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荒井「見渡せは遠つおふみもなみたたて~」 [狂歌入東海道]

32arai_1.jpg 第三十二作目は「荒井(新居)」。狂歌は「見渡せは遠つおふみもなみたたて名にしあらゐの関も戸さゝず」。

 今切りの舟渡しは、荒井の関所構内に着岸する。狂歌を漢字にすれば「見渡せば遠つ淡海も波たたで名にし荒井の関も閉ざしず」か。近江の琵琶湖=近し淡海(ちかしおふみ)で、浜名湖は「遠つ淡海」。見渡せば浜名湖も波がたたで(で=打消し)名に荒い(荒井)とある関だが閉さしず(ず=打消し、閉ざされていない)だろう。

 弥次喜多らも「ふねはあら井のはまにつきければ、のり合みなみなふねをあがり、お関所を打過ける」と記して一首。「舞坂をのり出したる今切とまだたくひまもあら井にぞつく」。〝暇もあらず⇒暇もあら井〟の地口洒落。

32araiuta1_1.jpg だが船の中で事件が勃発していた。薄汚いオヤジの懐に隠れていたヘビが逃げた。船客は大騒ぎ。ヘビを掴まえて再び懐に入れたオヤジに、喜多さんが「ヘビを捨てろ」と詰め寄った。その喧嘩で、またヘビが逃げた。喜多さん、脇差でヘビを押さえるもグルッと巻きつき、振り払った拍子に脇差ごと海へドボン。これが竹光だったからプカプカ浮いた。

 「竹箆をすてゝしまひし男ぶりごくつぶしとはもふいはれまい」。竹光は飯を潰す竹箆のようなもので、これを捨ててしまったのだから、もう穀潰しとは言えまい辛い言い訳。

 荒井の関所は、箱根匹敵の厳しい関所。現在も船着き場、木戸、関所遺構が保存され、資料館などには等身大の侍人形があって当時の厳しさが再現されているそうな。弥次喜多らは関所を無事に越え、名物・蒲焼で舌鼓。ここで「三編完」。


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舞坂「揚雲雀落る雲雀の舞坂を~」 [狂歌入東海道]

31maisaka_1.jpg 第三十一作目は「舞坂」。狂歌は「揚雲雀落る雲雀の舞坂を横に今切る舟渡しかな」。ここは室町時代の地震で浜名湖と海との間の陸地が切れた所。対岸の荒井(新居)まで約一里。乗合船で渡る。

 狂歌の「揚げ雲雀」は春の空高く舞い上がって囀るヒバリ。「落る雲雀=落雲雀(おちひばり)」は天空で囀った後に急降下するヒバリ。共に季は春。そんな河口を〝横切る〟「今切の舟渡し」。上へ下へ横への線を詠う狂歌は、抽象画の味わいです。「揚雲雀」を調べていたら、男色系隠語がヒットして驚いた。

 喜多さんは、舞坂宿に入る前の濱松宿・諏訪神社を詣でた後に、篠原の入口で「ぼた餅」を三つ買った。弥次さんに一つを渡そうとしたら、鳶が急降下してぼた餅を奪い去った。鳶に食い物を攫われる湘南のニュース映像をよく見るが、そんな光景は江戸時代からあったんですね。 「あいた口ふさがれもせぬそのうへにはなをあかせしとびのにくさよ」=「開いた口塞がれもせぬその上に鼻を明かせし鳶の憎さよ」。

31maisakauta1_1.jpg 膝栗毛には、今切の舟渡しについてこう記されていた。「是よりあら井まで壱里の海上、乗合ぶねにうちのりわたる。げにも旅中の〝気さんじ〟は、船中おもひおもひの雑談、高声にかたり合、笑ひのゝしり打興じゆくほどに、頓(やが)てなかばわたりて、乗合の人々もはなしくたびれ、めいめい柳ごりに肘をもたげて、いねぶりをするもあり、又この風景に見とれて、只黙然としてゐるも有」。

 「気さんじ=気散じ=気ばらし」。「気さんじ」といえば北斎の辞世句が浮かぶ。「人魂で行く気散じや夏の原」。

 それはさておき、今は新幹線で浜名湖際通過は一瞬のこと。その車窓風景に「昔はのんびりとした今切の舟渡しだった」と江戸時代に想いを馳せるのもいいかも。今切の舟渡しを降りれば、そこは新居(荒井)宿の関所。


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濱松「春の日のあゆみもおそきあしたづの~」 [狂歌入東海道]

30hamamatu_1.jpg 第三十作目は「濱松」。狂歌は「春の日のあゆみもおそきあしたづのかすむすがたやちよの浜まつ」。漢字に直す。「春の日の歩みも遅き葦鶴(あしたづ)の霞む姿や千代の浜松」。ポイントは「あしたづ」。古語辞典に「葦鶴、葦田鶴=葦の生えた水辺にいることから鶴の異名」。〝鶴は万年〟で〝千代の浜松〟か。

 リンクしている「あっちも・こっちも」さんが、七月に千葉の公園で撮ったアフリカ原産のホオジロカンムリヅル二羽をアップしていた。小生も伊豆大島ロッジのベランダで昼寝中に、目の前をユッサユッサと孔雀が歩いてい、眼を丸くしたことがある。共に飼い鳥の脱走。

 外来種の飼い鳥脱走では〝季語〟にもならぬが、江戸時代に普通にいた野鳥のなかには絶滅危惧種、珍鳥、いや消滅した種も多い。広重は三河島辺りの絵にタンチョウヅル二羽を描いていた。さて、弥次喜多らは客引きに誘われて浜松宿へ。

30hamamatuuta1_1.jpg30yurei_1.jpg「さつさつとあゆむにつれて旅衣ふきつけられしはままつの風」。風の吹く音を「颯々(さっさつ)という云うそうで、この言葉も絶滅危惧語だろう。颯々と歩けば旅衣も吹きつけられる浜松の風。

 弥次喜多らが泊った宿は、亭主が下女に手をつけて、カミさんが首をくくって幽霊になって出るという。そんな話を聞いたら、夜ひとりで小便にも行けない。雨戸を開けてこっそり用を足そうとすれば、足のない白い着物がゆらゆら~。「ギャッ」と腰を抜かした。絵は一九画らしい。

 「ゆうれいとおもひの外にせんたくのじゅばんののりがこわくおぼへた」。「こわい=怖い、強い」の地口。まんじりもせず夜が明けて、朝飯をかき込んで出立。まず諏訪神社を詣で「梅干しのすはのやしろときくからにまもらせたまへ皺のよるまで」。「梅干しの諏訪の社と聞くからに」とは、梅干しが名物ってこと? 「梅干し=皺の寄る」は縁語。 


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見付「むかしたり初てこゝにゆびさして~」 [狂歌入東海道]

29mituke_1.jpg 第二十九作目は「見附」。狂歌は「むかしたり初てこゝにゆびさして見附の宿のふじのいただき」。「昔たり」の「たり=より」。漢字で書けば「昔より初てこゝに指さして見附の宿の富士の頂き」。京からの旅人が最初に富士山を見る地から「見附」。そこを詠っている。

 「天竜川渡し」の絵は、この狂歌とは逆、富士山を背に天竜川の渡しへ至る旅人が描かれている。喜多さんは見附宿から馬に乗り、弥次さんはひとり近道で歩き、この舟渡し場で合流。喜多さんがここで詠んだ狂歌が~

 「水上は雲より出で鱗ほどなみのさかまく天竜の川」。中村幸彦の校注が詳しく説明しているので引用する。「水源は高い信濃に発し、鱗(うろこ)のごとき高波がさかまいている天竜。まさにその名のごとき川である」。そして「水上・雲・鱗・逆巻く」すべてが「竜」の縁語だと説明。縁語尽くしの狂歌。

29kitukebun1_1.jpg 今ではなかなか想起出来ないが、江戸ならば「荒波=鱗風に描く」が浮世絵で普及。そして天竜川を渡った先の町名が〝中の町〟で、次の一首は~ 「けいせいの道中ならで草鞋がけ茶屋にとだへぬ中の町客」。

 〝中の町〟と言えば吉原で、初句「けいせい=傾城」とわかる、「ならで=~でなくて」だから、花魁道中ではなく草鞋(わらじ)がけの旅だが客の途絶えぬ中の町の茶屋の客、という意だろう。

 ここより萱場、薬師新田を経て鳥居松まで来ると、浜松の客引きが出向いて誘ってくる。喜多さん「女のいゝのがあるならとまりやせう」。客引「ずいぶんおざります」。さて~


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袋井「せんべいのやうな蒲団をきせられて~」 [狂歌入東海道]

28fukuroi_1.jpg 第二十八作目は「袋井」。狂歌は「せんべいのやうな蒲団をきせられて客のふくれる袋井のやど」。〝客のふくれる=不平顔〟だろう。

 絵は掛川宿を出て袋井へ向かう街道風景か。のどかな田圃と松並木の街道。弥次喜多らは「原川」を経て「名栗の立場」へ。ここの名産が花茣蓙(ござ)。

 「道ばたにひらくさくらの枝ならでみなめいめいをれる花ござ」。道端にさくらの枝で花が咲いたようだが、そうではなくてそれぞれが織った花茣蓙だ、と詠っている。「ならで=~でなくて」。〝枝=折る・織る〟の縁語洒落。

 弥次喜多らは「程なく袋井の宿に入るに、両側の茶屋賑しく、往来の旅人おのおの酒のみ、食事などしてゐたりけるを弥次郎兵衛見て「ここに来てゆきゝの腹やふくれけんされば布袋のふくろ井の茶屋」。

28fukuroibun1_1.jpg ここまで来た旅人らは満腹になるほど食って呑んで布袋様のような腹になる袋井の茶屋、と詠っている。ここでも〝ふくれけん=袋井=布袋様〟の洒落。彼らは宿場外れから、供を連れた裕福そうな上方者に話しかけられて吉原談義。「昼三の遊女を人におごってもらったが、あれはなんぼだろう」と問われる。

 「昼三」は昼夜共に三分の揚げ代の遊女。また江戸の金銭のお勉強。一両は四分。現代換算で一両=十二万八千円。一分は三万二千円だから、三分で九万六千円。とても庶民が遊べる額じゃない。弥次さん、自慢げに講釈すればするほどに満足な吉原遊びの経験なしが暴かれて、喜多さんにも馬鹿にされる。

 ちなみに、実際の十返舎一九は江戸に出て来て戯作者として売れ出した三十代半ば頃に吉原に入り浸った時期があるらしい。戯作者で最も吉原通いしたのが〝山東京伝と一九〟と言われているそうな。


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十返舎一九とは(1) [狂歌入東海道]

19e1_1.jpg 十返舎一九の関連書(評伝など)を探すが見つからず。松井今朝子の小説『そろそろ旅に』を読んだ。十返舎一九が『東海道中膝栗毛』を書き出すまでの物語。面白く一気読了。諸田玲子『きりきり舞い』も読んだ。これは一九晩年で、娘・舞が主人公。一九家に北斎の娘・お栄も居候しての諸騒動。これも面白かった(続編は期待を裏切られたが)。

 小説を読めば、やはり本当のところが知りたい。小学館刊・日本古典文学全集『東海道中膝栗毛』(校注・中村幸彦)の冒頭に十返舎一九の経歴解説があった。また国書刊行会刊・叢書江戸文庫『十返舎一九集』の校訂・棚橋正博に氏作成の略年表あり。これらを参考に、勝手解釈で一九像を探ってみた。

 中村・文は「まず、その伝は今もって明らかではない」と書き出されていた。これで満足な評伝書がない理由を納得。氏は諸資料から「こうだろう」という推測で筆を進めていた。まず馬琴の他戯作者評は疑問噴出だがと断って、その文を引用している。

 「姓は重田、字は貞一、駿陽の産なり。幼名を市九と云。故に市を一に作り雅号とす。若冠の頃より或侯館に仕へて東都にあり。其後摂州大阪に移住して、志野流の香道に称(な)あり。十返舎之号、黄熱香は十返しを全ひて、ここにいづる。今子細あってみづから其道を禁ず。寛政六年復び東都に来りて~」。補足:黄熱香なる高級香木は十回繰り返して嗅いでも香が消えないの意で十返舎。

 生れは明和二年(1765)、武家の子。棚橋年表には駿府町奉行所の同心の子とあり。さて一九はどこでどう学んできたか。中村・文には「戯作者(大阪で浄瑠璃作家)として立つ前に、すでに書も画も素人としては巧みで、文才をも養われていた。永井荷風が『膝栗毛』の「初編及二編の序文を見るに一九は文才あり」と日記に評した通りである」と記していた。

 そこで荷風好き小生は『断腸亭日乗/昭和七年七月十九日』の日記をひも解いた。「曝書の傍一九の膝栗毛を読む。初編の序文を見るに一九は文才あり。啻(ただ)に滑稽に妙なるのみにあらざる事を知りぬ。余の始めて膝栗毛をよみたりしは十六七歳の頃小田原なる足利病院に病を養ひ居たりし比なり」。

 時代を戻そう。〝或侯館〟は小田切土佐守らしい。一九は彼に江戸で仕え、大坂奉行になっても仕えていた。小田切侯の経歴は天明三年(1783)に駿河町奉行、寛政三年(1791)暮に江戸町奉行。翌年に大阪へ出立。一九は駿河町奉行当初に何らかの縁が出来て仕えていたらしい。

 ここからフィクションの余地、面白さが生まれる。諸田玲子『きりきり舞い』では、なんと!土佐守が駿府時代に娘〝こう〟と深間になって妊娠させた。土佐守は江戸に戻り、〝こう〟は駿府町奉行の同心・重田の妻にして一九を産んだ。一九は同心の子として成長したが、十一歳の時に母〝こう〟病没。一九は元服の後に江戸の土佐守の家に引き取られた。

 一方、松井今朝子の小説では、同心の子・一九は十七歳で同心見習いを願って土佐守の前で得意の槍術を披露して気に入られ、同心ではなく家来になったとしている。経歴不確かも、想像逞しいフィクションも、一九らしくて愉しいじゃないか。カット絵は『戯作者六家撰』に国貞(後の三代目歌川豊国)が描いた晩年の十返舎一九像を、小生が簡易模写。細面〈馬面〉で若い時分は相当モテたらしい。(続く)


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掛川「秋はてふ道の名あれと春風は~」 [狂歌入東海道]

27kakegawa_1.jpg 第二十七作目は「掛川」・狂歌は「秋はてふ道の名あれと春風はかけしくすぬのうららにそ吹」。解読に手こずった。掛川の知識がないと推測もままならぬ。東海道は箱根を越えれば、知らない地ばかりだが、掛川だけは若い時分に幾度も通った。

 ヤマハ「つま恋」で開催の春・秋のポピュラーソングコンテスト取材。その後に受賞者らが日本武道館で開催「世界歌謡祭」出場のための合宿場になってい、そこで彼らのプロフィール資料作りの取材。年に三度の「つま恋」通いを幾年か続けた。だが思い返せば、掛川駅に着けば先方車の送迎付きで、街の知識は皆無だった。

 初句「秋はてふ」とは? 「かけしくすぬのうららにそ吹」とは? 絵から攻めてみた。この橋は掛川の二瀬川に架かる大池橋。向こう岸の鳥居先の建物は秋葉神社「遥拝所」。鳥居の所が東海道と秋葉道の分岐。掛川の名産が「葛布(くずぬの、かっぷ、27kakegawauta_1.jpgsioigawa_1.jpgくずふ=葛から作った布)」と知った。葛糸を横糸に、木綿や麻を縦糸に織ったものとか。ここまで分かって、改めて狂歌を漢字で書いてみる。「秋はてふ(秋葉という)道の名あれど(〝秋〟だが)春風はかけし(掛けし)くずぬの(葛布)うらら(麗)にぞ吹」。

 弥次喜多らは掛川宿に入る前に、またバカをしていた。掛川の手前の塩井川で、旅人らが裾をまくって川渡り。そこに座頭が二人。彼らは二人濡れることはなかろうと〝拳〟勝負で負けた方が相手を背負うことにしたらしい。弥次さん、それを見てコッソリと負けた座頭の背に乗って渡った。喜多さんもその手を使おうとするが、途中でバレて川ん中にドボンッと落とされた。

「はまりけり目のなき人とあなどりしむくひははやき川のながれに」。喜多さん、はっくしょんと震えながら掛川宿に入った。ここで初めて挿絵もアップ。一九の自画か。絵もいい腕をしていたらしい。

 追記:この欄を記した2日後の9月2日、ヤマハは「つま恋」を経営不振により12月25日で営業停止と発表した。


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日坂「あたらしくけさにこにことわらび餅~」 [狂歌入東海道]

26nissaka_1.jpg 第二十六作目は「日坂(にっさか)」。狂歌は「あたらしく今朝にこにことわらび餅をかしな春の立場なるらん」。立場(たてば)は掛け茶屋。「日坂の名物は蕨餅。この絵の茶屋でも蕨餅を売っていたのだろう。蕨餅は葛の粉で作り、豆の粉をまぶして食す。珍味なおかしを頂いてご機嫌の茶屋でしょうか、と詠っている。

 「なるらむ=中世以降・なるらん=~でしょうか、~であるだろうか」。「をかしな」の〝か〟がミミズがのたうったような字。「か」のくずし字の元漢字は加・可・閑・賀・家・歌・哥・謌・荷・嘉・佳・香・我・歟・霞。さて、この「か」はどの漢字のくずし字でしょうか。

 弥次喜多らは次第に強くなってくる雨に、未だ八つ(午後二時頃)だが日坂宿に泊ることを決める。宿には巫女ら一行がいた。弥次さん、亡き妻を呼んでもらうが、亡き母も妻も出て来て弥次さんへの恨み言ばかりで、早く冥途に来いと誘われる。弥次さん「迎えに来るにゃ及ばない」。すると巫女は「ならば長目を張り込みなさい」で二百文也。

26nitusakauta_1.jpg26nissakaup_1.jpg 喜多さん、沈む弥次さんに酒を勧める。酒宴に巫女親子と連れの女も加わって呑み出せば、その強いこと。座は次第に乱れ行く。喜多さん、夜中に夜這い。〝仮の契りをこめして〟就寝。そこに弥次さんも夜這いで吸い付けば相手が喜多さんで仰天。その騒ぎに灯りをつければ、喜多さんの〝契り〟の相手が婆さんと判明して慌てて逃げる。

 婆さん「こんなことを商売にやぁしませぬが、旅人衆の伽でもして、ちつとばかしの心づけを貰ふのが世渡り。さんざん慰んで、只逃げるとはあつかましい。夜の明けるまでわしのふところでねやしやませ」。ここで弥次さんの一首。「いち子(巫女)ぞとおもふてしのび北八に口をよせたるぞくやしき」。


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金谷「大井川渡る金谷に旅ごろも~」 [狂歌入東海道]

25kanaya_1.jpg 第二十五作目は「金谷」。絵は再び大井川の渡し。今度は静岡側から見た図だろう。大名行列の渡しの準備中。渡った先が金谷宿。狂歌は「大井川渡る金谷に旅ごろも雲と水とに身をまかせけり」。

 大井川を渡らんとすれば、もう水や雲まかせのほかにない。弥次喜多らは金谷宿で休まず、喜多さんは日坂(にっさか)まで駕籠に乗った。途中で巡礼らに「お駕籠の旦那、一文下さい」の手に「つくな・よるな」と力んだ途端に、ボロ駕籠の底が抜けた。駕籠かき二人はふんどしを外して駕籠を補強。白いふんどしで補強された駕籠に乗る喜多さんを、弥次さんは「仏か科人(とがにん)のようだ」。

 喜多さん、しかたなく歩くことにした。ふんどしを外せばフルチンの駕籠かきだ。この時代は女性のパンツなんてぇのもなかった。そう云えば、東京オリンピック(昭和39年)の時は東京がうるせぇってんで伊豆で遊んでいたが、村の銭湯は混浴だった。昔はおおらかだった。

25kanayauta_1.jpg25kanayaup_1.jpg 金谷から日坂への途中「小夜の中山」に〝夜泣石〟あり。その立場の名物は飴餅とか。白き餅に水飴を包んだものらしい。弥次喜多らが餅飴を食っているうちに雨が強くなってきた。

 「爰もとの名物ながらわれわれはふり出すあめのもちあましたり」。ダジャレだな。ガイドブックによれば夜泣石のある寺の隣の茶屋で、今も「子育飴」が売られているとか。夜泣石は、ここで山賊に殺された妊婦の霊が泣いているそうで、飴は無事に産まれた子が水飴で育ったという伝説ゆえ。この伝説を馬琴が小説(『石言遺響』)にして一気に〝夜泣石〟が有名になったらしい。膝栗毛と馬琴の小説はほぼ同時代と言っていいだろう。弥次喜多らは雨の中を「日坂宿」へ至る。


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嶋田「大井川渡りいそけは宿の名の~」 [狂歌入東海道]

24simada_1.jpg 第二十四作目は「嶋田」。〝越すに越されぬ大井川〟手前の宿場。絵は大河・急流の壮観な大井川渡り。手前に大名行列の一行。遠景に富士が描かれているから浜松側から見た大井川だろう。

 狂歌は「大井川渡りいそけは宿の名の妹がしまだの目にはとまらず」。さて、どういう意だろうか。弥次喜多らは、大井川渡りは肩車では危険ゆえ蓮台の料金交渉。平蓮台二人乗りは六人川越人足付きで「二人で八百文」と吹っ掛けられる。そりゃ高い!と弥次さんにまた馬鹿な考えが閃く。喜多さんの脇差を借りて長短二本差しのように見せて川問屋(武士が利用)で交渉。だが長く見せた脇差の鞘袋が折れ曲がってい、簡単に偽侍と見破られてコソコソと逃げ出す。

 そこで一首。「出来合のなまくら武士のしるしとてかたなのさきの折れてはづかし」。結局まともな値段(二人で四百八十文)で蓮台に乗った。ここで再びお金の復習。「一文=二十円換算」で、四百八十文は九千六百文也。当時の石工日給四百文より高く、裏長屋の家賃ほどだろうか。お金がなくば大井川は渡れない。

24simadauta_1.jpg 現・嶋田には当時の川会所や人足宿が復元されてい、川渡り事情が詳細説明されているらしい。田辺聖子『東海道中膝栗毛を旅しよう』に、そこで得た知識だろう詳細料金が記されていたので、それを引用する。脇通(一番深い場合九十四文)、乳通(七十八文)、帯上通(六十八文)、帯下通(五十二文)、股通(四十八文)。

 弥次喜多らが蓮台に乗れば、大井川の急流は目もくらむばかり。いのちをも捨なんとおもふほどの恐しさに、無事に蓮台を降りて一首~ 「蓮台にのりしはけつく地獄にておりたところがほんの極楽」。成仏して極楽へ行けば蓮の上だろうが、大井川では蓮台を降りた所が極楽だ。「けつく=結句、結局、むしろ、かえって」。

 この〝蓮台〟を〝火の車〟にして「火の車のりしはけつく地獄にておりたところがほんの地獄」と詠ったのが、諸田玲子の小説『きりきり舞い』のひとこま。晩年の一九家の大晦日〝掛け取り〟を免れようとする修羅場シーンで詠まれていた。また中風気味の一九が階段から落ちて「出来合のなまくら作家のしるしとて指の先のしびれて恥ずかし」。さすが諸田玲子と膝を打ったが、彼女の小説には、一九晩年にも蔦重が活躍しているような記述があったりの〝ポカ〟が多いのが残念。一九が三十四歳の時に、蔦重は寛政九年(1797)に四十七歳で亡くなっている。

 同小説は一九が『続膝栗毛』十二編刊で完結した五十八歳頃で、四人目の妻・ゑつがいて、三人目の妻・民が産んだ娘・舞(十九歳)が主人公。舞より六つ年上の北斎の娘・お栄(応為)が夫と喧嘩をして一九家に転がり込んでいるという痛快物語。余りに面白かったので目下続編読書へ。ウヘッ、読めばいやはや駄作なり。


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藤枝「口なしの色をばよそにかしましく~」 [狂歌入東海道]

23fujieda_1.jpg ここからは『膝栗毛三編』。第二十三作目「藤枝」。この絵の川は小さいゆえ「瀬戸川」か。狂歌は「口なしの色をばよそにかしましくあきなふ妹が瀬戸の染飯」。藤枝宿から嶋田宿への途中の瀬戸村の茶屋名物・染飯(そめいい)を詠ったもの。

 山梔子(クチナシ)で強飯(こわいい)を染め、摺り潰して小判型に薄く干し乾かし、それを蒸して売ったらしい。「口なしの色をばよそに」の〝よそに=別にして〟だろうか。まぁ、女のやかましい売り声の瀬戸の染飯よ」の意だろう。

 弥次喜多も「瀬戸川を打越、それよりしだ村(志太村)大木のはし(おゝぎ橋)をわたり、瀬戸といふ所にいたる。爰がたて場にて染飯の名物なれば~ 「やきものゝ名にあふせとの名物はさてこそ米もそめつけして」。焼き物の名に合う瀬戸の名物は米に染付をして、と詠っている。「狂歌入東海道」と「膝栗毛」が染飯で狂歌競作なり。

23fujiedauta_1.jpg 喜多さんは藤枝宿近くで、馬の跳ねたのに驚いた田舎親爺にぶつけられて水溜りに転がった。喜多さん・田舎親爺の喧嘩を、弥次さんは引き離す。そして町外れの茶屋へ。そこにあの田舎親爺が「先ほどのお詫びに」と大盤振る舞い。ゴチになった二人だが、気付けば田舎親爺はドロンで、まんまと九百五十文を支払うハメになった。

 「御馳走とおもひの外の始末にて腹もふくれた頬(つら)もふくれた」。田舎親爺と侮って、とんだ意趣返しをされた二人。このへんから十返舎一九の狂歌がいい加減になって行く。ヒネリもミソもない単なる「みそひともじ」。大ヒット作家になって狂歌をじっくり考え作る余裕がなくなったのだろう。弥次喜多は大井川の手前の嶋田宿へ至る。


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なだいなだ著『江戸狂歌』 [狂歌入東海道]

kyoukaedo_1.jpg 「狂歌」のお勉強(2)。以下は、なだいなだ著『江戸狂歌』(岩波書店・1986年刊)の勝手要約です。

 著者の年代は笑えぬ時代が長かった。生まれが満州事変2年前。太平洋戦争の翌年に麻布中学から陸軍幼年学校。大日本帝国憲法下の幼年・青年時代。そう云えば小生の父の腹を抱え笑った姿も記憶にない。著者は「日本人は笑わない人間なのか」と思った。

 著者執筆時は中曽根内閣時代(今も安倍晋三内閣に笑えぬ人々は多い)で、アルコール中毒の治療従事に当っていた。その時に大田南畝(蜀山人)の狂歌に出会った。「われ禁酒破れ衣となりにけりさしてもらおうついでもらおう」「世の中は色と酒とが敵なりどうふぞ敵にめぐりあいたい」。

 なぁ~んだ、日本人は大いに笑っていたじゃないか。それは江戸・天明期。狂歌師らは、お上が嫉妬するほどの人気者。浮世絵、黄表紙、洒落本など庶民による大出版ブーム。南畝が狂歌集の募集をすれば荷車五台分、一千箱の狂歌が集まった。平賀源内は少し時代が早過ぎて狂死したが、彼の序文でデビューした大田南畝は〝江戸狂歌〟の寵児になった。

 だが、著者はそれら狂歌を読むも笑えない。何故だろうか。「そうか、笑いは情況のなかでこそ生きるもの」と気付く。封建時代は身分も定まり、何事もお上次第。そんな窮屈な世に「花鳥風月や恋歌」を詠う余裕もない。和歌の〝本歌もじり〟にホンネ、風刺、諧謔、滑稽を盛り込んで憂さ晴らし。〝本歌取り〟は伝統・体制を笑う。落首に庶民は喝采した。

 狂歌は士農工商の垣根なしで共に盛り上がった。ホンネや話言葉があった。生活の苦しさを笑い飛ばすパワーがあった。江戸狂歌は時代の華になる。

 だが狂歌が言葉遊びを越えて〝落首〟に及べば、お上は黙っていられない。「寛政の改革」で狂歌に手を染めていた武士らが粛清され、町民文化人とも言いたい戯作者、狂歌師、絵師、版元らも次々に手鎖の刑、財産半分没収、江戸追放など。大田南畝も狂歌から離れて「学問吟味」を受験。

 〝狂歌師〟なる生業も生まれたが、次第に洒脱軽妙、知的さも失って質の低下を招いた。やがて江戸っ子にとって決定的ダメージは明治維新(十返舎一九没の37年後が明治元年)。薩長が江戸を闊歩し、やがて大日本帝国憲法。皇国軍隊下で日本人は完全に笑いを失った。

 概ねこんなプロットで、時代変化に沿って次々に代表的狂歌を紹介しつつ〝江戸狂歌〟の趨勢が紹介されていた。江戸狂歌は江戸人らが自らの存在(アイデンティティー)を求め謳歌した幻の華だったのではないかと。


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岡部「草臥てこしをうつゝのうつの山~」 [狂歌入東海道]

22okabe2_1.jpg 第二十二作目は「岡部」。狂歌はくずし字の元漢字交じりに記せば「草臥て古(こ)しをうつゝのう都(つ)の山岡部のやど尓(に)夢もむ春(す)者(は)須(ず)」。狂歌作者は「春富亭満葉」。

 絵は「宇津ノ山ノ図」。坂を上った所に茶屋(名物・十団子を売る茶屋だろうか)。道は「宇津ノ峠」へ続いている。弥次喜多らは「それより宇津の山にさしかゝりたるに、雨は次第に篠(しの)を乱し、蔦のほそ道心ぼそくも、杖をちからに十団子の茶屋ちかくなりて、弥次郎おもはず、さかみちにすべりころびければ~と記して狂歌「降しきる雨やあられの十だんごころげて腰をうつの山みち」。

 〝蔦の細道〟を歩いたように記しているが、間違いで〝宇津ノ山の峠道〟だろう。「宇津ノ山」は上り下り十六丁で、その峠道入口に十団子を売る茶店があった。この団子は小さい餅団子を糸で通したものらしい。

22okabebun2_1.jpg22ikabeuo_1.jpg 「篠」は小さい竹の総称。「篠を乱す=激しい風雨で荒れるさま=篠を突く」。狂歌入東海道は二十二作目にして絵と狂歌、膝栗毛の文章と狂歌、さらに保永堂版の絵のすべて「宇津ノ山」で一致です。

 弥次喜多らは茶屋を下ると、早くも岡部宿の宿引きに声を掛けられる。「大井川は川止めです。(例え越えられても)嶋田や藤枝の宿には大名一行が泊っています。まずは岡部にお泊り下さい」。岡部宿で泊ることにして一首。

 「豆腐なるおかべの宿につきてげにあしに出来たる豆をつぶして」。豆腐は白壁に似ていることから女房詞で〝おかべ・御壁〟(古語辞典)。「げに=本当に、まったく、いかにも」。豆腐~豆をつぶして、とつなげている。

 弥次喜多らは〝川明け〟まで岡部宿で休憩。同宿の飯盛女は素人風で評判だったとか。揚代は五百文。これにて『膝栗毛続編二冊完』。


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鞠子「通りぬけするかごもありとまつたり~」 [狂歌入東海道]

21mariko1_1.jpg 第二十一作目は「鞠子」(丸子)。狂歌は「通りぬけするかごもありとまつたり神楽のきよくのまりこ宿とて」。東海道で一番小さな宿場ゆえ「通り抜けする駕籠もあり止まったり」。当地は神楽が盛んとか。

 絵には「名物とろゝ汁」の看板。旅人が店内でとろゝ汁の丼を抱えている。保永堂版も「丸子」で、同じく「とろゝ汁」の店が描かれている。今もその元祖「丁子屋」が茅葺の店で十三代目が営業中。先日(八月上旬)テレビの旅番組を観ていたら同店が紹介されていた。店主が保永堂版「東海道五十三次」全初刷りを持って、全作で五千五百万円と言っていた。同店脇に芭蕉の「梅わかな丸子の宿のとろゝ汁」の句碑あり。

21marikobun_1.jpg21marikoup_1.jpg 弥次喜多らも雨のなかを鞠子宿へ入ってとろゝ汁屋へ。注文するも店主と女房が大喧嘩で食うのを諦めて一首。「けんくは(喧嘩)する夫妻は口をとがらして鳶とろゝにすべりこそすれ」。鳶は「とろゝ~」と鳴くそうな。喧嘩してとろゝをひっくり返したら、もうヌルヌルと滑るだけ。

 ここから岡部へは現・新宇津ノ谷トンネルだが、当時は右折して宇津ノ谷集落を経る旧道を歩いた。この旧道が出来る前は左折して〝蔦の細道〟を通ったそうで、今はハイキングコースになっているとか。次の「岡部宿」の絵は「宇津ノ山」が描かれている。


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府中「たび人もこひをするがの二丁まち~」 [狂歌入東海道]

20fucyu1_1.jpg 第二十作目は「府中」。狂歌は「たび人もこひをするがの二丁まちおもひはふじの雪とつむらじ」。ボストン美術館では「たび人はたびを~」。間違いだろう。絵を見ればわかる通り〝廓風景〟ゆえ、漢字で書けば「旅人も恋を駿河(するが)の二丁町想ひは富士の雪と積むらじ」。「つむらじ」の〝じ〟は打消しで〝積もらず〟か。

 「駿河の二丁目」は公認遊郭。〝ゴマの灰〟に金を盗まれた弥次さんは、駿府出身ゆえ親戚かに金の工面をしてもらって、まず宿の入口近く伝馬町に宿をとった。ここから遊郭へ遊びに行く。宿の主人に二十数町あるゆえと馬をすすめら、大門で馬を降りて廓の中へ。江戸の吉原と似た造りで悦楽の夜。朝方に宿へ戻って朝飯をとった後に鞠子へ向けて旅立った。

 今井金吾著『今昔東海道独案内』には「家康が駿府に入った初め、戦国名残りのけんかが絶えず、人心を柔らげるために造った遊郭という。一時は七丁もあったが、江戸吉原に五丁が移り、残りの二丁は昭和三十二年まで続いた」とあった。これは知らなかった。

20fucyubun_1.jpg20fucyuup_1.jpg 保永堂版は「府中・安部川」で、渡しの様子が描かれている。弥次喜多らも安部川の川越し人足から声をかけられて値段交渉。雨で水高ゆえ一人六拾四文也。二人は肩車で渡り切って酒手をはずんだ。だが人足はなんと川上の浅瀬を渡って戻って行くではないか。クソッ、騙されたと一首。

「川ごしの肩車にてわれわれをふかいところへひきまはしたり」。校注に「川越し人足」の説明あり。「川越し人足は東海道の酒匂・興津・安倍・大井の四川にあった。旅人は川会所で川札を求め、人足に頼む。蓮台・手引・肩車・馬越しの方法があった。膝下水は拾六文、乳通水は六拾四文など六段階の料金が決まっていた。


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江尻「花の旅駕をつらせてたゆたゆたと~」 [狂歌入東海道]

19ejiri1_1.jpg 第十九作目は「江尻」。狂歌は「花の旅駕をつらせてゆたゆたとうばか江尻に見ゆる児ばし」。「つらせて=連せて、連なって、行列して」。「ゆたゆたと=揺た揺たと、物がゆっくり揺れ動くさま」・巴川に架かる「稚児橋=児ばし」に掛けての「うば(姥、乳母)」。

 「稚児橋」は上方見附寄りゆえ、改めて興津宿から歩いてみる。江尻宿手前に「細井の松原跡」。江戸時代には立派な松並木があったそうだが、戦時中に松脂から燃料を採るってんで全伐採されたそうな。なんと哀れな歴史よ。

 ここから少し歩けば江戸見附(東木戸)があって「江尻宿」に入る。巴川に突き当たったら右折。そこが現・清水銀座で本陣跡などがある。等が。清水銀座が終わった所で左折して「稚児橋」。その先が上方見附(西木戸)で、府中宿へ向かう。

19ejiribun2_1.jpg 保永堂版は「江尻・三保遠望」。俯瞰図で江尻宿の甍の連なりの先に次郎長の清水港。湾の向こうが「三保の松原」で、遥か遠くに駿河湾が描かれている。ここより府中宿へ向かって歩き出すと「森の石松」を殺した都鳥の、次郎長一家に討たれた供養塔がある。

 狂歌入東海道の絵は、この辺りの街道風景だろうか。弥次喜多が詠んだ狂歌は「降くらし富士の根ぶとをうちすぎて江尻に雨の霽あがりたり」。最後が「霽(はれ)上がりたり」ゆえ上五「降くらし=降暗し」。「根ぶと=尻に出来る腫れもの=富士の裾野の山だろうか」。「霽(はれる、はらす)」は異体字。根ぶとの腫れと霽の地口洒落。十返舎一九は狂歌に熱中した時期があるに違いなく、いづれ彼の履歴も調べたい。。


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興津「風ふけば花にこゝろを興津川~」 [狂歌入東海道]

18okitu1_1.jpg 第十八作目は「興津(おきつ)」。狂歌は「風ふけば花にこゝろを興津川あさき瀬にだに袖はぬれけり」。「だに=~なのに」。絵は興津川の川越人足による肩車。女性の着物姿での肩車は、担ぐ方も跨がる方も大変だったのではと思った。保永堂版も興津川を相撲取り二人が川渡りの図。一人は四人がかりの駕籠で、ひとりは馬に乗っている。

 弥次喜多らは雨に降られて、変な茶屋(きな粉ではなくヌカをつけた団子屋)にあきれたりしつつ江尻宿へ。興津から江尻までは、わずか一里二丁。狂歌を詠む暇もなかった。興津宿にはむかし〝清見寺軟膏〟を売る店が十数軒あり。男色趣味系の着飾った美童らが売っていたとか。十返舎一九が好きそうなテーマだが言及なし。きっと享和・文化期にはすでに消滅していたのかもしれない。

 このシリーズは「くずし字」勉強も兼ねているので、彼らが興津宿へ至る文章を筆写してみた。「それより薩埵峠を打越、たどり行ほどに、俄に大雨ふりいだしければ、半合羽打被き、笠ふかくかたぶけて、名におふ田子の浦、清見が関の風景も、ふりうづみて見る方もなく、砂道に踏込し、足もおもげにやうやく興津の駅にいたり」。

18okitubun1_1.jpg18okitukyoka_1.jpg 「くずし字」の勉強を始めた当初に、中野三敏著『古文書入門 くずし字で「東海道中膝栗毛」を楽しむ』を千八百円で購った。これは「五編・上(桑名~伊勢)」のみの版本紹介と解説文。しかし今こうして、大学データベースで全版本を閲覧しつつ、古本の現代文・解説書を参考に遊んでいるわけで「あぁ、無駄な本を買ってしまったなぁ」と後悔なり。同シリーズには「百人一首」「おくのほそ道」「徒然草」などもあるが、これらも大学データベースで版本全頁の閲覧が可能で、数百円の古本の現代訳・解説で充分。小生と同じ貧乏隠居ご同輩へアドバイスです。


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由井「ふみ込は草臥足も直るかや~」 [狂歌入東海道]

17yuie1_1.jpg 第十七作目は「由井(由比、油井)。狂歌は「ふみ込は草臥足も直るかや三里たけなる由井川の水」。「かや=~であるかなぁ」。「三里だけなる」は蒲原から由井宿~由井川まで三里ということか。

 絵は由井川を〝仮板橋〟で渡る駕籠や飛脚が描かれている。弥次喜多のふたりは、油井宿に入ると両側の茶屋の女の客寄せ声に「呼たつる女の声はかみそりやさてこそ爰は髪由井の宿」。「呼びたつる=呼び声が高く響く」だろう。〝たつる(断つの意もあり)・かみそり・髪結い〟の縁語の洒落か。

 今も残る本陣跡の前に、油井正雪の代々続く紺屋(藍染)があるらしい。由井川を徒歩(かち)渡りした後は、興津までの途中「倉沢」といへる立場へ着く。爰は栄螺・鮑が名物。「爰もとに売るハさゞゐの壺焼や見どころおほき倉沢の宿」。(見どころは三保の松原、田子の浦、清見は関など)

17yuibun2_1.jpg17yuienoup_1.jpg ここからが薩埵峠(さったとうげ)。山が海に迫って、昔は〝親知らず子知らず〟の難所。その後、朝鮮人来朝に合せて中道、上道が出来た。保永堂版「由井・薩埵嶺」は中道で崖にしがみつくようにして富士と眼下の海の絶景を眺める旅人が描かれている。この峠を下って興津川を渡ると「興津宿」へ至る。


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蒲原「巡礼の娘と思ひ忍びしは~」 [狂歌入東海道]

16kanbarae2_1.jpg 第十六作目は「蒲原」で狂歌なし。この地を詠った狂歌がなかったか、見つけられなかったと推測する。表題の上の句は、後述する弥次喜多が詠った狂歌。

 絵は富士山を背に坂下から山道に上り出た旅人らが描かれている。蒲原宿は概ね海沿いゆえに、宿の手前の風景だろう。保永堂版「蒲原」も山奥の雪景色で「蒲原にこんな地形はないし、雪も降らない」と揶揄されてい、描かれた地の特定は難しい。

 弥次喜多らが蒲原宿に入ると、本陣に大名行列一行が泊っていて、時は配膳の真っ最中。喜多さん、どさくさに紛れ込んで女に「ここにも一膳」で、サッと膳を平らげた後、もうひとつの膳の物を手拭を収めて弥次さん用に調達。「うめぇ、うめぇ」と喰った弥次さんだったが「こりゃ、てめえが金玉やなにかを洗った手拭じゃねぇか」。

 結局彼らは宿場外れの、七十近い老夫妻が営む四、五畳ほどの木賃宿へ。客は六部(銭を乞いながら諸国の神仏を巡拝する者)が一人、六十余の親爺と十代の娘の巡礼二人組。彼らは物乞い(喜捨・布施)で得た米を出し合って炊いているが、弥次喜多のふたりに米はなし。

16kanbarabun1_1.jpg16kannbarauta5_1.jpg 六部、巡礼に至った人生遍歴などを聞いて、やがて寝る時間に。宿の婆さんは巡礼の娘と天井で眠り、男らは囲炉裏のまわりでごろ寝。喜多さんが娘に仕掛けぬわけがない。深夜に梯子を伝って天井へ。間違えて婆ぁの蒲団にもぐり込んで大騒ぎ。怒鳴られた彼は天井の簾子を踏み外して下の仏壇の中へ落下。この失態と修理費一部に浴衣を渡して平謝り。

 ここで表題狂歌「巡礼の娘と思ひ忍びしはさてこそ高野六十の婆々」。これは諺「高野六十那智八十」からとか。校注に諺由来の諸説が紹介されていたが、下世話な作者、男色関係にあった弥次喜多から「高野山、那智山の僧は男色が盛んで六十、八十になっても」の説が順当だろう。下世話ついでに「蒲原名物」は〝ひごずいき〟で女悦の具とか。弥次喜多らはバカ話をしているうちに由井の宿へ到着する。

 ※Yasuoka様、ご指摘ありがとうございます。小生所有の「蒲原」に狂歌が抜け落ちていた。そんなことがあるのですね。ボストン美術館は「春風に向て田村をすぎ行けば真袖に匂ふ梅にかん原」ですが、結句「梅〝に〟かん原」で良いのでしょうか。「梅〝か(が)〟かん原」とも読めます。古今和歌集に「梅が香を袖にうつしてとどめてば春は過ぐとも形見ならまし」があります。また「梅が香」は短歌・俳句の季語で多くの歌人、俳人が詠っています。加えて作者は〝梅香居〟です。従って「梅がかん原」は狂歌ならではの地口洒落ではなかろうかと思われます。いかがでしょうか。「真袖=まそで=両袖」。後日改めて「くずし字筆写」をしてみたく存じます。 


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吉原「行き来する人のいく度詠めても~」 [狂歌入東海道]

15yosiharae1_1.jpg 十五作目は「吉原」(左リ富士ノ縄手)。狂歌は「行き来する人のいく度詠めてもあしと思はぬ富士はよし原」。ここはあし(葦)ではなく、富士はよし原(葦原⇒吉原)ですと、同音異義語の掛詞。

 絵も狂歌通り、松並木が続くあぜ道を多くの旅人が歩き、やや左に大きな富士山。この地は〝左富士〟が有名。保永堂版も「吉原・左富士」で同じような風景。旧吉原が寛永十六年(1639)と延宝八年(1680)に大津波に襲われる度に奥地へ移転で、現・富士市中心街に移った。ずっと海沿いの街道を歩いて来て、ここで右折して陸奥へ向かうために、俄かに富士山が左に見えるようになるってこと。

 弥次喜多らは「やがて元吉原を打ちすぎ、かしは橋といふ所にいたる。此所より富士の山正面に見へて、すそ野第一の絶景なり」と記している。かしは橋(河合橋)からはまだ富士山は正面にあって、ここから先が〝左富士〟になって行くのだろうか。

15yosiharabun2_1.jpg 「餅の名のかしわ橋とて旅人のあしをさすりて休(やすみ)やすらん」。校注に、柏餅は手でさすって葉を剥ぐゆえ「かしわ・さする」は縁語とあった。ここから左富士を堪能しつつ吉原宿(現・富士市)に入ると、田辺聖子『東海道中膝栗毛を旅しよう』では「たちまち何ともいえぬ悪臭が町全体を掩(おお)っていて息もつけない」とあり「大昭和、本州、十條、王子、ここは二百五、六十の製紙工場がある」というタクシー運転手の弁を紹介。

 同書は1990年刊ゆえ「田子の浦ヘドロ公害」「公害デパート・富士市」と揶揄された1960~70年代からまだ改善途上だったのだろう。富士市広報サイトを拝見すると「11年間と68億円を投じて港のヘドロを除去。破棄したヘドロで河川敷を緑地化。併せて排ガス・排水を改善化を行った、と記されていた。

 弥次喜多らは、そんな街の未来像を想像出来るワケもなく、道端で子らが売るくわし(菓子)や餅をのんびり食いつつ富士川の渡し場へ。「ゆく水は矢をいるごとく岩角にあたるをいとふふじ川の舟」。「いとふ=厭ふ=危険を避ける、嫌に思う)。富士川を渡ると蒲原宿です。

 ★松尾守也様から多数のご指摘をいただきました。ありがとうございます。「吉原」の図を改めてみますと、ご指摘の通り「詠めても」ではなく「詠あても」が正しいように思いました。安易に読んでしまったと反省です。他のご指摘も「初心者はこんな誤読・誤解釈をしてしまった」の例になりますので、松尾様のご指摘コメントをそのまま維持掲載し、より完成された内容になればと思っています。よろしくお願い申し上げます。


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原「けふいくか足よ腰よとあゆみ来て~」 [狂歌入東海道]

14harae1_1.jpg 第十四作は「原」。狂歌は「けふいくか足よ腰よとあゆみ来て見あぐるはらの不二の大さ」。「けふいくか」は〝今日行くか〟ではなく「今日幾日(今日は幾日だろうか)」だろう。

 和宮が江戸に下る途中で「住み慣れし都路いでて今日幾日 急ぐも辛き東路の旅」と詠んだとか。「今日幾日」は「土佐日記」にも例あり。絵は見上げる富士山が迫力一杯に描かれている。

 宿場は東海道のなかで最も小さい。旅籠は25軒ほど。絵を描くならば宿場風景ではなく、やはり富士山だろう。この絵は宿場を出てからの立場(茶屋)だろう。保永堂版も「原・朝之富士」で湿地帯・浮島が原に鶴が二羽。その奥に富士山が聳える図。

14harauta1_1.jpg 弥次喜多のふたりは「まだめしもくはず沼津をうちすぎてひもじき原のしゅくにつきたり」。飯も食わず(飲まず⇒沼津)、ひもじき腹(原)の駄洒落。

 彼らは印伝の巾着袋を武士に買ってもらった百文で、やっと蕎麦を食う。蕎麦の盛のよさがうれしくて「今くひしそばはふじほど山もりにすこしこゝろもうきがはら」。〝浮島が原〟を盛り込んでいる。

 浮島が原から西へ歩くと「新田」なる地。ここはうなぎの名物にて、家ごとにあふぎたつるかばやきの匂ひに、ふたりは鼻のさきをひこつかして「蒲焼のにほひを嗅(かぐ)もうとましや(疎ましや)こちらふたりはうなんぎのたび(難儀の旅)」。


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沼津「名にしおふ沼津堤の花見酒~」 [狂歌入東海道]

13numadue1_1.jpg 第十三作目は「沼津」。狂歌は「名にしおふ沼津堤の花見酒泥のごとくに酔しひとむれ」。堤・泥の解読に難儀した。「ひとむれ=人群れ」ならば文字通りの意だろう。

 背景は左に大きな富士山半分、右に愛鷹山。その手前に長閑な田園・街道風景。茶屋の横に傍示杭(ぼうじくい)と高札あり。一方の保永堂版は蛇行する狩野川堤の道から沼津宿へ入ろうとする図。両画で沼津宿の西と東が描かれたことになる。

 弥次喜多のふたりもこの茶屋で、狂歌のように呑み潰れたいところだろうが、三嶋宿で金を盗まれて茶と煙草一服のみの休憩。茶屋を出て〝ならの坂〟といふ所に至り、千本の松原にて一首。「この景色見ては休にやならの坂 いざたばこにや千本の松」。休まにゃなら⇒ならの坂、煙草にゃせん⇒千本の松、と地名組み込み。

13numazuuta1_1.jpg 弥次喜多は、ここで会った武士に〝印伝革〟の巾着を百文で買ってもらう交渉をしつつ「原宿」に到着。「まだめしもくはず沼津をうちすぎてひもじき原のしゆくにつきたり」。「飲まず⇒沼津」「ひもじき腹⇒原の宿」。狂歌の駄洒落にすこし馴れてきたようです。

 以下はメモ。「傍示杭」は村境・国境の表示。「江戸見附・上方見附」は宿場の見付(木戸・大木戸・要所には桝形門)の解釈でいいだろうか。

 小生の伊豆大島ロッジの通称地名は〝ケイカイ〟。当初はその意がわからなかったが、海岸の朽ちたコンクリート杭に「元村・岡田村境界」の文字。その「境界」を法律・測量系で「ケイカイ」と読むと知った。江戸時代は「境界」を何と読んだのだろうか。

 印伝革はインド伝来の鹿革へ漆で模様を付けた革の巾着、煙草入れなどの工芸品。沼津堤は駿河湾の千本松沿いの堤か。今は10~17mのコンクリート防潮堤は20㎞も続いているらしい。そして波打ち際にテトラポット。景観・情緒を優先か、津波からの安全を優先かは難しい選択になる。


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三嶋「今も猶夢路をたとる心ちかな~」 [狂歌入東海道]

12misimae1_1.jpg 十二作目は「三嶋」。狂歌は「今も猶夢路をたとる心ちかな はなとみしまの雪の曙」。きっと昨夜は三嶋女郎衆と〝いい事〟があって、夢心地で歩き出している、そんな意だろうか。

 さて、地箱根を越えたら小生には馴染のない地になる。三嶋は雪景色です。保永堂版の二ヶ所が雪景色ゆえに「狂歌入り」も「藤川」と併せて二作が雪景色になっている。

 この雪景色は、三嶋のどの辺を描いたのだろうか。箱根峠から三嶋宿までは下り坂。下りきって神川(現・大場川)の新町橋を渡ると三嶋の東見附。この辺りだろうと推測した。旅ブログを拝見すると、同橋際にこの絵を紹介した看板があったゆえ、推測に間違いはなさそう。

 12misimauta2_1.jpg 三嶋女郎衆は秀吉命によったとかで歴史がある。彼女らは富士の雪解け水で化粧するので美しい。「農兵節」抜粋をつなげると ~富士の白雪の~え、白雪ぁ朝日でとける、とけて流れて三嶋にそそぐ、三島女郎衆はの~え、女郎衆はお化粧が長い~。

 弥次喜多のふたりは、箱根峠を下り始めて相変わらずバカをやっていた。向こうから大名の国許から江戸入りするだろう女中四、五人連れが来た。喜多さん「白い手拭を被ると粋な男風になる」と〝さらしの手拭〟で頬被り。

 案の定、女らは笑った。得意げな喜多さんに弥次さん「何が色男だぇ、そりゅあ越中ふんどしじゃねぇか」。そこで一首。「手ぬぐひとおもふてかぶるふんどしはさてこそ恥をさらしなりけり」。「恥をさらし⇒晒しふんどし」、「さてこそ=そういうわけで」。

 やがて彼らは一人旅の十吉と意気投合。途中で子供らがすっぽんを捕えて遊んでいるのを見て、浦島太郎よろしくすっぽんを買い上げて三嶋宿へ。三人相部屋で三嶋女郎衆をあげた。夜もたっぷりふけた頃、すっぽんが喜多さんの夜着のなかにもぐり込む。慌てて放り投げると弥次さんの顔の上。さらに指を咥えて離さない。

 大騒ぎ勃発。気付けば十吉が消えていた。胴巻の金もない。ごまの灰(泥棒)にしてやられた。残り銭をかき集めてどうにか旅籠を出る。泣く泣く一首。「ことわざの枯木に花はさきもせで(せず)目をこすらするごまの灰かな」。


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「狂歌」のお勉強(1) [狂歌入東海道]

kyoukamiji.jpg 「狂歌入り東海道」は「くずし字」解読が目的も、思いもよらず「狂歌」とお付き合い相成り候。俳句関係書を読み駄句も作るが、和歌や短歌の「みそひともじ」は好きじゃなかった。

 「百人一首」の四十三首が恋歌。隠居の身で「百人一首」を口ずさめば、老いたシンガーソングライターらが、若い頃にヒットさせた恋愛ソングを今も未練たらしく唄っているのに似て恥ずかしい。

 かくなる理由で和歌・短歌に親しめずも「狂歌」は、やはり避けては通れなかった。永井荷風好きゆえ、彼が関心を寄せた大田南畝(蜀山人、四方赤良、山手馬鹿人、杏花園など)の人物像に関心をもって関連書も読んできた。彼の旧居巡りもした。その大田南畝こそが狂歌の代表格。

 加えて江戸好きだと、浮世絵と狂歌は欠かせない。いい機会ゆえ少しは「狂歌」に親しもうと俄か勉強。文末紹介の著作から〝勝手解釈〟で「狂歌」をまとめてみた。

 狂歌は和歌(五七五七七)をベースにした滑稽・諧謔の遊び。浪花系と江戸狂歌の二つの流れがあるも、ここは江戸狂歌をお勉強。狂歌は当初、仲間内の遊びゆえに詠み捨てだったが、天明期(1781~)の黄表紙、洒落本、川柳など庶民中心の出版大ブームと共に爆発的に盛り上がった。南畝が公募すれば荷車五台、千箱が寄せられた。

 その特徴は、優雅な古典和歌の〝本歌取り(もじり)〟の滑稽・諧謔仕上げ。主な技巧は「縁語・掛詞・地口」等の多様。●「縁語」は関係する語を連想的に使うこと(古語辞典の付録に一覧表がある)。●「掛詞」は(待つ=松)(聞く=菊)などの同音異義語。●「地口」は言葉遊び。有名文句のもじりで「舌切り雀=着たきり娘」、韻を踏むなら「美味かった=馬勝った」、意味のない言葉をつなげる「そうはいかのキンタマ」「恐れ入谷の鬼子母神」など。他に百人一首などの下の句をそのままに上の句を変えて別の一首にする遊びなど。

 本歌取りの多くは、すり替えて別の意にする滑稽さ。また卑俗な世間に引き下ろす諧謔。それら根底にあるのは体制への反発。封建主義下の心の狂、狂趣もあり。度が過ぎれば「落首」にもなる。その精神は散文にも及んだ。

 寛政の改革で、山東京伝は手鎖50日の刑、蔦重は財産半分没収。武士も自害に追い込まれた。風俗統制、贅沢禁止、文武奨励の松平定信をおちょくって「世の中は蚊ほどうるさきものはなし ぶんぶといひて夜もねられず」「白河の清き流れに魚住まず 濁れる田沼いまは恋ひしき」。

 そうした精神を反映して。狂歌は武士と町民の垣根を越えて共に盛り上がる。内藤新宿の煙草屋「平秩東作」、湯屋主人の「元木網(もとのもくあみ)」、その女房「智恵内子(ちえのないこ)」、旅籠主人の「宿屋飯盛(やどやのめしもり)」吉原妓楼主の「加保茶元就(かぽちゃのもとなり)」等々。

 ここで紹介の十返舎一九は駿府生まれで、浪花で芝居作家としてデビュー。三十歳前に江戸に来て蔦重家に居候。その経歴から彼の〝東海道中膝栗毛〟の文は下世話で、狂歌も関西ノリがある。江戸人がアイデンティティ(江戸自慢、貧乏自慢、建前の裏のホンネ露出を含めて)を求め発揮した狂歌だったが、お上の介入で武士は身を引き、大田南畝は学問吟味に挑戦して主席合格。有能な町人狂歌師も江戸払い。やがて明治の改革から大日本帝国になって滑稽・諧謔・風刺の狂歌は姿を消した。

 参考資料:岩波書店「日本古典文学大系/川柳・狂歌集」の濱田義一解説文、小学館「日本古典文学全集/黄表紙・川柳・狂歌」の水野稔解説文、江口孝夫著「江戸の百人一首」、なだいなだ著「江戸狂歌」など。


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箱根「ことわざに雲ともいへる人なれや~」 [狂歌入東海道]

hakonee1_1.jpg 十一作目は「箱根」。狂歌は「ことわざに雲ともいへる人なれやかゝる山路を夜るも越ゆく」。筆写で「夜にも」と書いたが正しくは「夜るも」。「夜」に送り仮名「る」が付き、「越ゆく」に送り仮名「え」がない。当時は送り仮名が定まっていないゆえ、柔軟に対処しないと読み誤る。「なれや=だから~なのだろうか」。意は「諺で雲の人といわれるだろう人が箱根の山路を越えてゆくよ」。

 その諺は知らないが「雲の人=雲助」だろう。彼らには箱根路を守っているという高いプライドがあって、沿道沿いに「雲助徳利の墓」もあるとか。絵は険峻な石高道を武士らしき二人を乗せた駕籠が、松明を掲げて走って行く図。侍らに火急の用があったと思えば、時代劇ドラマも浮かんで来る。

 膝栗毛にこんな一首あり。「ひとのあしにふめどたゝけど箱根やま本堅地なる石高のみち」。校注に「本堅地(ほんかたぢ)」は「箱」の縁語。布・漆・磨きを重ねた上級漆器のこと。「石高道(いしだかみち)」は石が多くでこぼこしている道。箱根の山は人の足で踏めど叩けどびくともしない本堅地のような石高道だ、と詠っている。

hakoneuta1_1.jpg 保永堂版は「箱根・湖水図」。〝万丈の山・千仭の谷〟を大名行列が下ってい、眼下に芦ノ湖が見える。湖畔まで下れば、そこは「箱根の関所」。関所を通った先に宿場があるも最高点・箱根峠はまだ先だ。

 弥次喜多のふたりは、無事に関所を抜けた歓びで一首。「春風の手形をあけて君が代の戸ざさぬ関をこゆるめでたさ」。「あけて」を中村幸彦氏校注は、手形を役人に見せるために「差し〝上げて〟」。片や麻生磯次氏校注は、役人に手形を「開き〝あけて〟」と説明。偉い先生方でもかくも微妙に解釈が違うゆえ、無学隠居=小生のいい加減な解釈も免じてもらいたい。

 「閉ざさぬ関を越ゆる目出度さ」は、現代人には関所=難関イメージがあるも、江戸人にとっては明け六ッ時(午前6時頃)から暮れ六ッ時(午後6時頃)まで門が開いてい、自由に行き来が可能で目出度い事よ、の気持ちだったのだろう。両先生共に、この狂歌を「戸締りをしないでも盗難などの心配のないよく治まった御代よ」と説明していた。

 小生はここで大田南畝の一首を挙げたい。「あいた口戸ざゝぬ御代のめでたさを おほめ申すもはゞかりの関」。やはり南畝は十返舎一九より冴え、風刺も効いている。

 弥次喜多のふたりは、箱根に泊らず次の三島で泊るべく箱根峠越えして坂を下って行く。以上で「東海道中膝栗毛・初編」終わり。


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小田原「小田原の沖の船より見えつらん~」 [狂歌入東海道]

odawarae1_1.jpg 十作目は「小田原」。狂歌は「小田原の沖の船より見えつらん霞の海の城の鯱」。「見えつらん=きっと見えたでしょう」。小田原の沖の船から霞の海を通して城の鯱が見えたでしょうか。こんな解釈でよかろうか。

 一方、保永堂版は「小田原・酒匂川」渡しの風景。駕籠を乗せた蓮台渡し。渡った向こうは箱根の山々。その手前に小田原城が描かれている。東海道最初の城下町で、江戸から20里ほどで、二泊目の宿場。この宿に泊ったら、明日からいよいよ〝箱根の剣〟です。

 弥次喜多のふたりは、ここで小田原名物を詠っている。「梅漬の名物とてやとめおんなくちをすくして旅人を呼ぶ」。校注に梅の縁語で「口をすくして」とあった。古語辞典をひき遊んでいたら「竦(すく)む=こわばる、ちぢこまる、すくみ」があった。別の書の校注に「口をすくして=たびたび同じ事を言う」とあった。これも辞書をひく。「すく=食す」「口を過く=なんとか生活をたてる」があり、「すぐ=程度を越える」があった。両著校注を併せて「口をすくして=(酸っぱくて)口をちぢ込ませて+(程度を越えた呼び声で)旅人を呼ぶ」の洒落になっているとわかった。

odawarauta1_1.jpg 江戸庶民が夢中になった狂歌だが、今はここまで考えないと意が解けぬ哀しさ。また小生愛用『古語辞典』(旺文社)には、確か付録冊子付きで「縁語・掛詞一覧」があったはずだが、本棚のどこかに埋もれたままだ。

 もう一首。「ういろうを餅かとうまくだまされてこは(これは)薬じゃと苦いかほする」。小田原宿の中ほどに「外郎家」あり。同店は江戸時代から今も八棟造りのミニお城のような店舗。車でよく走っていた時分には、何度も店の前を走った事がある。

 同店で売っているのは「透頂香(とうちんこう)」なる仁丹のような薬(万病に効く)と、お菓子の「ういろう」。薬販売の接待用に作ったお菓子が評判になって売り始めたそうな。歌舞伎の早口言葉「外郎売り」はこの店の由来。名古屋の「ういろう」は幾度も食ったが、小田原の「ういろう」は食べことがない。


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大磯「うかれ女の真心よりぞうそふける~」 [狂歌入東海道]

oisoe1_1.jpg 九作目は「大磯」。狂歌は「うかれ女の真心よりぞうそふけるとらといふ名はいしに残れり」。これを詠み解くには難儀した。わからない時は漢字で書いてみる。「浮かれ女(遊女)の真心よりぞ嘯ける(吟じる)虎という名は石に残れり」。

 江戸時代に大磯といえば、遊女・虎を語るのが定石だったとか。曽我兄弟の父の敵討ち。兄・十郎は本懐を遂げると同時に果て(陰暦五月二十八日)、彼の愛人が遊女の虎さん。この時期の雨を、虎御前の涙「虎の雨、虎ヶ雨」。ならば「浮かれ女の真心よりぞ嘯ける虎という名の雨になりけり」。

 街道沿いの延台寺に、曽我兄弟の敵が放った矢と刀の身代わりになったとされる「虎御石」もある。ネットで写真を見たら刃跡が亀頭をかたどって、矢の穴を女陰とみる陽陰石。弥次喜多のふたりもこの石を見てこう詠んでいる。

9ohisouta2_1.jpg「此さとの虎は藪にも剛のものおもしの石となりし貞節」。「藪に剛の者」は諺。草深い所にも優れた人物がいるの意。「剛の物⇒香の物⇒おもしの石」。校注を読みつつ十返舎一九の狂歌も、かなりひねりが効いていると感心した。

 宝永堂版は「大磯・虎の雨」。大磯宿に入る直前の旅人らが〝虎の雨〟に合羽姿で背を丸めて歩いている。相模湾に面した海岸には磯馴松(そなれまつ=風に耐えつつ曲がって伸びた松)。大磯宿には西行の歌で有名な「鴫立庵」もあるが、説明が長くなるので割愛。

 この絵は大磯宿の上方端を描いた絵だろうか。沖に突き出たのは真鶴岬と伊豆半島の山々だろうか。この絵を見ながら大磯・照ヶ崎でアオバトを撮った事の他に、もうひとつ思い出したことがある。小学校の臨海学校が大磯のお寺だった。えらく素敵なお姉さんが世話をしてくれて、異性に初めて胸ときめいたことを思い出した。あれはどこのお寺だったのだろうか。


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平塚「大磯へいそくえき路の鈴の音に~」 [狂歌入東海道]

hiratukae1_1.jpg 八作目は「平塚・馬入川渡船」。狂歌は「大磯へいそくえき路の鈴の音にいさむ馬入の渡し船かな」。

 馬入川は現・相模川。渡船は一人十二文。渡った先に平塚宿の「江戸方見附」。絵の狂歌の「駅路の鈴の音」は、駅路(官道、ここでは東海道)を官令で旅する者に下された鈴、駅馬の供与を受ける証しの鈴の音。「音(ね)」は祢、「かな」は可奈のくずし字。

 弥次さんも、ここで一首詠んでいる。「川の名を問へばわたしとばかりにて入が馬入の人のあいさつ」。この「入が馬入(にゅうがばにゅう)」は仏語「入我我入(悟れば皆人、お前が我か我がお前か。はっきりしない、要を得ぬ意)」の地口遊び。駄洒落とは言え「入我我入」なる言葉を知らぬ小生には、同書校注を読まなければ理解不能。江戸庶民は、これでフフッと笑ったと思えば、江戸の教養は相当に高かった。

hiratukauta1_1.jpg 宝永堂版は「平塚・縄手道」。平塚を抜けて大磯へ向かう「縄手道=あぜ道」の風景。手前に「上方見附」の柱があって、飛脚が平塚宿へ入ろうとし、空駕籠を担いで大磯へ向かう二人組とすれ違っている。水田の向こうに「花水川」に架かる橋が見え、その奥に高麗山が盛り上がっている。

 馴染なき地と思っていたが「花水川」で思い出した。ここからは私事。仕事を半分辞めて、鳥撮りの趣味を始めた当初のこと。大久保駅の始発電車に乗って大磯へアオバトを撮りに行った。隣の鳥撮人が「未だカワセミを撮っていないのなら花水川へ行ってごらん。50㍍歩けば1羽に逢える」。

 大磯・照ヶ崎からテクテクと花水川まで歩いて、初めてカワセミを撮った(新宿御苑にもいると後で知るが~)。「川っておもしろいなぁ」と興奮しつつ限りなく遡上歩きして(ぶっ倒れるほど歩いて)幾種もの野鳥を撮った。もう8年も前の今頃の季節だった。今はもう歩く元気もなく机上で東海道遊びです。


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藤澤「うちかすむ色のゆかりのふち沢や~」 [狂歌入東海道]

fujisawae1_1.jpg 七作目は「藤澤」。狂歌は「うちかすむ色のゆかりのふち沢や雲井をさして登る春かな」。意は「雲井(大空)に向かって春の陽が登ってほのかに色づいて行く藤沢や」。

 弥次喜多らは昨夜、飯盛女が夜の相手をしてくれなかったことに自棄気味の歌を詠んでいた。「一筋に親子とおもふおんなより只二すじの銭まうけたり」。結果的に二筋(一筋は銅銭百文。二筋で二百文)使わずに儲けたようなものだ。

 かつて勉強した江戸金銭事情によれば、一文=二十円ほど。二百文で四千円。それは米三升分。畳職人の日給二百六十七文に足らず。江戸の裏長屋家賃四百文の半分ほど。「ふ~ん、そんな金額だったのか」と思った。古語辞典に「まうけ=ごちそう」で利益とは別とあった。

fujisawauta1_1.jpg 広重は藤沢を多角度から描いている。この「狂歌入り東海道」は遊行寺側から橋向こうの鳥居と宿場町を描いて背景左は大山。「宝永堂版」は橋の向こう側、鳥居側から橋を見て遊行寺と門前町を描いている。「隷書東海道」は夕闇迫った宿場内で旅人と客引きの様子で、橋の端が見えている。「蔦屋版」は宿場を越えて大山道が分岐する立場茶屋。「五十三次名所図会」は平塚寄りの松林の風景が描かれている。

 遊行寺には飯盛女の墓が四十余基あるとか。また永勝寺には旅籠・小松屋源蔵一家の墓があり、同家雇いの飯盛女四十四人と下男四人の記録あり。四十一年間に四十四人が亡くなっているそうな。(北小路健「古文書の面白さ」より)。吉原の「浄閑寺」、内藤新宿の「成覚寺」のような役割も負っていたのだろう。

 この橋は現・遊行寺橋(昔は大鋸橋とか)で、鳥居はここから5㎞先の江ノ島弁天の第一の鳥居。藤沢は東海道、江の島への道、大山道、さらには鎌倉街道の分岐点で多くの人が行き交っう要所。弥次さんも茶屋で団子を食いつつ、江の島に行くオジさんに道を教えている。

 弥次さんは橋を渡って藤沢宿に入ったところで、戻り駕籠と値引き交渉し、三百五十文を百五十文(七千円を三千円)にして駕籠に乗って〝馬入川の渡し〟へ向かった。


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戸塚「霞日をとつかの駅路とつかは~」 [狂歌入東海道]

todukae1_1.jpg 六作目は「戸塚」。狂歌は「霞日をとつかの駅路とつかはといそぎて旅を双六のうへ」。この読み下しは「ボストン美術館」と同じゆえ間違いはなかろうが「とつかの」と「とつかは」の意が解けぬ。

 狂歌は本歌取り、駄洒落、地口遊び。有名文句のもじり、韻を踏む戯れ、「恐れ入谷の鬼子母神」など意味ない掛詞遊びなど。頓智力のない小生には辛い。この解読は宿題です。なお広重は「浮世道中膝栗毛滑稽双六」も描いている。

 保永堂版「戸塚・元町別道」は馬を縁台に横付けして下りる男、それを迎える茶屋女など様々な人物配置、細かい風景描写で逸品らしい。場所は戸塚宿入口の柏尾川に架かる吉田橋の辺り。「左りかまくら道」の道標は今も近くの妙秀寺に保存されているとか。

todukauta2_1.jpg 比してこの「狂歌入り東海道」は、山間道を早飛脚が走っているだけ。入手版画が安物で摺りズレ大で興醒めだが、これはどこを描いたのだろうか。ネット調べをすると戸塚宿の「上方見附跡」史蹟看板に、同じような山道を描いた広重「隷書東海道・戸塚」が紹介されているらしい。この絵もきっとその辺りと推測した。戸塚宿は江戸寄り「江戸方見附」から「上方見附」まで約2.2㎞らしい。

 戸塚宿は日本橋から十里半(約42㎞)。上方へ向かう旅人のほとんどがここで一泊。弥次喜多らもそのつもりだが、あいにく参勤交代ご一行が泊っているので泊れる宿がない。こんな狂歌を詠んでいる。

「とめざるは宿を疝気としられたり大きんたまの名のある戸塚に」。中村幸彦校注にこうあった。「戸塚には大睾丸の乞食が元禄頃からいて、その三代目は睾丸の上に鉦を置いてこれを打ち金を乞うた」。狂歌の意は「そんな大きんたまで知られた戸塚なのに、宿業を疝気(せん気=しない気)と知った」。疝気は漢方では下腹部や睾丸が腫れて痛む病気の総称。疝気は〝しない気〟で、睾丸にもかけて頓智がとてもよく効いた歌になっている。

 弥次喜多は結局、上方見附際の「本日開業」の宿に入る。二人は親子に成り済ます趣向を考えるが、女に相手もされず欲求不満のまま朝を迎える。


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