<読み込み中>表示が固まったまま。さぁて、このブログもそろそろ止めようかしらと思ったが、「So-netブログサポートデスクMさん」より、操作指示のメールをいただいた。パソコン用語羅列で「Mさんや、隠居爺にそんなこたぁ~できるわけなかろう」と思ったが、んまぁ、そりゃ懇切丁寧な操作指示で、見事に直ったぢゃありませんか。ありがと。ブログを「So-net」にして良かった。Mさんがいてくれて本当に良かったと思った。明日からまた写真入りです。
蚕飼する祖父が見てゐた遠眼鏡 [おくのほそ道]
「おくのほそ道」尾花沢の4句目、計27句目は曾良句で<蚕飼する人は古代のすがた哉> 蚕の世話をしている人から、古の姿もこんなだったろうかと偲ぶ句。芭蕉は伊賀上野生まれ、曾良は信州上諏訪生まれ。共に蚕飼する家や人々の暮らしを知っていただろう。
定かな記憶じゃないが、あたしが赤ん坊時分に疎開していたらしい。終戦後の幼少期も父方、母方の田舎に長逗留していた記憶あり。父の実家は横須賀の山ん中。二階に蚕棚があり、蚕が桑の葉を食うザワザワという音を覚えている。横浜港からの輸出で、その地も養蚕が盛んだったか? 祖父は海軍出か、モスグリーンの大きな単眼望遠鏡を持ってい、山の上から、さも米軍の軍艦を監視しているように覗いていた。幼児期の記憶を語れば、姉がいつも「嘘ばっかり。とんでもない記憶違いだ」と腹を抱えて笑う。
定かでない記憶はさておき、芭蕉の時分、いやその前から続いていただろう養蚕や桑畑は、今はもう見ることも少ない。我が息子も蚕や桑畑を知らぬ日本人になった。古からの日本の暮しや情景が次々に失われ行くが、花や鳥は不変の姿で身近にいる。あたしの双眼鏡はNikonの「sportstar」で、ビッグカメラで1万円。使い勝手がすこぶるいい。鳥という古から変わらぬ愛らしい姿をピタッと捉えてくれる。原初が覗ける。
★So-netのブログ、相変わらずファイル=写真アップが出来ず。サムネイル画像表示がなく、<読み込み中>で固まったままだ。トラブルは苦情殺到など即反映が常だが、そんな様子もない。自分のブログだけのトラブルだろうか)。
南国を俤にして木槿かな [おくのほそ道]
尾花沢での3句目は<まゆはきを俤(おもかげ)にして紅粉(べに)の花>。 紅花の色や名から女性の化粧を連想して眉掃きを思い浮かべたという句。「眉掃き」は白粉を塗った後で眉を払うための小さな刷毛。見たことがあるような、ないような。ちなみにヒトリシズカ、ワタスゲの別名は「まゆはき草」。花の形が眉掃きに似ているのだろう。芭蕉にしては珍しく色っぽい。
連日「おくのほそ道」の句をいじり遊んで26句目。ちょっとダレた。昨日、一昨日の句と文を直すも気に入らず。とんでもない遊びを始めちゃったが、途中で投げ出すわけにはいかぬ。
さて、同句をもじって<南国を俤にして木槿かな> 大島ロッジに小さな庭があって、ガーデニングに凝った時期がある。南国リゾートっぽい花を試みて、ブーゲンビリアを何度か植えた。何度目かに屋根より高く伸びたが花が咲かなかった。ハイビスカスも数度試みたが、冬を越せず。そこでハタと膝を打ったのがハイビスカスに似た夏の大輪・木槿だった。散歩途中にいい色の花が咲いていれば10㎝ほど枝を失敬して挿し木で育てた。ねっ、きれいでしょ。・・・と言っても今朝のブログは写真アップが出来ぬ。
木槿を詠った芭蕉の有名句に「野ざらし紀行」の<道のべの木槿は馬にくはれけり>がある。季は秋。
大島に我家設けて鄙の冬 [おくのほそ道]
芭蕉は清風の配慮で尾花沢10日滞在のうち7泊を養泉寺で過ごした。ここで<涼しさを我宿にしてねまる也>と詠んだ。「ねまる」はくつろいですわるの、最上地方の方言。「古語辞典」にあり。芭蕉さん、この言葉を遣いたくての句だろう。今は尾花沢に「芭蕉・清風歴史記念館」なぁんてのがある。
さて、この句をもじって<大島に我宿設け鄙をぶり>。おっと、季語がないか。<大島に我家設けて鄙の冬>はどうか。東京生まれゆえ、田舎暮しを知らず。仕事でちょっと儲けた時期があってゴルフ会員権を買い、伊豆大島にロッジを建てた。バブル崩壊で会員権は紙屑になったが、島のロッジは大いに愉しませてもらっている。
海っぺり防風林に建つロッジは、周囲にウチと同じ小さな別荘が数軒あるも滅多に来ぬ。夕陽が落ちれば漆黒の闇。今の季節は海からの強い西風がゴーゴーと吹き、家が吹き飛ぶかの恐怖。木々が騒ぎ、胸が騒ぎ眠れぬ夜となる。風がなければ虫の音と波音。騒音が夜通し絶えぬ新宿暮しに比し、大自然にひとり投げ込まれたような鄙なる暮し。「蚤虱馬の尿~」はないが、ムカデも出た。夜は6面体蚊帳ん中で寝る。風呂場に蛇も出て、かかぁが卒倒したこともあった。そこまで鄙でなくてもいいのにと思うのだが・・・。
島に行けば、写真の手製長ベンチで「ねまって」読書。夏は裸で、冬は毛布を掛け、四季折々の鳥のさえずりが愉しみつつ読書している。
荷風墓見下ろし番うインコをり [おくのほそ道]
芭蕉は「封人の家」から「道さだかならざるば、道しるべの人を頼て~」厳しい山刀伐峠を経て尾花沢に入った。山々に囲まれた盆地。今は銀山温泉、花笠踊り、豪雪が有名。芭蕉の時代は紅花産地で、紅花商人で俳人の清風宅を訪ねて10日間滞在。芭蕉3句、曾良1句を残した。まず<這出よかひやが下のひきの声>。どこかでヒキガエルが鳴いている。蚕の飼屋の床下にいるのか、暗く侘しい所にいないでこっちに出てきて鳴きなさいよ。芭蕉はカエル好きだ。
この句もじりは<大久保の七階下の異国声>。我が街は芭蕉史跡に劣らぬ大人気コリアンタウンになってしまった。昔は静かな商店街だった。ヨン様人気でオバさんが群れ、K-POP人気で若い女性が増えた。コリアンビルも次々建って、人が溢れている。その一画から道路を隔てる我がマンションも侵食されてアジア系住民が増えた。否が応でもコスモポリタンさ。夜中に耳を澄ませば彼方此方から韓国語が聴こえる。
もう一句。<荷風墓見下ろし番うインコをり> 7日土曜日に自転車散歩で雑司ヶ谷の古本市~雑司ヶ谷墓地を走った。鳥の鳴き声に見上げれば檜の洞にワカケホンセイインコがいた。腰に携帯の1万円デジカメで撮れば、洞から雌が顔を出した。繁殖準備でしょうか。檜の下がちょうど永井荷風さんのお墓。根強いファン(あたしも)がいて、お花とワンカップ大関が手向けられいた。荷風さんは帰朝者だが、インコは外来種だ。
防災に冬仕度添え枕もと [おくのほそ道]
芭蕉は鳴子温泉を経て尿前(しとまえ)の関を抜けて出羽国(山形県)に入った。そこは馬の産地で宿はない。「大山をのぼって、日既暮ければ、封人の家を見かけて、舎(やどり)を求む」。「封人」は国境を守る役人。関所の役人ってことだろうか。同家は今も「陸羽東線=鳴子~新庄間=奥の細道・湯けむりライン」に遺されて観光名所になっている。築後推定350年で重要文化財指定。そこで「三日、風雨あれて、よしなき山中に逗留す」で、23句目<蚤虱馬の尿(しと)する枕もと>を詠んだ。しかし写真を見れば外観も内部もそれは立派なお屋敷。本当に芭蕉が泊まった家ならば、築後28年で「蚤虱馬の尿~」とはほど遠いイメージだったろうに。ここでの芭蕉句も虚構か・・・。
またここまでは主に歌枕を訊ね詠ってきた芭蕉だが、なんだか句の感じが違ってきた。「軽み」が出てきた。何か思い当ることがあったに違いないあ。
さて同句をどうもじりましょうか。元旦の東京に震度4の地震。今もし関東大震災級の地震が襲えば、寒気と瓦礫のなかに投げ出されよう。辛いのはこの寒さ。なれば<蚤虱馬の尿する枕もと>でも有難い。枕もとの防災バッグに多少の水と保存食が入っているが、用心に防寒ズボン、ダウンジャケットも添えましょ。<防災に冬仕度添え枕もと>。
芭蕉句、防災句に合う写真なし。再び書で逃げる。蚤虱ゆえ、白い余白を汚してみた。老いて絵心が芽生えた。次は筆で書に絵を添え彩色するかもしらん。図に乗らぬよう自重なり。
凩の吹きのこしてや名残り揺れ [おくのほそ道]
芭蕉は一関の宿から往復4里で平泉・中尊寺に足を延ばして22句目<五月雨の降のこしてや光堂>を詠んだ。あたりの建物はみな朽ち崩れているのに、五月雨はこの光堂にだけは降らなかったのか、昔の華やかさを遺しているの意。
例の芸人・繁太夫の放浪記「筆満可勢」にはこう書かれているそうな。「此堂年久しき故、朽はてゝ風雨にかける故、さや堂といへるを拵へる。十年程以前に、盗来りて此箔をぬすみし故、所々取りし跡有る。開帳料三十九文」。
繁太夫より139年前の芭蕉も、現在「旧覆堂(さや堂)」として保存される建物で光堂(金色堂)を見たのだろうか。光堂が創建(室町中期)の輝きに戻ったのは昭和43年(1968)。500年余の荒廃を元に戻して世界遺産登録。現在の拝観料は800円とか。
さて、もじり遊びは「五月雨」を「凩(こがらし)」に、「降(ふり)のこしてや」を「吹きのこしてや」にして・・・<凩の吹きのこしてや名残り揺れ>と詠んでみた。光堂も名残り葉も、それが語るのは「無常」。
卯の花にビルを宿した暮し哉 [おくのほそ道]
芭蕉は石巻から北上川に沿って内陸部へ歩く。一関に着いたのが5月12日。ここから中尊寺に向かう。義経の居館であった高館より眼下の野を眺め<夏草や兵どもの夢の跡>を詠んだ。これはもじり済ゆえ、今朝は併記された21句目<卯の花に兼房みゆる白毛かな>(曾良)をいじる。同句は、卯の花を見ると、白髪の兼房が義経の最期にあたり奮戦しているさまが偲ばれ、哀れを催す・・・の意。
十郎権頭兼房は室町時代に描かれた軍記・伝奇物語「義経記」登場の架空人物。義経関連は史実と伝奇がごっちゃになっている。江戸の皆さんは、これら物語からさらに脚色の歌舞伎、浄瑠璃などで義経に親しんでいた。不遜な指摘だが芭蕉は、歌枕の情景に、古歌で詠まれた歌や虚構物語を幻視して句を作っている。また平泉のポイントは、最初の<行春や>と、最後の<行秋ぞ>の中間が「平泉」で、この三角形で各句が対象構成されているとか。こうした仕掛けが、奥が深いとされるところだろう。
さて「卯の花」から、一昨年五月に撮った写真を思い出してこう詠んだ。<卯の花にビルを宿した暮し哉> 北上川沿いの原野なら、卯の花にも趣があろうが、あたしんチは今や観光バスも来るコリアンタウン大久保のマンション7Fで、その猫の額ほどのベランダの鉢に梅花ウツギを植えている。その白い花は夜目にも妖しく美しい。雨に濡れた蕾を見ると、雨粒に自然の景色ではなく周囲の高層ビルが写っていた。都会暮しでも健気に切なく自然を慈しみ愉しんで暮していますよと。
★ベランダの花と同じく、都会の公園「新宿御苑」にささやかにいる野鳥を求めた。やっとシロハラ、ツグミが入った。今年は遅れているのか、野鳥が少ないのか。
三番瀬ツルに身をかれサギの群れ [おくのほそ道]
5月9日、芭蕉は塩釜から舟に乗って松島へ。宿は二階建て。そこから絶景を眺めたのだろう。19句目<松島や鶴に身をかれほとゝぎす>を詠んだ。(曽根句だが、これも芭蕉句か)。昔の歌人は千鳥が鶴の毛衣を借りて・・・と詠んだが、今は千鳥の季節ではなくほとゝぎが鳴く季節。そこでほとゝぎすよ、松に似合いの鶴に身を借り、この松島の絶景を鳴き渡れ・・・と詠った。
ちょっと強引の感が無きにしも非ず。芭蕉は歌枕で詠まれた歌を俳句にもじり、あたしは芭蕉句を自分勝手のもじりで遊ぶ。松島には行ったことがないゆえ、何度か通った「三番瀬+身をかれ」でもじる。<三番瀬ツルに身をかれサギの群れ>
三番瀬は目下3.11地震による主に液状化で歪み、プールや駐車場などの施設破損で立ち入り禁止。公園施設を使わず、貝を無断で採ることもせぬ野鳥観察の鳥撮りには、一日も早く立ち入りを解除して欲しい。前知事の時に埋立計画の白紙撤回と干潟再生・保全が約束されたと聞き及んでいるが、何か施策が行われたのだろうか。今はワケわからん元俳優知事になったが、三番瀬はどうなるのだろう。昔のように雁も鶴も飛来すれば、干潟保全への関心も大きく盛り上がろうに・・・の気持ちでもじった。
★今朝「おくのほそ道」全句を数えたら62句あった。松島から石巻~中尊寺を経て日本海~敦賀まで南下~終点の大垣へ。旅はまだ1/3。★机上旅なのに、大晦日に腰を痛めた。正月を寝たり起きたりして慎重に過ごしたのが良かったか、按配が良くなったので、まずは近所の新宿御苑から鳥撮り開始。千葉県の田にソデグロヅルが飛来だが、ちょっと遠い。そこまでは行かない・行けない。
あやめ草ほぐして鳴さん親子風呂 [おくのほそ道]
芭蕉は5月5日に仙台入りした。端午の節句で家々の軒にあやめ草が挿してあった。仙台で4、5日逗留。画工・加右衛門に宮城野の各名所を案内してもらった。餞別に紺の染緒の草鞋(わらぢ)を二足いただいた。そこで詠んだのが18句目<あやめ草足に結(むすば)ん草鞋の緒>。いただいた紺の染緒の草鞋に、菖蒲を結んで旅を続けようという晴れやかな気分。
紺の染緒もあやめ草も魔除け、マムシ除け。「あやめ草」は菖蒲の古名。「紺の緒があやめ草を結んだようだ」と「実際に鼻緒にあやめ草を結んだ」のか。あたしは前記と解釈するが、いかがだろうか。
さて、<あやめ草足に結ん草鞋の緒>のもじり遊び。う~ん、正月の酒で頭がまわらない。あやめ草を「結ん」の逆、「ほぐして小さくカット」。そう、昔々のこと。息子が小さい時分に五月の菖蒲湯で菖蒲笛を作って鳴らすのを教えた。それを思い出して<あやめ草ほぐして鳴さん親子風呂>。あやめ、菖蒲、カキツバタ・・・。いろいろ撮ったが保存なし。写真がなければ、いざ、書き初めと参ろう。うむ、書道も趣味に加えましょうか。
ササとゴイ撮れぬはヨシの四年越し [おくのほそ道]
金森敦子「芭蕉はどんな旅をしたか」では、芭蕉が旅をした前後の旅人30名余の日記が丹念に調べられている。当ブログおなじみの大田南畝関連で登場の平秩東作の「歌戯帳」も多々引用でうれしくなってしまう。これは芭蕉から94年後の天明3年(1783)に蝦夷地探索の際の紀行文。また「読書備忘録」で記した織田久著「江戸の極楽とんぼ」の「筆満可勢(ふでまかせ)」(芭蕉の139年後、文政11年=1828)も引用。こっちは江戸深川の芸人が、宿場遊女らと深間になっては逃げるように町から町への放浪記録。それにしても江戸時代は長い。
さて、芭蕉17句目は「武隈の松」で<桜より松は二木(ふたき)を三月越シ)と詠んでいる。江戸を出て三ヶ月、遅桜もすんだが歌枕の二木を三月越しに見たという句。二木は逸話があって古歌に詠まれた一本の木から二股に伸びた松。芭蕉の時代にすでに植え替えられて何代目かで、今も植え継がれているそうな。
ここにも東作が出て来る。東作は岩沼を出発して一丁ほど行ってから「武隈の松」があるのを思い出して「おぅ、駕籠や、そこへやってくれっ」と頼むが、しぶる駕籠かきと銭の追加交渉のやりとりがおもしろおかしく記されているそうな。
さて、芭蕉句のもじり遊び。芭蕉が「桜と松+二と三」なら、こっちは「野鳥三種の数字並び」。<ササとゴイ撮れぬはヨシの四年越し> 笹五位(写真上)は撮った。五位鷺とその若鳥・星五位(写真下)は水辺で容易に撮れるが、未だに撮れぬのが葭五位。鳥撮り4年目の今年こそ。
ミヤコドリいづこで舞ふや遠干潟 [おくのほそ道]
このシリーズ、仙台まであと一歩。芭蕉の足跡を辿ってネット検索すれば、東日本大震災の被害地で、改めてお見舞いと復興を祈念せずにはいられない。震災後の五月、早くも「おくのほそ道」を歩かれた方のブログを拝見すると、16句目の笠島道祖神、17句目の武隈の松も無事のようでございます。
芭蕉は藤中将実方(さねかた、平安中期の歌人)の墓や道祖神を訪ねてみたいが五月雨のぬかんだ道で行くこともできない。これを詠んで<笠島はいづこさ月のぬかり道>
この道祖神の社は和合の神。木製男根を奉納。実方も祈願を勧められるが「尊い神に男根を奉納するなど」とあざ笑い通り過ぎようとした途端に落馬死したと「源平盛衰記」にあるそうな。金森敦子は自著のなかで「生真面目な芭蕉はどのような反応をしただろう」と記す。その答えが上野洋三著「『奥の細道』の謎」にある。芭蕉自筆本の同句の推敲張り紙下の字を透視し、そこに狂歌があったと発見した。長くなるから引用せぬが、優雅な歌枕ではない地では、江戸初期の紀行文には、これを茶化して狂歌がしばしば登場とかで、芭蕉もそうしてみたが後に削除して当句だけにしたのだろうと推測している。さらに山本健吉は「笠島は」は最初に「笠島や」で、「や」を「は」に訂正して良くなった。「や」の「重く、したるく聞え」を、「は」で甘みを抜いて軽くなったと指摘。いろいろと難しい「おくのほそ道」なんです。
さて、この句のもじり遊び。「いづこ+ぬかり道」を「いづこ+遠干潟」にして<ミヤコドリいづこで舞ふや遠干潟>と詠んだ。三番瀬に行くと遥か彼方まで干潟が広がっていて、先へ先へ歩けば波打ち際に数十羽のミヤコドリがいた。昔から和歌・俳人で詠まれるミヤコドリはユリカモメのこと。今も歌人・俳人は本当のミヤコドリを知らん。
塚本洋三著「東京湾にガンがいた頃」によると、1956年に浦安に初めて一羽のミヤコドリが飛来。当時のバーダーを騒然・狂喜させたとか。東京湾からガンは消えたが、今はミヤコドリの群れを見ることができる。
有難や夢をかほらす初茜 [おくのほそ道]
明けましておめでとうございます。元旦ですので「おくのほそ道」シリーズも飯坂温泉から最上川に飛び、羽黒山に登って詠んだ有難い句<有難や雪をかほらす南谷>をもじりましょう。
東の空の写真を添え<有難や夢をかほらす初茜>。 皆様にとって良い年になりますように。今年もよろしく。
去年今年年末ジャンボただの帋 [おくのほそ道]
芭蕉は飯坂温泉の近く、医王寺を訪ねて15句目を詠んだ。佐藤継信・忠信の墓の前で涙を流しつつ・・・<笈(おい)も太刀も五月にかざれ帋幟(かみのぼり)>。継信は屋島で義経の身代わりで戦死、忠信は京で義経の身代わりになって自害。二人の息子を失った母を慰めるために、兄弟の嫁が甲冑を着せてみせたことへの供養句。
金森敦子著「芭蕉はどんな旅をしたか」によれば、芭蕉は医王寺に入らず、笈も太刀も見ていない。兄弟の嫁の像がある齋川にも行っていない。芭蕉は土地を飛び越え、見なかったものを見たように書き、詠んでいると検証。旅を終え、幾度も直した(推敲)紙を貼り重ねたりして5年の歳月を経て「おくのほそ道」完成。幻視・虚構の句、紀行文なり。上野洋三著「『奥の細道』の謎」は、芭蕉直筆の何枚も重ね貼られた下の文字を透視・分析していて面白い。
それはさておき・・・、「あれもこれも+帋」をいじる。今日は大つごもりゆえ、<去年今年(こぞことし)年末ジャンボただの帋(かみ)>。 皆様の宝クジが大当たりしていますように・・・。良い年をお迎え下さい。
メジロ飛び合焦連写ゆめの夢 [おくのほそ道]
芭蕉は等窮宅の長逗留を切り上げ5月1日に福島入り。翌日、文字摺石を見に行く。石の上に布を置き、しのぶ草などでこすって色を染み込ませ、もじり乱れた模様にしたことから「もじずり石」。芭蕉がそこに行ったのは有名な歌枕(和歌に詠まれた題材)ゆえ。と云うより「おくのほそ道」は西行はじめが詠った歌枕を訪ねる旅なり。
そこで芭蕉が詠ったのが14句目<早苗とる手もとや昔しのぶ摺> 田植する早乙女の素早い手つきを見ていると、昔、この辺りでしのぶ摺りをした手つきもあんなであったろうと偲ばれてゆかしいことよ。
さて、この句をどうもじろうか・・・。昔の鳥撮りはまず露出計。露出とシャッター設定。左指でピントを合わせ、右人差し指でシャッター、右親指でフィルム巻き上げレバー。しかし今はコンピュータ全自動。被写体に自動合焦、動く被写体も一たび合焦すれば追従もする。1秒7、10回の連写。暗ければ感度も上げられて、手ブレ予防機能で三脚もいらぬ。中西悟堂、仁部富之助の野鳥本を拝見すれば、野鳥写真は苦心の極み。先達らにとってデジタルカメラは夢のまた夢だったに違いない。あの時代のプロ写真家の手順・手つきも今では懐かしい。おや、田植えも機械の時代。今は惚れ惚れとする「手つき」ってぇのが絶滅寸前。
ということで芭蕉句とは大きくピントがズレて・・・<メジロ飛び合焦連写ゆめの夢>と詠んだ。メジロの季は夏だが、新宿御苑の2月の寒桜にメジロが群れる。1月半ばには我がマンション・ベランダのローズマリーにも数羽のメジロが遊びにくる。野鳥の姿や動きは、どんなにデジタル化が進もうが原初のまま。「ゆかしい」さが増すばかり。日々貧しい暮らしだが「メジロ飛び交う春を愉しみに待ちましょ」という元気をくれる。
世の人の見付ぬカモや江戸小紋 [おくのほそ道]
須賀川宿の相良等窮の屋敷内に、大きな栗の木陰に庵を構えて隠棲の僧・可伸が暮らしていた。あの西行が「とち拾うほど」と詠んだ境地も、この閑寂の佇まいだったろうかと詠んだのが第13句目<世の人の見付ぬ花や軒の栗>。地味で目立たぬ栗の花を愛で、軒端に咲かせているこの「庵」の主人も、世の人の目にとまらず、いかにもゆかしいことよ。
「庵」が出てきたついでに、上写真「庵点」について記す。文中に和歌、謡曲、俳句などを記すときに歌記号、庵点(いおりてん)を入れるが、それがSo-netブログ上では〓に化けてしまう。哀しいねぇ。仕様がないから歌詞挿入は「♪~」、俳句挿入は<>にしている。
さて、もじり遊び句は<世の人の見付ぬカモや江戸小紋>とした。誰も言っていないが、小生はひそかに江戸小紋のあの微細模様(クリックで胸から腹をご覧遊ばせ)は、江戸の職人が尾長鴨などからヒントを得たと勝手に思っている。年増がその妖艶な肢体を地味な江戸小紋で抑えて粋に着こなし歩いて行く。オナガガモを見ると、そんな江戸の色っぽい情景を幻視して愉しむのもまた風流でございます。
風流の初は六十路で鷭を撮り [おくのほそ道]
芭蕉は白川の関跡を見たあとに阿武隈川を渡り、4月22日に奥州街道の宿駅・須賀川に入った。ここに奥州俳壇の有力者・相良等窮がいて6泊7日の滞在。「白河の関はどんな気分で越えましたか」と尋ねられ、等窮家の田植えを見学したあとなので<風流の初やおくの田植うた>と詠んだ。陸奥を歩き出す最初に鄙びた田植歌を聴き、いかにも奥州らしい趣です・・・の意。
さて「風流の初(はじめ)や」をもじって一句。<風流の初(はつ)は六十路で鷭(バン)を撮り>。20代半ばから60代半ばまでワーカホリック。隠居して鳥撮りブログを始めたが、鳥撮りに収まらず「マイカテゴリー」は増殖する一方。今は「おくのほそ道」シリーズとして芭蕉句をいじる遊びに、自転車をこぎつつ撮った花鳥風月の写真を添えている。<老いぼれて初めてわかる風流か>
このシリーズの主な参考書は「日本古典文学全集/松尾芭蕉集」と岩波文庫「おくのほそ道」。両書はすでに書き込みメモがいっぱい。併せて図書館で関連書を借りている。先週は5冊借りたがすべてつまらん本だった。今は写真の3冊がお気に入り。果たして「おくのほそ道」が大垣で終わるまで、この酔狂続けられましょうか・・・。
神子秋沙ブログにかざして春を待ち [おくのほそ道]
芭蕉の10句目<田一枚植て立去る柳かな>はいじり済ゆえ、4月21日の白河の関の跡(平安末期に新道ができて関所が移転した)へ。芭蕉は関跡を訪ねてまずこう記す。「心許なき日が重るまゝに、白川の関にかゝりて旅心定まりぬ」。白河の関を越え陸奥入りして、やっと旅心が定まったと書いている。そして<卯の花をかざしに関の晴着かな>の曾良句を記す。これまた芭蕉句かも。「かざし=挿頭:上古の日本人が神事に際して髪や冠に挿した草花のこと」。昔の人は正装して越えた白河の関。せめて卯の花をかざして晴着にしましょの意。「卯の花」はウツギ(空木)の花。
そこで「かざして」+昨日は皇居・馬場先濠で撮ったパンダガモことミコアイサ(神子秋沙、巫女秋沙)の組み合わせ・・・ <神子秋沙ブログにかざして春を待ち>
ミコアイサは皇居お濠の、もうひとつの正月風物詩。鳥撮りを始めて初正月、09年1月4日の箱根駅伝ゴール応援に湧く人々を背に、お濠にカメラを向けた。ミコアイサは人混みに消え、カワアイサだけを間近で撮った。そして8日後の12日、大手門から平川門にかけて魚採りに夢中の3羽のミコアイサを撮った。この時は近くまで寄ってきたが、昨日は遥か遠くキンクロハジロの群れん中に一羽だけ。ミコアイサが来れば、お正月まで僅か・・・。
希少種に見向きもされぬベニマシコ [おくのほそ道]
芭蕉は4月18日、那須湯本に到着。湯に入って疲れた身体を癒しただろうか。湯本温泉から馬に乗って殺生石へ。途中でほととぎすが鳴いた。馬方が鳴き声の方に馬を向けてくれた。そんな風流を解する馬方に即興で詠った第9句目が<野を横に馬牽むけよほとゝぎす>
ふむ、「向き+下五に五文字の鳥の名」いじりで一句。<希少種に見向きもされぬベニマシコ>。 今年3月3日の雛祭り、希少種ハチジョウツグミを撮りに坂戸・浅羽ビオトープに行った。三脚に望遠レンズを並べた鳥撮りたちは、ハチジョウツグミが藪から出てくるのを待って、足許のベニマシコには見向きもしなかった。新宿暮しのあたしにはベニマシコも珍しく夢中で撮っていると「へぇ、ベニマシコがそんなに珍しいかぇ」の声。それを思い出しての句。
その意では数日前にトモエガモを撮った際にも、足許に見向きもされぬバンがいた。バンはEF100-400㎜を購い、初試し撮りの鳥だった。場所は舎人公園。「な・なんじゃ、この鳥は」と近所の本屋に走って子供向け野鳥図鑑を買った。「おぉ、バンか」。鳥撮りのキッカケになった鳥。懐かしさを込めてもう一句。<稀少種に見向きもされぬバン一羽>
小啄木鳥たち今年は来ぬか冬木立 [おくのほそ道]
芭蕉は黒羽・光明寺の行者堂で<夏山に足駄を拝む首途哉>と読んだあと、ここより東へ12キロ山麓の雲厳寺へ。その奥で禅の師の仏頂和尚が山庵住まいをした跡を訪ねて第8句<啄木も庵はやぶらず夏木立>と詠んだ。
「上五=鳥の名+下五=夏木立」をもじってみた。冬の新宿御苑に行けば必ず目や耳を愉しませてくれるコゲラたちだが、今年はどうしたことだろう、まったく姿を現さない。何か異変があったのだろうか・・・という心配を詠って<小啄木鳥たち今年は来ぬか冬木立>。
新宿御苑は子供時分から通っているが、鳥撮りを始めるまで、この都会の公園にキツツキ科コゲラ(小啄木鳥、ジャパニーズ・ピグミー・ウッドペッカー)が居るとは気付かなかった。今年の冬、鳥撮りに行こうと早朝に家を出れば、家前の街路樹にコゲラがいて腰を抜かすほど驚いた。明治通りと大久保通りが交差するビル街で車が列なす都心。そこに啄木鳥である。おそらく他の誰も気付いていない事実・・・。
トモエガモ撮って立ち去る見沼かな [おくのほそ道]
昨日、トモエガモを撮った。昨年2月に綾瀬駅下車の公園へ撮りに行ったら「30分前に飛び去った」の無念。今回はそのリベンジ。寒かったが早朝に家を出て大宮駅からバスで、その池へ向かった。
さて、芭蕉「おくのほそ道」です。8、9句目より先に10句目<田一枚植て立去る柳かな>をいじる。那須湯本と白河の間の「蘆野の里」に西行ゆかりの遊行柳(新古今/道の辺に清水流るる柳蔭しばしとてこそ立ちどまりつれ)にたたずんで、ぼんやり感慨に耽っている間に、目の前の一枚の田がいつのまに植えられてしまった。物思いから覚めて柳の陰から立ち去ったという感嘆の句。
嵐山光三郎は「田一枚植て」が早乙女の行為、「立去る」は芭蕉、そこで切れて「柳かな」とブツ切れの状況説明をするようなへたな句を芭蕉は作らない。これは謡曲「殺生石」の化物説話から柳の化物が田を一枚植て立去ったと解釈すべき。西行の旅を幻視する芭蕉の白日夢だと自著「芭蕉の誘惑」で主張している。
あたしは下手な解釈「自分が立ち去ったあとの情景」をもじって、<トモエガモ撮って立去る見沼かな>と詠んだ。
トモエガモは環境省レッドリスト絶滅危惧種。年末にライフリスト更新で、ちょうど160種目。写真下はあたしの下手句にゲッとたまげたトモエガモ。白い瞬幕が半分出て目付きが悪くなっている。
霊峰に鉄爪(アイゼン)括る覚悟哉 [おくのほそ道]
那須・光明寺に行者堂あり。役の行者の一本歯の足駄が祀られていた。芭蕉は陸奥路に臨むにあたり、これを拝んで健脚にあやかろうと詠んだ。<夏山に足駄を拝む首途哉>
「おくのほそ道」の7句目。「首途=かどで、門出、旅立ち」。この句もじりは「夏山に⇒冬山に」、「首途哉⇒覚悟哉」にして<冬山に鉄爪括る覚悟哉>。うむ、季が重なる? ならば<霊峰に鉄爪(アイゼン)括る覚悟哉>
アイゼンは登山靴に装着する鉄の爪。今はワンタッチ装着もあるそうだが、あたしが山男だった時分は凍らぬように油をたっぷり染みこませた平紐を、かじかんだ手で必死に括りつけ、「いざっ」とばかりに歩き出した。富士のような風の強い地はアイスバーンが多い。鉄爪がギシギシと食い込んで滑落(死)を防いでくれた。写真は11月下旬、丹沢の奥の富士山。今はもう厚い雪に被われているだろう。
なでしこは二重八重やの累(かさね)あり [おくのほそ道]
芭蕉は日光から那須・黒羽へ。道に迷って男に訊ねれば「此野は縦横に道が分かれて迷うだろう、馬を貸すから馬が動かなくなったところで追い返しなさい」と道案内の馬を貸してくれた。その馬に二人の子供がついてきた。一人は女の子。名を訊けば「かさね」。女の子は撫子に例えられる。撫子で「かさね」なら八重撫子だろうと<かさねとは八重撫子の名成るべし>と詠んだ。曾良句だが、これも芭蕉句らしい。これで6句目也。
さて、目下「岡本綺堂日記」の大正13年から1年余の大久保・百人町の借家暮しを読んでいるが、現在のコリアンタウンと化した大久保からは想像もできぬ良き時代。彼の「半七捕り物帳」の「津の国屋」は、崩れた島田髷に白地に「撫子」の浴衣の娘にゾッとするところから事件が始まる。岡本綺堂の怪談好みから言えば「かさね」は「累(かさね)ヶ淵」となる。岩波文庫「おくのほそ道」収録の「奥細道菅菰抄」にも「鬼怒川の与左衛門が妻、かさねと云しは~」と怪談に誘う注あり。
季語は撫子で夏。江戸時代は朝顔と同じく「変わり撫子」作りも盛んだったとか。そこで<なでしこは二重八重やの累(かさね)あり>と詠んでみた。川柳なら<なでしこが無能政治を忘れさせ>。おぉ、其角と共に江戸を代表する俳人・松倉嵐蘭(とぼけているねぇ、ランランだって)に<撫子にふんどし干すや川あがり>がある。
なお写真は岡本綺堂が大正13年に住んでいた辺り。突き当りが戸山ヶ原でその左角が綺堂宅。今はバイク作家の戸井十月宅があった。綺堂宅の隣が同じく作家の国枝完二の家だったそうだが、日記には「隣家の宮崎君方」とある。江藤淳もたしかこの辺の生まれ。綺堂が越してきた大正13年には戸山ヶ原に「アパッチゴルファー」が出没。マイカテゴリーに「大久保」を追加して調べましょうか。
暫時は暖気控えて年の暮れ [おくのほそ道]
芭蕉は東照宮参拝後に「裏見の滝」へ。岩窟に身をひそめて入て、滝の裏よりみれば、うらみの滝と申伝え侍る也~と記し、第5句目<暫時(しばらく)は滝に籠るや夏(げ)の初(はじめ)>と詠んだ。 仏道の夏の修行のような清浄な気持ちになったそうな。
旅費工面の曾良もパトロンもいぬ貧乏隠居には旅立つこともできぬ。だがなんと「You Tube」に7日前アップロードの「日光・裏見の滝」映像がありて居ながらに鑑賞。便利と云うかヘンな世になった。
「裏見の滝」と云えば、滝ではないがカウアイ島「シダの洞窟」を思い出す。洞窟から垂れ下がるシダ群に水が滴り落ちて裏見の滝のようなり。これもネットで見れば06年の豪雨地滑りで洞窟には入れなくなったとか。行ったのはその数年前だったか。おぉ、こう記せば次々に思い出が甦る。山男だった時期にザイルワークの沢登りで、滝裏に潜り込んだこと幾度か・・・。
そして同句のもじりは・・・。各地雪便り来る年の瀬だが、原発事故の節電に関係なく貧乏節約生活で暖房控えめ。清浄どころか寒さに耐える日々。こんな時に島ロッジの薪ストーブが恋しいも、20年目にして煙突落下(写真)で使用不可。今朝はダウン着込んでブログアップ。<暫時は暖気控えて年の暮れ>
剃捨て初秋の風のそよぎ哉 [おくのほそ道]
「おくのほそ道」4句目は<剃捨(そりすて)て黒髪山に衣更(ころもがえ)>。曾良の句となっているが芭蕉句で、句に続いて「河合氏にして~」と同行者・曾良を紹介している。黒髪を剃り捨て、俗衣を墨染の法衣にして旅に出たが、この黒髪山(日光・男体山)まで来たら、ちょうど卯月朔日(4月1日)の衣替えになった。黒髪を剃り、僧衣にした出家隠世に踏み出した感慨を新たにしている。
あたしが長髪を丸坊主せしは40代後半の秋。白髪がポツポツと出たのと、今さら若者を気取る歳でもなかろうと、事務所近くの床屋で坊主にした。床屋から外に出ると、頭の天辺を風がそよいで、その感覚の新鮮さに驚いたことを今でも覚えている。ヒッピー、ビート、サブカルチャー、若者文化の熱も失せ、「いか天」などのバンドブームでロックも単に仲間うちのお遊びみたいになってガッカリしたこともあった。<剃捨て初秋の風のそよぎ哉>
丸坊主後の数年間は床屋も、次第に電気バリカンで手前坊主になった。気分次第でゼロミリ、3ミリ刈り。法事に行くと、俗臭漂う坊主よりこっちの方が解脱している。あの頃に若かったミュージシャンやロッカーらが今も白髪を染め、増毛し、カツラだったりして頑張っている姿をテレビで拝見すると失笑を禁じえぬ。ハゲの方がカッコいいのに。
あらたうと落葉紅葉の夢の宴 [おくのほそ道]
「おくのほそ道」第3句は、千住~鹿沼を経て4月1日に日光東照宮で詠んでいる。前夜から小雨が降っていたが、参拝する頃には雨が止んで陽も出たのだろう。<あらたうと青葉若葉の日の光>と詠んだ。
「あらたうと」の「あら=あぁ」+「たうと=とうと(貴)」で、ああ貴い。この青葉若葉に降り注ぐさんさんたる日の光は、あぁなんと尊く感じられることよ、将軍様を敬っている。
「おくのほそ道」第3句は春だが、今は師走。冬木立になる直前の紅葉に、日の光が注ぐと黄色から赤のさまざまな暖色系色彩がハッとするほど美しい。しかも朽ち落ちた葉は次の季節、世代のための貴重な腐葉土になるってぇから、なんと尊いものよと思ってしまう。そこで<あらたうと落葉紅葉の夢の宴>と詠んだ。写真は日の光(日光)ならず新宿御苑。
伊佐沼やクロツラヘラが抜けた跡 [おくのほそ道]
昨日、久々に小チャリ(AL-FDB14)輪行。副都心線・東新宿から川越下車、ここから自転車で伊佐沼へ。鳥撮りなら「はぁ~ん」と推察通り、まだ居るという稀少種クロツラヘラサギ狙い。だが目当てのサギは居ず、改修工事で底泥をさらした無粋な池が広がるだけだった。
<伊佐沼やクロツラヘラが抜けた跡>と口遊んだら、やっ、どこかで聞いたような・・・。句の構成が「おくのほそ道」の<夏草や兵(つわもの)どもが夢の跡>似なのだ。芭蕉の歩いた順に句を辿ってみようと思ったが、輪行ついでに一気に平泉まで飛ぶ。
芭蕉が松島~石巻を経て平泉に着いたのは6月末。兄・頼朝の追討から義経が奥州藤原秀衡(ひでひら)を頼って高舘(たかだち)に居を構えたが、その高舘から眼下の古戦場跡を眺め、藤原三代の栄華も一睡の夢か。芭蕉さん「国破れて山河あり・・・」と涙を落し侍りつつ詠った句。
ちょっと前まで世界に数千個体という超希少種クロツラヘラサギがいて、連日百名を超える鳥撮り爺さんたちがプロカメラマンも滅多に所有せぬ百万円余の超望遠レンズを並べて競い撮っていた光景が展開されていたそうだが、今はそれも一時の夢と化し、ただ池底の泥を晒した無粋な池が味気なく広がるばかり・・・。
芭蕉はそのあと金色堂へ向かったが、あたしは輪行記念に池脇に見向きもされず朽ちかけた薬師神社で小チャリを撮っただけでカメラを仕舞い、準急電車で新宿三丁目まで帰ってきた。かかぁが言った。「フン、撮れなかったのかい。電車賃ソンしちゃったね」「でも、小チャリ輪行、楽しかったぜ」と負け惜しみ。粘ってでもいい写真を撮るつもりで買ったコンビニおにぎりを家で食いつつ、歴史の本を開いた。義経が亡くなり、平泉が落ち、頼朝が念願の征夷大将軍になって1192年に鎌倉幕府。