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『スモール イズ ビューティフル』第一部 [政経お勉強]

small_1.jpg 先日、テレビ「欲望の資本主義2021」(1月1日の再放送?)を途中から観た。そこで語られていたのは1973年(昭和48年オイルショックの年)刊のE・F・シューマッハー『スモール イズ ビューティフル』で指摘されていたことがベースになっていると思った。同書は当時「現代の預言書」と評されたベストセラーで、今も「古典的論考」と注目され続けているらしい。

 1973年はオイルショックの年だ。小生はフリーランサーで、それまで順調だった仕事がピタッとなくなった。外注の印刷代も払えず、新聞求人広告で高給を謳っていた新宿のキャバレーで働き出した。

 今のコロナ過では、フリーランサーにも支援金・給付金があるそうだが、当時はそんな生き方を選んだ者は「自己責任」で、またその覚悟で選んだ道だった。夜の世界から従来の仕事に復帰後は、役所や大企業就職の同年配に負けてなるかと必死に働いた。世はやがてバブルへ向かい出した。

 同書はそのオイルショックで顕在化した資本主義・工業経済・民主主義〝終焉の兆し〟に注目し、そこに巣食う過ちから「新しい経済学」が模索されていた。未だ巨大企業GAFAによるネット社会に至らずも、同書で指摘された従来経済学の過ちは、今も通じる貴重な警告になっている。今、オイルショックの同書刊行から48年後の「コロナ過」で、遅まきながら同書新訳の文庫(講談社学術文庫)入手で、改めてお勉強です。

 第一部「現代世界」第一章は「生産の問題」。著者はまず、代替不能の自然資産(化石燃料=石炭、石油、天然ガス)の凄い勢いでの使い捨てを警告している。結果、地球は気候変動で危険な状態に陥り、その代替えで原子力を稼働させれば、いつまでも消えぬ放射性廃棄物を抱え込むことになる。そんな「永続性なき経済」が良いワケがなく、新たな「経済学」が必要だと説く。

 豊かさの追求=平和の途~と安易に認識されているが、富んだ国の裏には常に貧しい国・人がいる。ひたすらに富を求める唯物主義の拡大主義は、自己抑制を忘れて「永続性・平和・環境」と折り合えず、その成功=災いになっていると指摘。

 著者は今後の経済学は、人間を環境ぐるみで考える「超経済学」が必要だと訴える。従来は労働=コストで、オートメーション(機械化)でコストゼロを目標にしてきたが、大きな間違いだろう。今後は人間活動に不可欠な財=空気・水・土壌・鉱物などを含めた自然界すべての存在を認識した経済学に変換しなければ先がないと警告しる。

 そこで著者は注目したのが「仏教経済学」。仏教的観点からの労働は、欲望を増長するためではなく、人間性を純化させることと捉えられている。自分の能力を発揮・向上させ、他人と共に働くことで自己中心的な態度を棄て(慈悲心を養う)、仕事を通して人間性、人格を向上させる舞台と捉えている。しいては解脱(悟り)をも得る場と考えられている。

 唯物主義はコスト追及で、勢い輸出輸入も活発化し、国家間の争いも生む。国の繁栄=領土拡大で、産業も企業も規模が巨大化方向で、物流・通信技術の発達、大都市集中、大量失業を生む。だが仏教徒は、地域社会の中での自給自足の暮しを求めている。再生不能財を贅沢に消費するのは暴力行為と考えられると提案する。以上が第一部・五章の要約。

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ウォシュレットと資本主義終焉の話 [政経お勉強]

bennza&sihonsyugi_1.jpg ブログに「温水洗浄便座(ウォシュレットはTOTOの商品名)」設置を記し、次に新書『コロナ後の世界に生きる』をまとめたら、ウォシュレットが『資本主義の終焉と歴史の危機』(水野和夫)に結びついていて、いささか驚いた。

 同書には1行ほどの記述だったが、2014年の発売期のニコニコ動画内「紀伊国屋チャンネル」で氏がインタビューに応えて、ウォシュレット普及から「資本主義の終焉」を確信したと云うエピソードを語っていた。その概要は~

 歴史学者ブローデルが資本主義の転換期検証で、イタリアの「長い16世紀」分析に、こんなエピソードを記されていたと~。ドイツからのイタリア旅行者が、ジュノヴァへ行ったら、山のテッペンまでワイン畑が広がっていたのに驚いたそうな。当時のイタリアは金余りで、お金の使い道(投資先がなく)、それゆえに山のテッペンまでワイン畑が広がった。

 水野氏は、同文が頭の中にあった時に、親しい日経の方にこんな話を聞いたそうな。「JR網走のトイレが立派な温水洗浄便座だった。野沢温泉の山頂へ行ったら、そこのトイレも立派なウォシュレットだった」。「あぁ、日本は地の果てから山のテッペンまでウォシュレットが行き渡っているのだ」。他にお金の使い道がなくなってのトイレ施設の充実化。

 そう思えば知らぬ間に新幹線も高速道路も次々に伸びて、空港も1県に数施設が出来ている。資本の使い先がなく(低金利になって)過剰投資状態になっている。資本主義の基本=金利がゼロになって、資本主義が終焉を迎えていると確信して、同書を執筆したと語っていた。

 資本主義は、13世紀にローマ教会によって利子率が公認されて始まった。資本主義=金利だが、その金利が今はゼロになって久しく、資本主義が終焉を迎えているのでは~の考察が同書にまとまったと語る。

 そう説明されて、小生も納得する事が多少ある。ウチから新宿3丁目へ向かう明治通りに、オリンピック客を目論んでのホテルが次々に建った。だが日韓関係がこじれて韓国旅行者が消え、次に中国観光客が消え、コロナ過でオリンピック延期、インバウンドの姿も消えた。「可愛そうに、これじゃ経営ままならぬだろうに~」と思っていたが、それでも今、ホテル建設が始まったいたんだ。オリンピックも中止だろうに何故・何故と思っていたが~。テレワークでオフィス出勤7割減にかかわらず、東京は相変わらず超高層オフィスビル林立も止まらない。

 ホテルも超高層オフィスビルも需要がないのに次々建設は、資本主義の基本=金利ゼロで、かつ他に投資先もなく滞った資金がこれらに注ぎ込まれている~と了解した。肛門に心地よい温水を浴びつつ、その辺の書を読んでみましょうかねぇ、と思っている次第です。

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『コロナ後の世界を生きる』熊さん風まとめ② [政経お勉強]

byousitusora_1.jpg さて八っつぁん、今度は日本だ。「7年一強」の安倍政権が、コロナにまったく無能を晒らした。「アベノマスク」、『うちで踊ろう』コラボで自宅で寛ぐ動画アップ~。長屋の皆も「この人、頭狂ったのかしら~」と驚き、誰かが「こんな人が政治をやっていることが緊急事態」に大爆笑した。

 八「自民党議員の4割が世襲議員。高額な税金収入で代々暮して来た輩らに、政治が出来るワケがねぇ。加えて爺さんの多いことよ。時代はとうに変わっているのに、彼らの頭には戦後の高度成長経済ばかりが残っているみたいで、新たな時代センスが微塵もない。

 そんな彼らが官僚人事を握り、忖度役人ばかりが周囲を固めている。右翼団体の「美しい国」を、自身の政治標語にするような首相の下で「憲法に緊急事態条項を入れる」など許せるワケもない。コロナでは厚労省も体たらく。医系技官を抱えた独特の省庁とかで、他者の話を聞かず。融通効かず。臨機応変・スピード感もない。そのなかで知事らがクローズアップも、知事と国の責任なすり合い。経費負担の駆け引き。元官房長官・菅総理が誕生したが、この方はとても総理の器ではなく、リーダーシップ欠如で、コロナ対策は後手後手。就任数ヶ月で早くも不支持率が上回った。この先の日本はどうなるのだろうか~。

 彼らは、未だコロナより「東京オリンピック」に執着。その五輪も「選手ファーストならぬ政治ファースト」が透けて見える。アスリートらが、政治から独立する覚悟をもって奮起するなぁ~んてことも出来そうにない。

 オリンピックと云えば巨大建築だ。街は「超構想ビル林立」の勢い止まらず。それでいて今は、オフィスいらずのリモート推奨の矛盾。ハコ=空調・石油。私たち世代の子供時代は、夏は縁側で、狭いながらも庭を造って涼んでいたもの。だが今は気候変動・地球温暖化で夏にエアコンなしでは死に至る。

 小泉進次郎が、気候変動阻止への脱炭素社会へ動けば「それで経済成長ができる~」と菅総理が乗ったとか。やはり根本がズレている。すでに民主主義も資本主義も老化・衰退に向かっている。民主主義は米国のトランプの例からも読み取れる。為政者は「そんなものは形だけあればいい」と嘘ぶいている。少数が世界の資産のほとんどを独占し、実体の伴わない株価上昇。格差は地域・人種に及んで限りなく広がるばかり。日本のコロナ禍ではシングルマザーと子供達、派遣社員、さらには医療従事者、介護福祉関係者へ厳しいシワ寄せ。非常事態宣言で飲食関連者がピンチを迎えている。

 コロナは「ボーダーレス」感染も、その対策はそれぞれに歪みを抱えた国家間の「ボーダーフル」対応で、世界は疲弊するばかり。それでも世界はペスト、新大陸に持ち込まれた梅毒、コレラ、スペイン風邪~と何とか克服して、その都度、新しい世界を築いてきた。コロナもいずれは収束し、その後にニューノーマル(コロナ後の世界)へ向かうのだろう。

 新たな民主主義・資本主義は、シングルマザーと子ら、派遣社員ら、苦学生ら、さらにはエッセンシャルワーカーを守る体制、テレワークなどの新たな働き方、自然を大事に、自然と共に暮らす道へ進むような気がしないでもない。同じ意で「経済」もまた利益追求型概念はもはや通用しない。例えば環境を守る投資は不経済ではなく、国民総生産向上も人類の幸せ指数にならない。それを「超経済学」と云うそうな。

 政治家もまた、今の爺さんらに引退していただき、例えば台湾のIT担当大臣のジェンダーレス、オードリー・タン氏のような新しいタイプの新人類で形成されるのが望ましい。シューマッハー著『スモール イズ ビューティフル』では慈円『愚管抄』より~8万歳から10歳に歩み下り、再び10歳から歩み始める~が紹介されているとか。人類はこのコロナをどう収束させ、どんな新しい世界を歩み出すのだろうか。そこに希望を抱いて、この項を終わります。写真は尿道カテーテル・点滴装着で、以上を考えつつ入院病棟から見ていた新宿の夕陽。 

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『コロナ後の世界を生きる』を熊さん風まとめ① [政経お勉強]

covid-19_1_1.jpg 先日の15日間入院中に岩波新書『コロナ後の世界を生きる』を読んだ。各界の一人者24名の原稿を掲載。それを一人(長屋の〝熊さん〟)の意見としてまとめてみた。

 人間てぇのは困難が立ちはだかると、すぐ楽観主義になって現実逃避したがる。第二次大戦だって大本営が「楽観と空威張り」発表で、マスコミもそれを垂れ流し、長屋の誰もがそれをすっかり信じまいやがった。

 手前の考え・意見を放っぽり出して「欲しがりません勝つまでは~」。我慢に我慢で抑えつけられて、終戦と同時に「はい、今日から民主主義です」。それまで抑えつけられたエネルギーが、そこに向かって一気爆発。日本人ってぇのは、そんな歴史を持っているんだ。苦しさ・貧しさ・厳しい制約から、新しい価値の出現に大衆こぞって盛り上がるてぇのはロシア革命、ナチス独裁も同じだな。

 で、今は新型コロナの感染拡大だ。日々の感染者数発表に一喜一憂だが、人間ってぇ奴は誰もが「自分が世界の中心」で、感染するのは何処かの誰かさんだと思う。そこで肝心なのが「遠くの誰かもかけがえのない存在。自分もまた地球上の何千億の一人」という「魂の想像力」を発揮すること。八っつぁん、ちょっと難しくなったがわかるか。八「感染するのは他人ではなく、手前ぇもその危険の中にいると認識するってことだな」

 想像力に併せ、観察力も大事だ。コロナ感染によって、今まで隠されていた社会の歪み~、例えば人種・貧富の格差(白人・黒人のコロナ死亡率2倍とか)、少数の資産独占(特にGAFA巨大化)、気候変動、医療体制、産業形態、無能力政治家の姿などを浮き彫りにしている。それらをよぉ~く観察しろってぇことだ。

 コロナ感染の今こそ首相のリーダーシップが必要って時に、今まであれほど偉そうにしていた首相が、何にも出来ねぇ。さらに平気で嘘をつく、自分都合で改竄もする狡さ~とんでもねぇ輩だとわかっちゃった。

 いま世界は「ポピュリズム」の時代で、グローバリズム(産業・貿易・観光・人の移動~)で、ネット社会だ。長屋の爺さん婆さんらもスマホに四苦八苦。ネットで「情報の世界共有化」は歓迎だが、どうも、あの「SNS」ってぇのが良くねぇ。短文で乱暴に人々を煽り、人々も性急に答えを求める。そこには寛容さ、多様性もない。(トランプの扇動で、彼の信者らが連邦議会議事堂に乱入。1月8日にTwitter社は暴力扇動の危惧から氏のアカウントを永久凍結。彼らの交流サイト「パーラー」をアマゾン・コムが停止した)

 その結果、世界は今「自国第一主義・権力化・分断社会・人権や貧富の格差~」が一段と顕著になっていらぁな。民主主義の脆さ、衰退~。これでは、他者を理解し、他者との連帯感満ちた社会・未来は遠のくばかり。コロナはまた「ソーシャル・ディスタンス(社会的距離)を保ちつつ連帯感を築くという二律背反の難しさを迫っている。

 その中で人々は今「自分中心で世界が回っている=近さの幻想」から離れ、「遠さに覚醒」する難しい課題に迫られている。「自分も脆弱」を立脚点に、世界の脆弱な人々と如何につながって生きて行くか~。ちょっと難しくなったので次回へ続く。

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前立腺癌生体検査から温水洗浄便座 [暮らしの手帖]

senjyobenza1_1_1.jpg 予期せぬ15日間に及んだ入院生活を終え、フラフラと徒歩帰宅中に「そうだ、温水洗浄便座」を設置しようと電気屋へ寄った。トイレ内に電気コンセントがなく、その工事と便座で計55000円也。

 入院中の15日間で「ソノ」の快感を知っちゃった。入院生活は何故か「ペニス(小便)+肛門(大便)」意識の日々。そもそもから記そう~。

 新宿区の健康診断で「かかりつけ医」の女医(以前に大腸癌検査・ポリープ切除の大腸検査=肛門から内視鏡を突っ込むを勧められた)から、今度は「PSA値」が高いゆえ「前立腺癌」検査を受けるように促された。春の検診で言われて無視。そして年末の健康診断でも言われて大病院「泌尿器料」ヘ。「2泊3日」の生体検出検査を受けることにした。

 さて、その手術でどうも不手際があったらしく「血液に大腸菌混入」、退院予定前夜に高熱でブルブルと震えて意識が飛んだらしい。気が付くとペニスに管(尿道カテーテル)、腕に点滴が装着されていていた。若く美し優しい女性看護師による「陰部洗浄」もあったりの15日間入院。尿の量と点滴の量(通常点滴の他に解熱・抗生物質の点滴もプラス)の管理。「尿道カテーテル」が外された後は、自分で尿量と便を記録させられた。

 小生の初入院は、かくして〝陰部中心〟に相成り候。そんな15日間にお世話になったのが「温水洗浄便座」。なんとも気持ちが良く爽快なり。我家も遅まきながら「温水洗浄便座」設置となった次第。仕事では活字~写植~デジタルを経たが、便所もまた戦後実家の汲み取り~水洗~温水洗浄便座を経て、やっと現代人になった気分だ。

 病院から息子へ「尿道カテーテル」装着の旨をメールすれば、「何言ってやがんだ。俺は8歳の頃に経験しているぞ」と言われた。「温水洗浄便座」も彼の家ではとうの昔からで、我家もやっと〝今風〟です。

 おっと「前立腺癌の生体検査結果」は「癌にあらず」でホッ。15日間の入院はまさに「陰部=尿・便(ペニス・肛門)」の日々。病気ってぇのは「食う・排泄」由来が多いのだろう。一般病棟とはいえコロナ禍で医師・看護師不足の中でお世話になり「感謝の日々」でもありました。

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鏡花⑦雑司ヶ谷霊園を掃苔 [牛込シリーズ]

kyoukahaka1_1.jpg 大正14年(1925)、泉鏡花52歳。春に『鏡花全集』15巻の刊行開始。芝の紅葉館(青山光子が16歳まで奉公していた)で知友80余名が集まって祝宴。昭和8年〈1933)60歳。実弟・斜汀が何をやっても上手く行かず、家まで差し押さえられて徳田秋声のアパートへ若い妻と転がり込んで、間もなく負血症で急死。

 昭和14年(1939)66歳。佐藤春夫の甥(姉の子・竹田龍児31歳)と谷崎潤一郎の長男・鮎子(24歳)の結婚に鏡花夫妻が媒酌。同年9月7日、鏡花、胚腫瘍で卒去。枕頭の手帖に鉛筆で「露草や赤まんまもなつかしき」が絶筆。病床の露草から、犬蓼の花(赤まんま)を思い出して詠んだ句らしい。

 弊ブログで取り上げた文人らについては、概ね掃苔している。泉鏡花の墓は「雑司ヶ谷霊園」。墓地区域は「1-1-13-33」。道路側の番号標識の中へ10数m入った処に俳優・大川橋藏墓、その奥に「泉鏡花墓」があった。掃苔したのは11月末。落葉が溜っていたが、今なお美しい〝紅葉〟に抱かれているようだった。

 墓は小村雪岱構成、笹川臨風の書で「鏡花泉鏡太郎墓」。背面に「幽幻院鏡花日彩居士 昭和十四年九月七日没享年六十七 清次長男 俗名泉京太郎」。通夜に集った佐藤春夫はじめ文人らが考えた戒名とか。隣にすゞ夫人の戒名「眞女(如?)院妙楽日鈴大姉 昭和二十五年一月二十日没享年七十 泉太郎妻俗名すゞ」。さらに側面には祖父、祖母、父、母、弟の戒名、亡くなった年月と享年が刻まれていた。

 図書館から借りた関連書は返却済で、手許には中央公論社「日本の文学/尾崎紅葉・泉鏡花」、岩波文庫『婦系図』(前後篇)があるも、小生は熱心な読者ではなく、その文学に言及はできない。日夏耽之介が鏡花世界を評して「拵えごと」と記しているそうだが、関心抱けぬのもその辺にありそう。幾編を読んだ感想は、美人日本画のシュールっぽい多彩仕立て~と解釈した。物語設定、登場人物、ドラマ展開に無理・不自然があるも、そんなことにお構いなしの細密描写でフィクションに真実味を生みつつ押し切って一服の絵を完成させているような~。文学ではなく〝文芸〟が相応しいのか、本人の信条も「〝芸〟と名のつくものは、楽屋をさらけ出したらもう仕舞いです」

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鏡花⑥嵐山光三郎『文人悪食』 [牛込シリーズ]

akujikikyoka.jpg 前回は泉鏡花の麹町旧居について、各氏記述文を紹介したが、同じ方法で嵐山光三郎『文人悪食』(37名の文人の〝食のこだわり〟を各氏記述をまとめた書。(氏は『悪党芭蕉』で第34回泉鏡花文学賞を受賞)で、鏡花の黴菌恐怖症=超潔癖症が異彩を放っていた。

 同書から鏡花の潔癖症(黴菌恐怖症)ライフを簡単に紹介してみる。黴菌恐怖から「腐」を嫌って「豆腐」を「豆府」と書いた。「豆腐・大根おろし」も煮沸滅菌してから食った。寺本定芳が「先生宅の焙じ茶の味は格別で、誰もが二度と忘れない美味」と記しているが、それはほうじ茶も番茶もグラグラと煮立て、塩を少し入れての滅菌お茶だった。

 晩酌は二合ほどで、当然ながら熱燗で消毒。熱くて持てぬ徳利、唇が焼けるほどの熱さ。旅行には煮立てた熱燗を魔法瓶に入れて携帯。画家・岡田三郎夫人が見かねて、固形アルコールランプを進呈したとか。魚は当然ながら刺身ダメ。食すは白身の上物のみ。肉は鳥。春菊は茎の穴に〝はんみょう(毒虫)〟が卵を産み付けているとして絶対に食べなかった。虫が食うソラマメもダメ。

 文人仲間と鍋を囲む際は、しっかり煮込んでから食すために他者と境界線を設定し自分領域を主張とか。木村家のアン抜きアンパンが好きだったが、表裏をあぶり、指でつまんでいた部分を最後に捨てたとか。畳でおじぎをする際は、畳に手が触れぬように手の甲を浮かせた。巷の便所は小便がはねるから使わず。常にアルコール携帯消毒綿を常備して手指の消毒を欠かさず。

 『蠅を憎む記』で黴菌の恐怖を記しているそうな。自宅の土瓶や煙管の吸い口には、夫人手製の千代紙を丸めたキャップ(栓)付き。蠅への脅迫観念から、執筆前に原稿用紙上に蠅が飛べば、清めの水でお祓いをした。訂正した文字は黒々と塗りつぶし、その文字霊を抹殺した。蛇や蛭や化け物を描きつつ、それらと真逆の潔癖生活から耽美文芸を生んだ。

 同じ耽美小説に谷崎潤一郎がいるが、彼はヌラヌラしたものが大好き。ヌメヌメ・ドロドロを舐めて、フニャリとするものが好き。生肉が好き。性愛=舐めるの陶酔境地を記している。

 泉鏡花の潔癖症・黴菌恐怖症は、母28歳の死、同じ紅葉門下・小栗風葉のコレラ罹患、嫁ぎ先で二人の子の赤痢看病によって32歳で亡くなった妹、実弟・斜汀の妻の結核、そして自身の30歳頃に赤痢に罹って胃腸病~などの影響があったらしい。

 昨夜の正月テレビで、世界の知識人らが極度の潔癖症は利他拒否、利己主義になりかねないと語っていた。スペイン風邪の大流行と共に終わった第一次世界大戦。米英仏独の4ヶ国協議の最中に、米国大統領ウィルソンもスペイン風邪で39.4の発熱で入院。その間のヴェルサイユ条約でドイツは巨額賠償を負った。ドイツはそこからアーリア人中心の国家(潔癖主義)を目指し、そこから人種主義(他民族迫害、自民族をも選別)に結びついた狂気のナチズムが台頭した。

 自然や人体は黴菌があってこそ成り立つ仕組み。コロナ感染から過度の潔癖主義、短文で煽る危険な方向に進まぬように警戒しなければいけないと言っていた。最後に泉鏡花の晩年~掃苔。

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鏡花⑤終の棲家=麹町の鏡花宅 [牛込シリーズ]

bunnjinnup_1.jpg 鏡花の終の棲家「麹町区下6番町11番地」宅について。場所は地図(左)を参照。現「日テレ通り」の現日テレ更地の角「番町文人通り」を右折。現「ベルテ六番町」の大きな建物の石垣に「有島武郎・有島生馬・里見弴旧居跡」史跡がある。その広大な屋敷(昔の有島邸)を右折して地図(d)及び写真の〇印が「泉鏡花旧居跡」史跡案内板がある。

 ちなみに有島武郎は大蔵官僚・有島武の長男で白樺派同人。代表作は『一房の葡萄』。ハーバード大に籍を置いた秀才の美男貴公子。北海道に農園を有し、欧米歴訪後に大学教授。31歳で結婚し、38歳で三人の子を設けるも妻が病死。世の女性が彼を放っておくワケもなく与謝野晶子、神近市子、望月百合子らが接近とか。だが「婦人公論」の記者・波多野秋子と軽井沢の別荘で情死(大正12年・1923)。

arisimatakeo_1.jpg 鏡花の6番町転居が明治43年(1910)だから、鏡花が夏に縁台を出して涼んでいた頃は、有島家の縁台には武郎、実弟の有島生馬、末弟の里見弴も反対側の縁台で涼んで互いに談笑していたらしい。有島生馬は藤島武二に師事後にイタリアへ。明治43年の帰国後にセザンヌを紹介。後に西村伊作の「文化学院」創立時の講師になっている。里見弴は小説家で明大文芸科教授。菊池寛賞などを受賞。そして武太郎の長男が二枚目スター・森雅之。

 さて泉鏡花宅について、各氏が記した紹介文を拾い集めてみる。勝本清一郎は「道一つへだてた有島宅はまさに邸であったが、鏡花の家は軒がかたむきかかった二階長屋の右半分であった。門はなく、道路からいきなり格子戸で、ただ、すゞ夫人が格子戸をよくみがいていたから、下町風の小ざっぱりした感じはあった。夏になると鏡花はこの格子戸の前に縁台を置き、浴衣がけで団扇を持って涼んでいた」

 里見弴は「昨日まで稽古三味線の音が耐えない長唄の女師匠の住んでいた階上階下六間ほどの粗末な借家に、あの名だたる大家がと驚かれもした。書斎は二階の八畳間。机の左に榎の自然木の火鉢。違い棚には常に紅葉全集と紅葉の写真が飾られて、鏡花は毎朝必ず恭々しく拝礼していた~」

kyoukatuino_1_1.jpg 泉明月は「三米巾の静かな道路沿いのしもた家造りの二階家。門がなく玄関は木の格子戸造り。道路から家の中をのぞくと、人がいるかいないか、家の中の様子がうっすら透けてわかる。周辺では珍しい造りで浅草、神楽坂、また金沢の鏡花の郷里・下新町にみられるような粋な造り。酒屋・伊勢安の借家で、昭和14年当時、45円の家賃。日当たりのよい南側が壁でお隣の家。広さは1階2階含めて大体35坪。1階は2畳の玄関、4畳半の茶の間には長火鉢と煙草盆。鏡花は潔癖家だから長火鉢の鉄びんの口、煙草の口にはすず夫人手製の千代紙を丸めたサックがかかぶさっていた。その天井には大小のトウモロコシがぶら下がっていて、雷さま除けのおまじまい。そして8畳の座敷、6畳の裁縫などする家事室。庭は2坪ほどだが鏡花の好きなうの花、koujimatikyoukatei_1.jpg山吹、あじさい、山茶花が植えられていた。庭の中央に能楽堂のようなおしゃれな雀のお宿があり、朝夕に餌をやると数百羽も集まってきた。夏には数匹のひき蛙も這い出てきた。2階の物干し台にも一杯の草花の鉢が並べられ、読書の合間合間に飽かずに眺めていた~」

 寺本定芳は「夏になると先生は、六番町のお宅の前、有島家の黒板塀との間に、涼み台が出される。煙草盆、蚊とり線香、団扇など涼み台には約束の小道具がずらりと並ぶ。先生の涼み台が往来に出ると里見家もここに一台の涼み台を出しで四方山雑談を交わしていた~。執筆の机は、祖母形見の経机。原稿は二つ折にして、間に手製の罫紙を挟んで毛筆で仮名つき原稿だった~」

 鏡花関連書には、鏡花宅写真が幾点も紹介されている。次は鏡花の潔癖症について~。コロナ感染対策の参考になるかも~。

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泉鏡花④麹町時代(イ) [牛込シリーズ]

 2泊3日の「検査入院」が〝こじれて〟15日間の入院生活になった。(コロナ無関係。入院にはPCR検査の陰性が必須条件) 退院後も即、日常生活には戻れず20日振りのPC起動です。この件については、いずれ記すことになろうが、まずは泉鏡花の続きです。

asahirennsai_1.jpg 泉鏡花、明治38年(1905)32歳。祖母(87歳)が死去。尾崎紅葉旧居近くの「円福寺」を菩提寺として雑司ヶ谷霊園に埋葬。弟の豊春は筆名「泉斜汀」で小説発表。札幌「北海道タイムス社」勤務で自立した。

 明治38年、鏡花は健康を害して約3年半、伊豆田越村(現・逗子市5丁目9番38号)で療養生活・小説『春昼』には、鏡花とすゞが散歩をした当時の逗子の風景が伺えるそうな。

 明治40年(1907)34歳。『婦系図』の新聞連載を開始。明治41年、すゞが大病(良質腫瘍切除?)手術。同年8月、妹の多賀が嫁ぎ先の富山で死去(32歳)、二人の子の赤痢看病で罹患とか。文学は自然主義(理論的指導者は島村抱月「早稲田文学」が牙城)の最盛期になるも鏡花奮闘す。

koujimatibunjin_1.jpg 明治41年35歳。牛込から麹町土手3丁目に移転。家賃30円。崖下の家(市ヶ谷~四谷間の濠寄り。同地域には後に内田多聞らも在住で、昭和13年に五番町に改称。現・番町会館辺りか~。写真下)。

 明治42年、鏡花は朝日新聞入社の夏目漱石を訪ね。60回分の小説連載を依頼。朝日新聞は漱石『それから』~鏡花『白鷺』~永井荷風『冷笑』~漱石『門』と続いた(漱石・鏡花の写真は国会図書館「近代日本人の肖像」より)

 明治43年37歳。麹町区下6番地(現・千代田区6番地5番)に転居、ここが終の棲家になった。その旧居については次回として、まずはどんな時代だったかを探ってみたい。

 明治43年3月に『遠野物語』発表の柳田国男は鏡花を評価し、鏡花もまた『遠野物語』を「奇譚・妖怪の一つ一つに想像力を刺激される」と評価。鏡花は『夜叉ヶ池』『天守物語』など戯曲形式作を発表。明治44年に小説19編を発表。

utidadote3cyoume_1.jpg 次に永井荷風。『花火』にこう記している。~明治44年慶応義塾に通勤する頃、」わたしはその道すがら折々市ヶ谷の通で囚人馬車(大逆事件の)が五六臺引続いて日比谷の裁裁判所の方へ走って行くのを見た。(略)わたしは世の文学者と共に何も言わなかった。わたしは何となく良心の苦痛に耐へられぬような気がした。わたしは自ら文学者たる事について甚しき羞恥を感じた。以来わたしは自分の品位を江戸戯作者のなした程度まで引き下げるに如くはないと思案した。

 同年11月、荷風は「三田文学」に無名の谷崎潤一郎作品に対する評論を発表。谷崎は同書を持つ手が可笑しい程にブルブル震えるのを如何ともすることが出来なかった程に感激する。その谷崎は泉鏡花を「独特の世界に遊んだ作家」と記し、「日本には浪漫派の作家が少ないので、鏡花がひとり懸け離れて見える。その異色ある境地=鏡花世界に住するも陰鬱・病的・ひねくれていない。日本的な明るさ、華やかさ、優美さ、天真爛漫さがある。我が国土の生え抜きのもの世界だ」。

 明治44年秋頃から鏡花作の舞台が活発化。『婦系図』『南地心中』『天守物語』『戯曲日本橋』など演劇(新派、歌舞伎、能)とも係わりが深くなる。写真中は明治時代に文人らが多く住んだ「麹町文人旧居図」。次回は鏡花の終の棲家「麹町区下6番地11番地」宅についての詳細を記してみる。

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泉鏡花③『蛇くひ』 [牛込シリーズ]

IMG_5630_1.JPG 泉鏡花25歳(明治31年作)の『蛇くひ』を、大正14年9月発行『鏡花全集巻三』(平成6年復刻版。写真)で読んでみる。行間たっぷりととって総ルビ。旧仮名、旧漢字の教科書でもあります。以下、数行を紹介する。無学小生が読めぬ漢字だけ(ルビ)する。

 ~渠等(かれら)は己を拒みた者の店前に集り、或は戸口に立竝び、御繁盛の旦那吝にして食を與へず、飢ゑて食ふものゝ何なるかを見よ、と叫びて、袂を探ぐればう畝々と這出づる蛇(くちなは)を掴みて、引断(ひきちぎ)りては舌鼓して咀嚼し、畳とも言はず、敷居ともいはず、吐出しては舐(ねぶ)る態は、ちらと見るだに嘔吐を催し、心弱き婦女子は後三日の食を廃して、病を得ざるは寡(すく)なきなり~

 榎の祠から数十の蛇を捉え、釜茹でする描写もある。よくもまぁ、そんな事を好んで書くなぁと驚いた。また『高野聖』でも蛇・蛇~の描写が続いて、次は樹の枝からぽたり・ぽたりと落ちてくる三寸ばかりの山海鼠(9㎝のヤマヒル)に襲われる描写が続く。鳥肌ざわざわさせつつ読み進めば、今度は婦人が衣紋の乱れた乳の端もほの見ゆる膨らかな胸を反らして沐浴する妖艶なシーン、その婦人が背後から抱くように坊さんの法衣をすっぽりと脱がし、張り付いたヒルを捕り、さらさらと水をかけ洗うシーンになったりする。

 いやはや、あたしはこんな小説は初めて読んだ。それで鏡花は「黴菌恐怖症・超潔癖症」というから魂消た。本当は蛇や蛭や黴菌が好きなんじゃないかとさえ思ってしまう。そう云えば~と小生も思い出す。O島へ行くと、会う度に必ず恐々と蛇の話をする人がいた。恐くイヤなら話さなければいいのに~。すまないが、お付き合いを遠慮させてもらったが、今思えば彼は〝0島の泉鏡花〟と云えなくもない。鏡花ファンのご婦人方は、そんな蛇や蛭や化け物噺に「キャー・キャー」と恐がりながら、鏡花文学に魅了されているのかしら。

 蛇の話なら小生体験もある。20代の山男時代のこと。ザイルワークの沢登り最後にブッシュを漕いで稜線に出るのだが、そのブッシュ漕ぎで草の根元を掴んだら、蛇がとぐろを巻いていた。40代のヘラ鮒釣りで、水辺の釣り座用意にゴミの紙を除いたらそこに蛇がいた。

 O島ロッジは自然の中。庭の手入れ最中、木の根が腐った跡の穴からムムゥ~と生臭さが立ち昇って、本能で後ずさりすれば、穴からヌネヌネと大きな蛇が這い出した。O島には〝飛び蛇〟もいる。青大将の黒化した黒蛇で、これが枝から枝へ跳ねる。M原山の土産屋にはマムシ入り焼酎が売っていた。島の友人にはマムシを食う奴もいる。生活道路に蛇の死骸があってイヤだなぁと思っていたら、キジが銜えて飛び去る光景もみた。芭蕉句「蛇くふときけば恐ろし雉の声」

 雉の声より怖い体験もした。風呂場から裸になった女房の悲鳴。すっ飛んで行くと浴室に赤斑模様の小さな蛇がいた。棒で打ち殺し、死骸をシャベルですくって藪へ捨てた。

 新宿にも蛇は出る。近所の団地を通り抜けようとしたら、子供らが小さな蛇で遊んでいた。気味悪く子らを避け通ったら、少年Aが面白がって蛇を持って迫ってきた。イヤがる人にイヤなことを迫れば、逆上して君を叩き潰す暴挙に出兼ねないと怒鳴りつつ説教した。あぁ、そんな泉鏡花の小説よ~と思った。次は鏡花の麹町時代へ。

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泉鏡花②牛込南榎町から神楽坂へ [牛込シリーズ]

kyoukaenoki1_1.jpg 泉鏡花は尾崎紅葉の玄関番の修行を終えると、博文館主人・小石川戸崎町の大橋乙羽(18歳で母を失い、19歳で上京。硯友社同人で博文館主・大橋佐平の長女婿へ。紅葉が媒酌人)へ移った。紅葉は内弟子卒の祝いに西洋料理・明進軒(当時の牛込唯一の洋食店)で馳走。鏡花、初めてナイフ・ホークの持ち方を教わる。

 博文館の百科全集の編纂に携わるなどしつつ、同社発行の「太陽」「文芸倶楽部」「少年世界」など雑誌ジャーナリズムに触れながら、自身も「文芸倶楽部」に『夜行巡査』などを発表。一葉宅から戻った乙羽夫人が「お夏さんが褒めていましたよ」。当時絶頂期のminamienoki2_1.jpg樋口一葉からのお褒めに大喜び。

 『外科室』『活人形』『鐘声夜半録』『貧民倶楽部』『愛と婚姻』『琵琶伝』などを発表後の明治29年(1896)23歳、小石川大塚町57番地の家を借り、祖母と弟豊春を迎えて一家を成す。当地は広大な陸軍省用地(弾薬倉庫)の隣(現・茗渓会館辺り。跡見学園中高隣=昭和5年に跡見学園が同官有地=大塚町56番地を購入。区立窪町小学校の春日通り反対側)。『日本の作家 泉鏡花』には祖母きて77歳、豊春16歳と共に縁側で寛ぐ写真が掲載。当時の鏡花評は「奇異怪僻不自然の観念小説・深刻小説」。

 明治32年(1899)26歳。神楽坂の蔦永楽の抱え芸者・伊藤すゞ(亡き母と同名の17歳・桃太郎)と恋情も、紅葉これを許さず。能登輪島で芸妓の妹・多賀も自宅に引き取る、なお紅葉の愛人は神楽坂芸者・小ゑん。紅葉晩年の交情相手は芸者・小糸だった。

IMG_5633_1.JPG 秋27歳、牛込南榎町23番地(写真上)へ転居。同地は牛込天神から南へ坂を上り切った辺りの左「矢来公園」を経て、そこから2本目の路地を右に曲がった先のアパート一画。新宿区登録史跡「泉鏡花旧居跡」(写真中)が設置されている。新宿歴史博物館サイト「泉鏡花旧居跡」の写真は平成7年で、写っているのは二階建て一軒家。地名通り大榎が鬱蒼、野草蓬々の荒み切った2階家で、上下3,4間の家。2階の6畳が書斎で、下の6畳が舎弟斜汀の居間。現在は新築アパート風建物の角に史跡看板あり。文章・写真も平成7年地とは微妙に変わっている。

 なお「矢来公園」辺りは鏑木清方旧居碑があるも、二人の交流が鏑木が矢来公園に移転(大正15年)以前の明治34年(1901)頃からで、安田銀行頭取などの実業家・安田善次郎(松廼舎)宅で紹介されてから。南榎町在住時の作品は『高野聖』『葛飾砂子』(後に谷崎潤一郎脚色で映画化)など。

 明治35年(1902)29歳、胃病を癒すために逗子田越村桜山の一軒家で約1ヶ月を過ごしている。台所仕事に服部てる子がいたも、すゞが週2で通っていたとか。すゞと人目を忍ぶ「幽居」でもあったらしい。

izumihakusyu_1.jpg 翌30歳、南榎町から牛込神楽坂2丁目22番地(写真下)の新築2階家へ移転。いわゆる「物理学校裏」で、ここには「泉鏡花・北原白秋旧居地」の史跡看板が建っている。同年10月30日に紅葉が36歳で逝去後に、すゞと正式結婚した。鏡花の同借家に在住は明治39年7月までで、その2年後に北原白秋が翌年10月に本郷動坂へ転居するまでの約1年間ここに住んでいた。白秋は千駄ヶ谷に転居したのは、本郷動坂からだろうか。千駄ヶ谷では隣人の人妻と密通で囚人馬車に乗せられて市ヶ谷の未決監へ送られた。その辺の事情とその後の波乱人生については、弊ブログ「千駄ヶ谷物語23~26」で紹介済。

 次は麹町へ移った泉鏡花を紹介してみる。

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泉鏡花①旧居巡りの前に~ [牛込シリーズ]

IMG_5623_1.JPG 泉鏡花の旧居巡り前に、鏡花プロフィールをお勉強。参考は笠原伸夫『評伝泉鏡花』(白地社)、日本の作家『泉鏡花』(小学館)、『作家の自伝 泉鏡花』(日本図書センター)、『日本文学全集:尾崎紅葉・泉鏡花』(中公公論)など。関心抱かぬ作家ゆえ、俄かに『高野聖』と短編の幾編かを読んだのみで、その文学に言及の知識はなく、彼の旧居巡りから彼の世界を探ってみます。

 明治6年(1873)金沢生まれ。本名・鏡太郎。父は彫金師・清次(象嵌師。尾崎紅葉の父は彫金師)。父29歳・母17歳で結婚。母・鈴は加賀藩の葛野流大鼓師で江戸詰め田中豊喜(万三郎、猪之助)の長女。江戸は下谷生まれ。鈴の兄は養子に出された松本金太郎で、宝生流シテ方として知られた能学師。母一家は明治元年の能楽師の国元帰還令で金沢に戻った。

 鏡太郎は、母が江戸から持ち帰った草双紙の絵を見るのが大好き。9歳の時に母28歳が次女の産縟熱(天然痘説もあり)で死去。鏡花は「五つぐらいの時だと思う。母の柔らかな乳房を指で摘みつまみして居たように覚えている~」。若い母の死に無常、異性=母への思慕を抱えて育ったらしい。以後は祖母「きて」が養育。

 父は母より8歳上のサクと再婚も、子らが馴染まず離縁。だが鏡太郎には次々と美しい女性が現れた。近所の湯浅しげ、又従姉の目細てる。11歳で米国人経営の北陸英和学校に入学すればミス・ポートルにも愛された。鏡花にとって異性=亡き母・年上女性の図式が出来た。

kyouka2satu_1.jpg 16歳、紅葉『二人比丘尼色懺悔』に感動し、小説家志望で上京。知人友人の下宿を転々とする放浪生活1年余。下層裏長屋体験を経て、18歳で牛込横寺町の尾崎紅葉(新婚早々24歳)の門下生・玄関番として修業開始。

 「実に此門に参らん事、積年の望みなりければ、其儘心なく容易(たやす)くは入りかねて~。長らく躊躇したのちに衣服の襟を繕ひつゝ、門の内を二三十歩、又格子戸を潜りあり、静に開けて立向ひ、慮外(ぶしつけ)ながら御免下さいましと申し~ 明治二十四年十月九日午前八時三十分」

 「お前も小説に見込まれたな。都合が出来たら世話をしてやってもよい」に翌日再び先生宅へ。「夜具を持ってはいまいな」で同日夕方に小さな机と本箱をもって玄関へ。共に父は居職で、早くに母を亡くした境遇。鏡花は修業中に金沢大火で実家類焼、父死去などで帰郷時期もあるも寄食生活は22歳まで。(写真の評伝本表紙絵は『続風流線』の鰭崎英朋の句絵。

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芸術倶楽部跡から尾崎紅葉旧居へ [牛込シリーズ]

geijyutukurabuato2_1.jpg 夏のウォーキングで、迷い辿り着けなかった神楽坂・横寺町の芸術座倶楽部跡と尾崎紅葉旧居を新自転車で巡った。

 早稲田通りを「神楽坂駅」まで走り、その先の左が「赤城神社」で、その斜め右側の「朝日坂」へ入る。坂を上り切った辺りのアパート風家屋が並ぶ壁の電柱横に「芸術座倶楽部跡地」の史跡看板あり(写真上・中)。

 「島村抱月・松井須磨子物語」は記したゆえ、ここでは場所の確認だけ。ドイツ留学後の抱月は「早稲田文学」復刊で自然主義文学の旗手の一人だったが、同倶楽部内でスペイン風邪で亡くなった。須磨子も後追い自殺した。

 同地よりさらに朝日坂を進めば右に「円福寺」。そgeijutukurabuato_1_1.jpgの先の左側に「尾崎紅葉旧居跡」(写真下)。以前に歩き訪ねたことがあるも、夏のウォーキングでは迷い訪ねられず仕舞い。自転車散歩のなんと簡単なこと。

 中央公論社「日本の文学:尾崎紅葉/泉鏡花」年譜より、簡単に尾崎紅葉プロフィールを追ってみる。明治元年(1868)芝中門町生まれ。本名・徳太郎。父は象牙彫りの名職人。母は漢方医の娘・庸(よう)。紅葉4歳の時に母が早逝。母の実家。芝神明町の荒木家で育つ。

 11歳、東京府第二中学へ。小学時代の山田美妙と再会。2年で退学。漢学を学ぶ。14歳、三田英学校入学。15歳、東京大学予備門へ。「文交会」に参加し漢詩文を発表。17歳、山田美妙や石橋思案らと「硯友社」結成。筆写回覧雑誌「我楽多文庫」発行。母の実家・荒木家と共に麹町飯田町へ転居。「硯友社」に川上眉山、巌谷小波らが参加。

ozakikouyoutaku_1.jpg 明治21年、20歳。『我楽多文庫』公売。江見水蔭らも加わって同人80名余。帝国大学法科入学。翌21歳『二人比丘尼懺悔』が出世作になり、読売新聞社に入社。

 明治23年、22歳。牛込北町41番地に移る。実はここ大田南畝の生誕地で、南畝の子孫で画家の大田南洋(南岳)が住んでいた後に紅葉が住み、紅葉が出たあとに江見水蔭が入居(これは小生の説)。

 紅葉は試験で落第したことで大学を退き文筆に専念。掘紫山と本郷森川町に住み、23歳で再び牛込北町へ戻る。そこから牛込横寺町47(写真左)に転じて永住する。以後、作品を次々に発表。明治30年(1897)、読売新聞に『金色夜叉』連載。明治36年(1903)35歳、胃癌で畢命。墓地は青山墓地。戒名は彩文院紅葉日崇居士。

konjikiyasya.jpg 三島由紀夫は~「巧妙練達な文章。奇思湧くが如く。警語頗る多し。客観描写の洗練と日本的なリゴリスム(厳格主義)を伴った人事物象風景の実存感・正確度を要求する態度は、その後の近代文学をがんじがらめにした。紅葉を読む時は、まず一種観念的なたのしみ方から入って行くことが必要~と記していた。文学的には浪漫主義、擬古典主義。島村抱月らの〝自然主義〟ブームと対峙。

 尾崎紅葉旧宅跡を訊ねたら、同宅玄関の間で書生暮し後に活躍した泉鏡花の旧居巡りもしたくなった。(続く) 写真左はかつて歴史的仮名遣い勉強中に古本市で買った「金色夜叉」の挿絵。

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牛込城跡の光照寺で「便々館湖鯉鮒」の墓 [牛込シリーズ]

kousyouji_1.jpg 「新宿発ポタリング」再開は、今夏ウォーキングで「コロナで閉門中」だった〝藁坂〟を上った先の「光鉄寺」へ。本堂前に新宿区登録史跡の牛込城跡の説明看板あり(内容は写真をどうぞ)。

 さて史跡看板はあるも、牛込城遺構があるワケでもなく、せいぜいが想像するに、当時はこの高台から南方向を観れば領有地の赤坂・桜田・日比谷方向が一望できて、牛込氏はさぞ気分爽快だったろうと推測するのみ。墓地を歩いて「便々館湖鯉鮒(べんべんかんこりふ)」の墓に出会ったことが嬉しかった。

 狂歌師・便々館については、今春に新宿西口は青梅街道沿い「常圓寺」門前の狂歌碑「三度たく米さえこはしやはらかし おもふままにはならぬ世の中」(2020年の今も、さらに強く深く広く〝思うままにusigomejyoato_1.jpgならぬ世の中〟になっています)。その碑の揮毫は光照寺崖下近くに50歳位まで在住だった大田南畝(蜀山人)だった。

 便々館の墓にも新宿指定文化財の史跡案内があった。「便々館湖鯉鮒の墓 江戸時代中期の狂歌師 便々館湖鯉鮒は本名を大久保平兵衛正武といい、寛延2年(1749)に生まれた。幕臣で小笠原若狭守支配、禄高150俵、牛込山伏町に居住した。はじめ牛込二十騎町に住む幕臣で狂歌師の朱学管江(あけらかんこう)に狂歌を学び、その後、唐衣橘州(からごろもきしゅう)の門下に転じ、世に知られるようになった。大田南畝(蜀山人)とも親交があり(~と常圓寺の狂歌碑についての説明があって)、文化15年(1818)4月5日、享年70歳で没した」とあり。

benbenkai.jpg_1.jpg benbenkan_1.jpg大田南畝は、同寺の崖下辺り牛込仲御徒町(現・中町)に50歳位まで在住。19歳で『寝惚先生文集』(序文・平賀源内)を刊で、狂歌師としても大人気。その後に散文小説『甲駅新話』(弊ブログで原文筆写済)発表。寛政の改革を皮肉った「世の中は蚊ほどうるさきものはなし 文武文武と夜も眠られず」作者と思われ、かつ同地で妻妾同居など、お上のお咎め危険に、狂歌人生から一転して「学問吟味」に挑戦し、二度目で合格して支配勘定へ。定信引退後の江戸文化人として再び大人気。便々館没から5年後の文政6年75歳で没。

 墓横の写真は便々館湖鯉鮒監修の『絵本狂歌山満多山(山また山)』。市ヶ谷八幡、王子稲荷、飛鳥山、護国寺など山の手名所の風俗を葛飾北斎絵に狂歌を添えた絵本。

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旧常磐橋の江戸から明日~ [日本橋川]

zenibamecyo_1.jpg 11月8日の新聞に「旧常磐橋」が復元したの報あり。観に行きたくなった。7年前に弊ブログで、飯田橋「三崎端」から隅田川へ抜ける「豊海橋」までの各橋・歴史のお勉強「日本橋川」シリーズを記した。

 その時に「旧常磐橋」は、東日本大震災被害(その前から崩れかけて通行禁止)の修復工事中だった。さて、どう甦ったのかしら~と胸ワクワクと見に行った次第。

 東京駅・日本橋口から神田方向へ。至る所が工事中で、街が騒がしい。大手町2丁目の日本ビルヂングに「銭瓶町(ぜにがめちょう)ポンプ所」(写真)のシャッター。何やら江戸の臭いがした。

 そう、江戸時代に「一石橋」から真っ直ぐ江戸城へ伸びる水路「道三掘yatumenohasi_1.jpg(どうさんぼり)」があって、そこに架かっていたのが「銭瓶橋」(名所江戸百景:八ツ見のはし。絵の正面の橋)。その袂に江戸初の銭湯が出来た。明治になって、その辺りが「銭瓶町」。昭和5年に下水道の「銭瓶町ポンプ所」が出来た。

 さて「旧常磐橋」も、それまでの木橋から明治10年に、小石川橋門の石垣一部を使って都内最古の西洋式2連アートの石橋「常〝磐〟橋(ときわばし)」が出来た。大正9年(1920)、その上流に市電を通すために「新常盤橋」が完成(現橋は昭和63年)した。また昭和元年(1926)に旧常磐橋下流に、関東大震災後の新道路に2連アーチの「常盤橋」が出来た。

 上下流に二つの常盤橋が出来て不要になった「旧常磐橋」は、澁澤榮一の支援で昭和3年に国の史跡になって改修。併せて「常盤橋公園」も再整備され、氏の銅像も建った。

 そして今、従来の痛みに加えて東日本大震災で崩れた橋の改修へ。当初の13億円から20億円へ膨らんだ改修が、このほど完成。その新「旧常磐橋」が渡れるかと期待して行ったのだが、未だ工事壁で塞がれて入れずだった。

tokiwabasi2_1.jpg どうやら公園再整備後に渡れるらしいが、その時は橋の袂のベンチに座りながら〝常盤橋物語〟へ想いを巡らせてみたいと思ったが、同地域にそんな長閑さはまだ先のことらしい。目下「東京駅前常盤橋プロジェクトTOKYO TORCH」進行中で、2027年には日本1の超高層ビル(地上61階390m)等が建つらしい。旧常磐橋もその巨大開発に呑み込まれそうです。

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累計閲覧数300万越え~ [ブログ&アクセス関連]

ruikei_1.jpg 21日に弊ブログ「累計閲覧数(PV)300万を越えた。昨年10月1日に「so-net」から「ss-blog」にドメイン変更の際、己のブログにログイン出来なくなって1ヶ月余~。「こりゃ~ダメだぁ」ってんで、このブログを諦めて「excite blog」に『隠居お勉強帖』を開設。途中だった「雲のお勉強」をそっちで始めた。

 そんなことがあって、弊ブログは数ヶ月間更新なしで閲覧数皆無へ。多分、検索エンジンからも外されたのだろう。ここにきて、やっと従来ペースに戻りつつあっての300万余です。

 今回は「アクセス解析」について説明する。1位が「辻まこと(5)もく星号の宝石収拾」で2012年夏の記事。2位は「トップページ」。これは21日朝アップの「舞ひ衣装脱げば毛虫に蛹かな」で別に同題で5位にもなっている。この「トップページ」数字は後に行方不明になる?

 6位「荷風の友・井上啞々とは」は2017年5月の記事。9位「ジャポニスム17:北斎が学んだ新画法」も2017年の記事。最も古い記事は94位「2008年10月6日」。これは「ユニークヘアーのカンムリカイツブリ」。

 何が言いたいかと云えば、小生のブログは過去の記事閲覧が多いということ。昔に記した「日本橋川」シリーズや「千駄ヶ谷物語」シリーズなどは、アップ当時は閲覧僅少も、後になってから盛んに閲覧されたりです。昔の記事は自分でも何を記し、どんな写真を添えたかも忘れていたりするワケで、己も「アクセス解析」から昔の記事を久々に閲覧・確認です。これ、なかなか得難い愉しみです。慌て者の小生は、この際に気付いた誤字脱字も修正したりもします。

 それにしても、何年も前の埋もれた記事に、皆さまはどうやって辿り着いているのでしょうか。2011年末、ブログ続行を「長らへてブログ遊びの恥ぢ紅葉」と詠ったが、恥晒しはまだ続きそうです。まずは閲覧をありがとうございました。今後もよろしく。

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褄黒豹紋の幼虫。明日美しくなる。 [花と昆虫]

simagurocyomon_1.jpg 美しい蝶と野鳥の次は、毛虫です。

 ベランダでかかぁが「ギョ・ギョッ」と叫んだ。また何かが出たらしい。コイツがいた。

 マクロレンズを近づけると、写真のように丸まった。ツマグロヒョウモン蝶の幼虫。黒い身体から赤い突起が出て、その先端に黒い毛が生えている。

 幼虫から蛹化し、羽化して蝶になる。ブログを永いことやっているから、自分のブログ検索で成蝶写真を見つけた。2009年10月に、前翅の先が黒いメスと豹柄だけのオスが、楽しそうに絡み合っていた。そのブログ題名は「おおらかに蝶が舞ひつつ閨の唄」。

 それは昔々の思い出~。某プロダクションのお嬢さんが〝打ち上げ宴会〟で、両手ヒラヒラさせながら「上になったり下になったり~」の卑猥歌を唄ったことを思い出して記したもの。

 後に彼女は某ロック系有名事務所の役員になったと聞いたが、今はあたしと同じ歳の〝お婆さん〟。元気だろうか。当時の業界〝打ち上げ〟は相当に乱れていて、某社打ち上げでは、ケm_tumaguro3_1.jpgツの穴に突っ込んだタバコを次々に回し呑みをやった~などの噂も聞いたことがある。

 「上になったり下になったり」の美しい蝶らも、その前はこんな姿だったんですね。醜と美、善と悪、陽と蔭、本音と建前、快と苦、不変と変幻、日常と異界、フェイクとエビエンス、偏見と中見・中立。物事・人物・発言は安易に信じて騙されちゃいけない。


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舞い衣装脱げば毛虫に蛹かな [花と昆虫]

komisuji3_1.jpg 9月~11月に「クーデンホーフ光子」から「ヒトラー」続行中の9月10日のこと。ベランダに茶色の翅に白縞のコミスジチョウ(小三筋蝶)が止まっていた。仲間種に「ホシシジミチョウ、ミスジチョウ」がいるも、これは白紋模様から「コミスジチョウ」だろう。

 飛翔はパタパタと数回羽ばたき、数秒ほど翅を水平に開いて滑空する独特の翔び方をするとか。そう云えばそんな翔ぎ方の蝶を観た記憶もある。

 幼虫の食草はクズ、ニセアカシアなどマメ科植物とか。自宅前の街路樹はハナミズキだが、向い側はニセアカシア(ハリエンジュ)並木。そこで育った個体かもしれない。

m_kawarahiwa1_1-a263b.jpg ハリエンジュの白い蝶形花は初夏で、その後に鞘に包まれたマメができる。本来のアカシアの花は黄色だから、歌謡曲で唄われるアカシアは、概ねニセアカシアらしい。

 そのハリエンジュ並木のマメに群れていた鳥がいて、望遠レンズで撮ったことがある。新宿のマンションから「カワラヒワ」観察に驚いた(写真下)。そのハリエンジュも今はもう11月で、落葉して歩道を黄色く染めている。

 コミスジチョウは、卵から1令幼虫~4令幼虫と姿を変える過程で越冬し、春に蛹となって初夏に孵化。かくして美しい蝶になるらしい。

 あたしも紅顔の美少年?からアッと云う間に爺さんになった。もう、どうあがいても蝶のように再び翔べるワケもなく、蛹が朽ちて土に還って行くような明日があるだけである。

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カメムシの何処に求む越冬屋 [花と昆虫]

kamemusi_1.jpg ベランダで洗濯物を干していたかかぁが「やだぁ~、カメムシだよぅ」。

 白壁に張り付いていたのはクサビカメムシだろう。白色好きで、洗濯物に付く場合が多いとか。クサギは葉に悪臭がある〝臭木〟由来。

 果樹や豆類の害虫。成虫になると越冬の際に人家へ入り込むことも多いらしい。とりあえずゴキブリ退治スプレーを手に改めてベランダに出れば、カメムシの姿は消えていた。隙間から屋内に入り込んでいなければいいのだが~。

 それから1週間後の新宿御苑。茶屋のベンチでおにぎりを頬張っていたら、正面から羽音逞しく、ちょっと大きな虫が突進してきた。振り払うと、落ちた地にジッと動かぬ。眼を凝らせば、先日と同じクサギカメムシだった。写真を観ると、硬そうな背の後方に丈夫そうな翅が覗いていた。

 秋はカメムシが越冬家屋を求めて軒下に潜む時期らしい。冬眠前の人家への熊出没、詐欺強盗、コロナウィルスの感染などを思えば、カメムシの侵入など可愛く微笑ましいもんです。それにしても新宿のマンションで昆虫観察とは~。

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新自転車とオリンピック [新宿発ポタリング]

kokuritu_1.jpg 「お買物チャリ」を買った。2011年に14㌅と20㌅の小径折り畳み自転車2台購入で「自転車散歩」に入れ込んだ。「さぁ、乗るぞ」と家を出れば、1日中ペタルを漕いで東京俳諧の日々も多かった。

 数年前のこと。横浜で絵画展鑑賞後、突然に足裏が痺れ出した。大病院の診断は「脊柱狭窄症」。なぜ・なぜ?。自転車による路面振動が脊柱に影響した結果かしらと自己判断し、自転車を止めてウォーキングに切り替えた。20㌅自転車は息子に譲った。

 だが、自転車はやはり便利だぁ~ってんで、4年振りに新自転車の購入。狭い玄関に折り畳み収納もイヤで面倒ゆえ、歩道駐車で盗まれても悪戯されても「まぁいいかぁ」程度の安さで、買物カゴ付きの普通(27㌅)自転車を買った。

 車種こだわりなし。乗り始めて前照灯ライトオンの法がわからず。改めてネットで車種や機能を調べた。前照灯は「LEDセンターオートライト」。暗くなると自働点灯するらしい。「ディンブル馬蹄錠」も共に便利至極。一応、6段変速。 

sendagayaeki_1.jpg 27㌅のフツー自転車は、遥か若き頃の初社会人時代以来だ。ラッシュ電車拒否で、初任給で買ったドロップハンドルで自転車通勤をしていた。

 新自転車入手直後に、国立競技場辺りまで走ってみた。小径自転車とまったく違う推進感が新鮮だった。もっと早く漕げるようにとサドルを高くした。するとサドル前のフレームで、停止・乗車がえらく難儀になった。

 お爺さんなのに、バレリーナのように脚を後ろに高々と上げないといけない。いっそ、子供時分の〝三角乗り〟で乗ってみましょうか。久しぶりの自転車漕ぎで、大腿筋も悲鳴をあげた。

 小径自転車乗り始めた頃は、多少の坂なら「クソッ」とばかりに挑戦したもんだが、歳をとったか、意気地がなくなったか~。坂になれば即!押し歩き。サドルもママチャリ程度の高さにしたら塩梅が良くなった。

 写真は国立競技場と新「千駄ヶ谷」駅。競技場は植栽がチャチかったが、コロナ延期の間に随分と育ち馴染んできた感じだが、相変わらず工事壁に囲まれていて、オリンピックは為政者と関係者(スポーツ&TVメディアなど)のもので、一般市民に身近な感じはなし。オリンピック+コロナで超莫大負債を抱えた日本は、この先、無事に走って行けるのだろうかと思った。

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無題 [政経お勉強]

kanteisugita_1.jpg 日本学術会議問題で、幕蓮著『官邸ポリス』主人公=杉田和博官房副長官の名が浮上した。目下の日本は〝美しい日本〟の遺産=「権力おじさん+官邸ポリス+忖度官僚」体制らしい。

 久々の絵に描く要領を忘れたが、新体制の権力圧力はマスコミ、学問への圧力が冴え増している。前総理も調子に乗って暗躍中とか。

 ~と云う眼も秘め持っての日々でございます。目下、京大・滝川教授事件を描いた松本清張『京都大学の墓碑銘』読書中。文中にこんな記述がある。

 ~昭和7年、ドイツではナチス党が絶対多数を取らなかったが第一党となり、ヒトラーが首相に任命された。日本は「満州国」をつくり、その年の三月には国際連盟を脱退し、四月には陸軍が長城を越えて、中国本土に侵入を開始している。軍部も官僚もドイツに追随しはじめ、国家主義の思想家がナチスに心酔しはじめたときである。

 

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ヒトラー12:第二次世界大戦(ロ) [政経お勉強]

IMG_4491_1.JPG 1942年5月、英国「千機爆弾」がケルンを襲い、1943年からは米軍爆撃機も加わって各都市を空爆。瓦礫化した。(東京大空襲は1944年11月以降で106回。特に1945年3月の夜間空襲が酷かった。そして8月6日に広島、8月9日に長崎に原爆投下)

 1944年、ソ連軍が720キロに及ぶ戦線で大反撃。失った領地を次々に奪還。ルーマニアはソ連軍が国境に到着すると、即ドイツに宣戦布告。7月、現状認識できぬ軍部を糺すべく「ヒトラー暗殺計画」が幾つか行われるも失敗。逆キレ軍部は「国民総力戦」挙行で、数百万人が無駄に命を落とした。8月23日、連合軍がパリを解放。

 ドイツ軍は国内の諸施設が敵利用できぬように次々と破壊。そして敗戦がわかっていながら、ユダヤ人の大量殺戮を続行。5月にはアイヒマンらは約65万人のハンガリー・ユダヤ人をアウシュヴィッツ収容所へ送り込んだ。ナチスに命を奪われた一般市民は1400万、スターリンによって命を失った一般人は数百万人とか。

 最後のベルリン攻防戦は1945年4月16日~5月2日。数百万のドイツ人が荷物を持って町から町へ逃げ惑う。4月29日、ヒトラーは「政治遺書」を口述筆記させて自殺。ナチ幹部の多数も自殺。また1100万人以上が連合軍の捕虜へ。ソ連軍の捕虜になった約335万の捕虜は、10年以上も囚われたままドイツに戻らず。

 戦争中にナチに苦しめられたポーランド、チェコ人はドイツ人に屈辱的な仕事をさせ、女性はレイプされ(数十万)た。ヒトラーその後の「戦犯裁判」は「東京裁判」に相通じる。1945年2月「ヤルタ会議」で、ナチスの全党員と、連合軍に敵対したすべての人を、公職・準公職、重要な民間事業の責任ある地位から追放。25万人が拘束され、1946年末まで9万人が拘禁。6479人が有罪宣告。ソ連領内では約1万2500人が有罪判決。

 1948年5月、米軍占領地域の軍政が終了。オーストリアでは4月に恩赦法が承認。1949年に東西ドイツが成立する頃には過去に線を引き大赦が宣言。「ナチ・ドイツ」非難から「かわいそうなドイツ」に認識が変化。終戦から75年後の今、再びEUとユーロでドイツが独り勝ち気味で、そこに問題も起きているらしい。政経の歴史やお勉強テーマはキリがありませ。各資料(以下)を精読、読み直して気付いた部分は追記することにして、このシリーズをひとまず終えます。

 <参考資料> 林信吾著『青山栄次郎伝~EUの礎を築いた男』(角川書店)、イアン・カーショー著/石田勇政治訳『ヒトラー権力の本質』(白水社)、ハラルト・シュテファン著/滝田毅訳『ヒトラーという男』(講談社選書メチエ)、アドルフ・ヒトラー著/平野一郎・将積茂約『わが闘争』(上・民族主義的世界観)(下・Ⅱ国家的社会主義運動)、『続・わが闘争』(生存圏と領土問題)3著共に角川文庫。リチャード・ベッセル著/大山晶訳『ナチスの戦争』(中公新書)、エマニュエル・トッド著/堀茂樹訳『「ドイツ帝国」が世界を破滅させる』(文春新書)、トーマス・ザントキューラー著/斉藤寿雄『アードルフ・ヒトラー:独裁者の人生行路』(現代書館)、映画「HITLER'S  CIRCLE  OF EVIL」他多数。そして戦前のヒトラー関連書は国会図書館デジタルコレクションより。

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ヒトラー11:第二次世界大戦(イ) [政経お勉強]

jinsyusennsou_1.jpg 第ニ次世界大戦を振り返るのは、日本も当事国で、かつ親世代ゆえに辛い~。『ナチスの戦争』(リチャード・ベッセン著、中公新書)、『アードルフ・ヒトラー:独裁者の人生行路』(トマス・ザントキューラー著)を参考に、簡単に時系列で振り返ってみる。

 1939年9月1日、ヒトラーは軍服姿で国会に登場し「ポーランドと開戦」を告知。数週間で同国を征服(ポーランド軍犠牲者10万人、捕虜100万人)。ドイツの勝利を伺って同月17日にソ連が参戦してポーランド東半分を制圧(独ソが秘密裏で決めていて、両国でポーランドを分割。ドイツは西プロイセン、ポーランド西部を併合し、ポーランド人とユダヤ人を追放。ソ連領になった地域のドイツ系民族を代わりに移住させた。

 1940年4月、デンマークとノルウェーへ侵攻。デンマークは翌日降伏。ノルウェーは6月10日に降伏。5月にオランダを数日で制圧し、5月18日に中立国ベルギーが降伏。6月14日にパリ入都。22日にフランスが停戦調停。フランス北部と西部海岸をドイツが占領支配。ヒトラーの特別列車でのベルリン凱旋に、数十万人が大熱狂。

 1941年4月、ムッソリーニの苦戦に加勢してイタリア・ハンガリー軍と共にユーゴスラヴィアとギリシャへ侵攻。約2週間でユーゴスラヴィア降伏。月末にギリシャ降伏。それに先立つ1940年11月、ソ連の独ソ関係協議で、ソ連がスカンジナビアとバルカン半島への関心を表明したことで、ヒトラーは対ソ戦を決意。

 1941年6月22日、ドイツ側360万の兵士+3350両の走行車がスターリン率いるソ連軍を攻撃。共産主義者への憎悪から、戦時国際法を無視した〝絶滅戦争〟。降伏した約570万人のソ連兵に食事・宿舎も与えず330万人が死亡とか。だがソ連も頑張ってドイツ兵17万人余が戦死、62万人負傷、3万人行方不明。

 同年9月19日、ウクライナのキエフを占領し、モスクワ・クレムリンの塔が見える地まで攻め込んだ12月初旬、ドイツ軍の補給が絶えた。加えて-37度の極寒。赤軍反撃でドイツ軍が退却。だが前線後方でソ連軍領内のユダヤ人約200万人を虐殺。ドイツ軍が不利になるとパルチザン、レジスタンス活動が次第に活発化。数万人だったパルチザンが、この頃には約12万人へ増加。

 1941年、日本の真珠湾攻撃で、米国ルーズベルトが日本へ戦線布告(米国の日系人強制収容所へ12万人が送られ、その後に労働力不足の中西部都市に送り込まれた)。ドイツも米国へ宣戦布告。1942年、ドイツは南部部隊をカスピ海沿岸のソ連の石油油田を奪うべく攻撃させ、北部部隊を工業都市スターリングラードへ攻撃させた。二兎を追った欲張った作戦が失敗。1943年1月末にスターリングラードでドイツ軍降伏。また英米軍が北アフリカを占領。1943年5月、ドイツ・イタリア軍がチュニスで降伏。ムッソリーニ失脚~逮捕。

 1944年6月6日、連合軍がフランス・ノルマンディー上陸。22日、ソ連がドイツへの大規模攻撃「ツィタデレ作戦」。90万兵士+2700戦車VSソ連兵130万+3400両戦車の闘いでドイツ敗北。ゲッベルが老人・子供をも巻き込んだ「国民総力戦」を訴えるも、国民は大本営を信じるより、己がどう生き延びるかを考え出していた。ヒトラー式敬礼の拒否、さらには幾つかのヒトラー暗殺計画(失敗するが)も起ってきた。

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ヒトラー10:反ユダヤ主義と今 [政経お勉強]

IMG_4481_1.JPG ヒトラーの「反ユダヤ主義」とは? 『わが闘争』(上下)及び『続・わが闘争~生存権と領土問題』(写真)に、その主張が散在。『続・わが闘争』は「国家社会主義ドイツ労働者党」の中央出版局・書籍出版部のヨーゼフ・ベルクが1945年に米国将校に渡したもので、アメリカ国立公文書館のマイクロフィルムに収められた324頁の未編集原稿(草稿)集。(ヒトラー著、平野一郎訳)。

 先ず第五章の書き出しで、ヒトラーは己のスタンスを説明している。~私はドイツ国家主義者である。すなわち私はわが民族性を信奉する者である。私が考えること、行動することすべてが、この民族性の一部なのである。

 第三章「民族の価値と平和主義的民主主義」には、~それぞれの民族には、その民族にしかない特有の価値があり、それが民族の歴史的文化像で、そこに人種上の価値が反映されている。~ところがユダヤ人は、どのような形でも他民族に中に入り込んで行けるのだ。このインターナショナルな害毒と退廃の師は、その対象となった民族を徹底的に根絶やしにし、腐敗させるまで留まることを知らない。最後には、この狙われた民族の今までの統一のとられていた特定の人種的価値を失わせ、最終的に衰退させる。~典型的な資本主義的素質を持つユダヤ民族は、民族的文化的な価値が、資金や財力より高く評価される組織に対して激しい憎しみを持っている。

 第十七章「ユダヤ人との闘争」では、概ねこんな記述 ~(第一次世界大戦で)ドイツに対戦した一部の国は、ドイツ崩壊で直接利益を有する世界連合(英仏露など)だった。その巨大戦争プロパガンダを興したのが国際的世界ユダヤ人だった。ユダヤ人は、地球上の他民族が、独自の領土国家を建設し保持し生産力を有しているのに比して、彼らは空間的領土という境界に縛られぬ宗教共同体国家をもって、ユダヤ民族の保持と増加と将来を保証している。

 ~一般的に民族の生存闘争の基盤は土地にある。土地を耕し、その生産力が経済基盤になっている。しかしユダヤ民族は土地を有さぬゆえに、他民族の生存内の寄生虫的存在になる。すなわち彼らの生存闘争の最終目的は、生産的活動を行っている諸民族を奴隷とするところにある。まずは他民族国家の内部で権利平等を求め、次に優越的管理を求めて行く。その手口は剣の闘いではなく狡猾、狡知、擬態、策略、姦計などで、そうしてカネとプロパガンダの助けでゆっくりと支配者に成り上がって行く。

 ~その最終目標は脱国民化、他民族との交雑、民族的知識階級の根絶と人種混淆を導き、自分の民族所属者をもって、その知識階級の代わりを務めさせようとする。民族と結びついている当該民族独自の精神的指導層を破壊し、指導者をなくした人間たちの支配者にユダヤ人自身が昇る。ユダヤ人は民族の寄生中だから、彼らの勝利は、その犠牲民族の死滅、さらに自身の終焉に至る。

 ~古代世界の没落後1500年の間、ユダヤ人はずっと外来者で、その侵入が拒まれてきたが、フランス革命によってユダヤ人は市民的平等権を得た。諸民族の内部にあって政治的権力の足がかりを得た。19世紀の「利息思想」に立脚した金貸し資本の拡大によって、ユダヤ人にさらに諸民族の経済内で支配的位置を得て、株を経由して生産現場の大部分の所有に至り、株式取引所の支援を得て次第に公的な経済的生存の君主にだけではなく、最終的には政治的生存の支配者になって行った。(ヒトラーは第一次世界大戦中のロシア革命を、またナチ活動中のNY株式取引所に端を発した世界恐慌を体感しての考えと推測する)

 彼らは肉体労働者の階級を特別階級に仕立て上げ、国民的知識階級に対して闘わせる。それがマルクシズムのヴォルシェヴィズム革命の精神的父親となる。ユダヤ人はその武器を今や情け容赦なく冷酷に使用し、国民的知識階級を根絶しようとする。その最初の試みは革命形式で現れている。既にこの非人間的な迫害と殺戮によってロシアの上層階級およびロシアの国民的知識階級は殺され、余すところなく根絶された。そんなロシア革命でロシア民族は2800万~3000万人の死者を強いた。ユダヤ人は現在のところ、残った国家に同じ状態をもたらそうとしている。この闘いに一人で引き受けているのが国家社会主義ドイツ労働者党である。『わが闘争』にはユダヤ人とイギリス、イタリア、フランスなどの諸関係に言及し「日本とユダヤ人」の項目もある。

 現ユダヤ人の人口は約1460万人。その半分がイスラエルとアメリカに在住。アメリカのグローバリズム企業、GAFAM各社、金融系企業、メディア、情報通信、不動産などの大企業創業者にユダヤ系が多いらしい。昨今のトランプ大統領のイスラエル、中東問題、大統領選挙にもユダヤ人問題が微妙に絡んでいる。逆にEU離脱の英国に民族性のこだわりの強さが伺える。

 第二次世界大戦後の「自由・民主」意識が、今75年を経て薄れ、今ふたたび覇権主義、独裁主義、強権、自国ファースト主義の台頭、「わが国を再び偉大な国に~」のアピールはヒトラーもトランプも同じだろう。世界に再び物騒な気配が満ち始めている。過ちを繰り返さないよう。デッチ上げを見抜く力を育みつつ、心して注視して行かなければいけません。

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ヒトラー9:独裁の恐怖が始まった [政経お勉強]

jinsyusennsou_1.jpg 以下、リチャード・ベッセル著『ナチスの戦争』(大山晶訳・中公新書)を参考にする。1934年8月、ヒンデンブルク大統領死去で、ヒトラーは大統領制を廃止し、自らが総統となり「ワイマール共和国」が「ドイツ第三帝国」(俗称)になった。ヒトラーはまず経済対策で高速道路網(アウトバーン)整備、国民車(フルクスワーゲン)製造を展開した。

 それらナチス経済施策の目的は、あくまでも「侵略戦争が可能な再軍備と軍事組織」。1935年に徴兵制度を復活。1936年、大恐慌から立ち直って、ヴェルサイユ条約の制約解除に併せて非武装地帯ラインラント(ドイツ西部ライン川沿岸、フランスに隣接)に進駐して再武装開始。「4ヶ年計画(4年以内に戦闘可能へ~)の覚書。

 1936年、ベルリン・オリンピックが終わると、ゲーリング率いる空軍が迅速な成長を遂げ、海軍はフランスと同等規模になり、陸軍は260万人で1/3が自動車部隊と戦車部隊へ。同時にアーリア人種繁殖に産めや殖やせの政策、比して疾患子防止法(断種法)政策。アーリア人とユダヤ人との結婚・性交渉・生殖禁止。

 若者は少年向け「ヒトラー・ユーゲント」(昭和13年に30名程が来日。8月には伊豆大島へ1行28名が来島。併せて東京少年団も来島で、その中に後にル・コルビュジエ師事の建築課・吉阪隆正少年もいた。小生ブログより)。女子はドイツ女子同盟へ入会を強制。そして他の民は労働奉仕団、軍隊、労働者戦線(2,000万人)へ。

autobahn_1.jpg ヒトラーの戦争理念は「人民の保護と維持、そのためには既存領地内での自給自足は不可能ゆえに、新たな土地が必要~」で、まずはチェコスロヴァキアとオーストリア併合を目指した。

 1938年、ヒトラーが軍の総̪帥権、ゲーリングが経済政策のトップ、リッベントロップが外務大臣、ヒムラーが5万6千人の親衛隊隊長とバイエルン強制収容所、ドイツ全域の政治警察、プロイセン機密国家警察(ゲシュタポ)の各長官に収まった。

 同年、ドイツ・ユダヤ人30万人がドイツを脱出。ドイツ軍がオーストリア侵攻。ウィーンのユダヤ人の財産没収。この施策がドイツ全域で展開。翌年にチェコに侵攻して両国を併合。そしてポーランド侵攻で、英仏がドイツに宣戦布告。第二次世界大戦へ突入した。

 ヒトラーは政権掌握6周年の1939年1月の国会演説で以下を語った。「もしヨーロッパ内外で国際的に活躍するユダヤ人資本家が諸国を再び戦争に突入させることに成功しても、その結果起るのは世界のボルシェヴィキ(多数化)でもユダヤ人の勝利でもなく、ヨーロッパ・ユダヤ人の絶滅だ」。ヒトラー、ナチスの戦争が人種闘争であることの明言だった。

 そrではヒトラーの「反ユダヤ人思想」とは? 気が滅入るテーマだが、ここは我慢して理解しておく必要がありそうです。次回にその辺をお勉強する。アウトバーン写真は、昭和13年刊『伸びゆく独逸』、国会図書館デジタルコレクションより。

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ヒトラー8:『青山栄次郎伝』最終回 [政経お勉強]

IMG_4489_1.JPG 1939年9月、ドイツ軍がポーランドに侵攻し、英仏がドイツに宣戦布告。第二次世界大戦が始まった。一般のドイツ人が戦果に関心を寄せる陰で、ナチスはユダヤ人を強制収容所へ送って大量虐殺。

 栄次郎夫妻はスイスからパリに移っていたが、1940年6月のドイツ軍パリ無血入都で、夫妻はポルトガル経由でアメリカに亡命した。ニューヨーク大学を拠点に講演活動。「ヒトラーとスターリン、二人のどちらも勝者にしてはいけない。戦後のヨーロッパは平和に総合されるべきだ」と訴えた。

 1941年12月7日、真珠湾攻撃。栄次郎は同年8月27日に母・光子の訃報を受け取った。1945年4月30日、ヒトラーがソ連軍包囲下のベルリンで自決。5月7日、ドイツ無条件乞降伏。

 ヒトラーの故郷オーストリア北部にソ連が進駐し、ヒトラーと血縁関係にある者は連行されたまま帰ってこず。光子を看取って「光子の財産を相続」するはずのオルガも、難民となって米国占領下のドイツ(西独)に遁れ、その後に米国に移住。光子の長男ハンス(光太郎)は、ロンスペルク城・土地・森林を相続して最後の城主になっていたが、最初の妻goebbels_1.jpgがユダヤ人商人の娘ゆえ、妻を守るためにナチスに迎合せざるを得ずで、チェコにおける親ナチス派とみなされて逮捕。城、家財、美術品、蔵書のすべてが持ち去られた。現在もチェコスロバキアに管理されているらしい。

 1945年、栄次郎はニューヨーク大教授になるも、翌年に6年暮らしたニューヨークを去った。欧州へ戻る大西洋航海中に、英国前首相チャーチルから電報を受け取った。パリで娘婿サンディス(保守党議員で戦後の政界で活躍)と会ってもらいたい旨の内容。

 1951年春、妻イダがジュネーブで他界。チャーチルの栄次郎「パン・ヨーロッパ」賛同は、ソ連の脅威から西ヨーロッパ結束を求めたものだったが、「パン・ヨーロッパ」の真の賛同者はド・ゴール中心のロンドンで活動していたフランス亡命政府の人達で、彼らによって運動が推進された。

 1950年、フランス外相シューマンが従来の確執を超えて石炭・鉄鋼生産の共同管理を呼びかけた「シャーマン宣言」。その2年後にさらに進化して「ECSC(欧州石炭鉄鋼共同体)」へ、さらに1958年の「EEC(欧州経済共同体)」、そして「EU」へ至る。

hatoyama_1.jpg 1950年10月、栄次郎が初来日し「第1回鹿島平和賞」を受賞。昭和天皇に謁見。鳩山一郎夫人にも会った。鳩山一郎は公職追放期間中に栄次郎著作を英文で読んで感銘。「友愛が伴わなければ、自由は無政府状態の混乱を招き、平等は暴政を招く」をテーマにした翻訳『自由と人生』を1953年に出版。自身の政治理念を「友愛」にした。

 以上で林信吾『青山栄次郎伝』終章紹介を終わるが、ここまで辿ったら、気が進まないけれどもヒトラーの第二次世界大戦、ユダヤ人の虐殺についてもお勉強しなければいけないでしょう。

 写真はもう一度、林信吾『青山栄次郎伝』の表紙をアップ。写真中は当時のナチス宣伝相ゲッベルス、写真下は「友愛」の鳩山一郎(共に国会図書館デジタルコレクションより)

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ヒトラー7:栄次郎書に〝焚書〟指定 [政経お勉強]

hitler3_1.jpg 林信吾『青山栄次郎伝』に戻る。1929年10月、ウォール街に端を発した大恐慌が欧州を襲った。ドイツは政経不安定で、毎年のように解散・総選挙。1930年の総選挙でナチス107議席。社会民主党に次ぐ第2党へ。1032年の選挙で230議席。第1党へ。だがヒトラーの大統領選は30%で、ヒンデンブルク将軍50%に及ばず。

 これでは軍部を手中で出来ず。1933年1月、単独政権となってヒトラー首相就任。(挿絵は戦前のヒトラー賛歌の子供向け読み物=大木雄二著『ヒトラー』より。国会図書館デジタルコレクション)

 首相就任直後に国会議事堂放火事件(共産主義者を逮捕のデッチ上げ?)で「国家緊急令」を発令。(あの安倍元総理は「憲法改正」で執拗に「緊急事態条項」成立を目論んでいたっけなぁ)。集会・報道・言論の自由(今は学問の自由を侵されつつある)を停止し、共産主義を徹底的に叩き『パン・ヨーロッパ』運動の栄次郎著書も焚書とし、逆にヒトラー『わが闘争』が売れまくった。ベルリンはじめほとんどの大学町で非ドイツ的書物が焚火に投げ込まれた。●時代は遡るが、詩人ハイネは「本が燃やされるところでは、最後には人間も燃やされる」と予言的言葉を著わしていた。(トーマス・ザントキューラー著『アードルフ・ヒトラー独裁者の人生行路』より)

 3月5日の総選挙で288名が当選。ナチスの政権基盤強固で、立法権を議会からヒトラー委任「全権委任法」可決で〝独裁〟となる。ナチスの敬礼=ドイツの敬礼で、ヒトラー式敬礼を公務員に義務付けた。ヒトラーの単独政権になると、忠誠で働いてきた側近らに「出世欲・嫉妬」が渦巻いた。そして1934年6月30日「長いナイフの夜」の殺戮。これは突撃隊と同隊率いるレーム他への粛清。映画「HITLER'S  CIRCLE  OF  EVIL」第3部はヒムラー、ゲッベルス、ハイロリッヒらによる嫉妬・策略によって親衛隊が突撃隊100名余を射殺粛清する過程が息詰まる緊張感で描かれていた。

 ★追記:このブログを記した翌日、翌々日に87年前のヒトラーを例にした大学教授の発言がテレビニュースや新聞で報じられてギクッとした。それは2020年10月23日、日本学術会議が推薦した新会員候補6人が任命されなかった問題で、任命を拒否された学者らが日本外国特派員協会で記者会見。松宮孝明立命館大教授が「総理は国民を代表して自由に公務員を選定罷免できると宣言した。ナチスのヒトラーでさえ全権掌握のために新憲法を作ろうとしたが、総理は現行の憲法でやろうとしている。独裁者になろうとしているのか」と批判していた。ヒトラーの「全権委任法」は1933年3月23日に制定。4年期限だが1937年、1941年に更新された。

 さて、レームはヒトラーから渡された拳銃で自決を迫られ、拒否して射殺された。他に「ドイツ労働者党」創設者、前首相シュライヒャー将軍、バイエルン州元総監なども粛清。独裁恐怖が始まった。同年8月、ヒンデンブルク大統領死去で、ヒトラーは大統領制を廃止。自分が新元首となって「ワイマール共和国」が「ドイツ第三帝国」(俗称)になる。

 ヒトラーは米国ニューディール政策を真似て大規模公共工事を展開。その代表が高速道路網(アウトバーン)と国民車(フォルクスワーゲン)製造。1935年、徴兵制を復活。公共工事従事の若者100万人が軍隊へ。1938年にオーストリアを併合。

 オーストリア在住の栄次郎・イダは、ドイツ軍侵入と同時に同国のスイス公使館に逃げ込み、チェコスロバキア~ハンガリー・ブタペスト~ユーゴスラビア・ザグレス~イタリア領内を経てスイスへ入国。ナチスの宣伝担当者ゲッベルスは栄次郎を「公開裁判にかける」と発表も、栄次郎とイダはさらにアメリカへ逃げた。

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ヒトラー6:再び「HITLER'S CIRCLE OF EVIL」 [政経お勉強]

kershaw_1.jpg 再び映画の戻って、ヒトラー出所から独裁まで、併せて側近らの動きを追ってみる。執行猶予で出所するレームに代わり、ヒトラーが逃亡2日後にランツベルク刑務所へ。死刑予測で落ち込むヒトラーだったが、公判前に俄かに奮い立つ。「この公判こそ、己を主張する好機ではないか~」

 彼は尋問に応えるより、自身を殉教者・救世主に見立てた政治論の大演説。法廷は拍手喝采。その裁判記録を各紙が掲載。それまで無名だったヒトラーが、右翼第一人者に躍り出た。

 バイエルン当局と司法機関も、彼への理解・同情で5年刑に結審。一揆失敗で落胆・混乱の仲間らも活気づいた。ケルン郊外の若い作家志望ヨーゼフ・ゲッベルスも、ヒトラーの新聞掲載の裁判記録に心を揺さぶられた一人だった。

 ヒトラーは20名の警備員に付き添われ、秘書役ルドルフ・ヘスが密着。支持者らの頻繁な訪問。監獄はさながらナチ「シンクタンク」化し、ヒトラーは毎朝、他の囚人にも自身の思想を講義・討論。ナチのゼミナール場と化した。(イアン・カーショー著『ヒトラー権力の本質』より。写真上)

 野心家ではない唯一の党員ヘスは18ヶ月の懲役で、尊敬するヒトラーとの生活を喜んだ。ヘスは学生時代の師(ミュンヘン大の師ハウスホ-ファー)から学んだドイツ窮状再建の国家拡大論で彼を勇気づけ、ヒトラーこそ指導者・救世主なるべく人物だと持ち上げ、クーデター失敗ならば次は選挙だと誘った。

S.Snohimura_1.jpg ヘスはヒトラーに自身の生い立ち、ユダヤ人と共産主義者がいかに国を滅ぼしたか~の人種主義を書きまとめろと勧めた。実際はヘスとの共著になる『わが闘争』を書き上げた。(資本主義や共産主義の問題をユダヤ人に責任転嫁し、第一次大戦でドイツを罰した〝連合国〟を責めた諸思想ごちゃまぜの猛毒のような国家主義の内容)。

 一方、武闘派ゲーリングはモルヒネ依存症。レームは軍と闘える組織を目指した突撃隊(S.A)を補強。ヒトラーは突撃隊の激化する暴力行為によって保釈が取り消されるの恐れ、ナチ党・党首も辞めると表明。

 1924年12月、9ヶ月の懲役を経て出所。彼の法廷演説に感動したゲッベルスは、早くも演説で頭角を現し、教師の息子で若いハインリヒ・ヒムラーも政治活動に専念し、24歳で党の補佐役に育っていた。党名「国家社会主義ドイツ労働者党」に変更。

 だが、ドイツは経済復興で安定と明るさを取り戻していて、彼らの主張に反応しない。ゲッベルスはドイツ中を1年189回もの演説行脚をする。だが1924年の選挙結果はナチ党への投票率わずか3%だった。

 改めてナチ党は選挙に勝つべく組織固めを開始。ヘスが日々の決定事項と党の方針を作成。ゲッベルスとヒムラーはアーリア人の特性を有し、祖先まで調べ上げた黒制服・黒ブーツ・ドクロ紋章の親衛隊(S.S、写真下。昭和8年のアルス刊『ナチスの真相』安達堅造著、国会図書館デジタルコレクションより)を結成など巻き返しに集中した。

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ヒトラー5:栄次郎の失速、ヒトラーの躍進 [政経お勉強]

kakumeinokoro_1.jpg ヒトラーの野戦病院退所からクーデター失敗までを、林信吾『青山栄次郎伝』ではどう記されているか~

 1919年9月、ヒトラーは野戦病院退所後に、ミュンヘンで行われていた「ドイツ労働者党」の集会に参加。党主アントン・ドレクスラーが彼の弁舌に感心して入党を勧め、ヒトラー7番目の党員登録。栄次郎はこの頃のポスター「退役軍人は半額、ユダヤ人は入場禁止」の文言を覚えているとか。

 1920年2月、同党は「国家社会主義ドイツ労働者党」と改称し、ヒトラーが党首就任。25項の党要綱も設定で、第1項「わが党は全ドイツ人がドイツ主義のもとで結集することを求める」。第2項「わが党はヴェルサイユ条約の撤廃を要求」など。この要綱は「ポピュリズム(大衆迎合主義)+排他主義」の見本になりそうです。またこの時に、鉤十字マーク(寺院マーク卍とは逆回り)も制定とか。

 同時期に退役軍人レーム指揮下の突撃隊(S.A)誕生。当時の右翼左翼集会は互いに殴り込みが常態化でその対策。右手を突き出す「ハイル・ヒトラー」敬礼もこの頃から。

 1922~1923年、ドイツにインフレが襲う。世情の不安は、反乱を起こす好機になる。1923年11月、ヒトラー武装蜂起。ナチス党員16名が射殺され、100名余が負傷で失敗。ヒトラーは反逆罪。禁固刑5年も実際は8ヶ月半で出所。1927年まで公衆での演説禁止。

 ヒトラー出所後の共和国は、「新マルク発行+米国援助」でインフレから脱却で、平和と繁栄への途上。この時期に登場したのが栄次郎の「パン・ヨーロッパ」構想だった。1929年9月の国連総会終了後に、翌年総会の議題へなりそうな盛り上がり。

kagijyuji_1.jpg だが10月、米国ウォール街・証券取引所で突然の株価大暴落。その大恐慌が欧州も襲った。「パン・ヨーロッパ」運動は断ち切れ、逆にヒトラーが躍進する。1930年の総選挙でナチス107議席。1932年の選挙では608議席中230議席を獲得で、議会第1党に踊り出た。ヒトラーが各地へ飛行機で降り立ち、夜間の松明行列などの演出

 (選挙PR史上でも注目展開。この飛行機から降り立ち+演説の手法は、今もトランプに受け継がれているし、集団マスゲームなどは今も北朝鮮の得意技)

 1932年、ヒトラーは大統領選出馬前になってドイツ国籍を取得。だが第一次大戦の英雄ヒンデンブルク将軍の得票数50%に及ばない。1933年1月に首相就任。2月の国会議事堂放火事件。これを共産主義者の仕業にでっち上げて共産主義を追い詰める。3月、ヒトラーへの全権委任法の可決で、立法権を議会から名実ともにヒトラー独裁になる。

 こうなると、ヒトラー忠誠で働いて来た側近らに欲が出る。入閣人事を巡って嫉妬交じりの激しい闘争が展開する。「長いナイフの夜」と称された親衛隊(S.S)が突撃隊(S.A)200名余を粛清する残虐な事件も起こった。再びイアン・カーショー「ヒトラーはヒトラーによって説明できない」。ヒトラーは時代、社会変化、側近ら~さまざまな環境変化・要素が反応し合って成り立っているの意だろう。

 写真上はクーデター失敗の頃の若きヒトラーと突撃隊。写真下はナチの鉤十字マーク。(共に国会図書館デジタルコレクションより。戦前の日本発行のナチ関係書は、ヒトラー賞讃の紹介になっている)

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ヒトラー4:「HITLER'S CIRCLE OF EVIL」第一部 [政経お勉強]

hitler's_1.jpg 次にNetflixより映画「HITLER'S CIRCLE OF EVIL」(ヒトラーの悪の輪、共犯者たち)から、ヒトラーと側近らの動きを知っておこう。(独裁者がいれば、そこには必ず忖度、へつらい、忠誠の報いを求め、利用する人もいる。今の日本にも~)

 同映画は歴史家・作家・教授・博士8名のコメントに沿った映像で構成。同映画の第一部は、時間を遡って第一次世界大戦終盤から始まる。

 まずフランスで出撃待機中の国民的英雄操縦士ゲーリング(写真下)が登場。彼はドイツ撤退報に「皇帝が我々を裏切るはずはない」と信じ、敗戦は左翼政治家の裏切りと思い込む。航空機供与を拒否してドイツ本土へ強行帰還。だが戻ったドイツは政治面では法と秩序が崩壊、知識階級は極左と極右に分割。経済的には貧困と飢え。帰還した英雄操縦士には無関心で、彼は曲芸飛行で食い扶持を稼ぐ他にない。

geiringu_1.jpg 右翼で目立った存在はエッカート(劇作家、詩人、反ユダヤ人、裕福層に人脈)。彼はトゥーレ協会と手を組んで右翼思想を広める「ドイツ労働党」を設立。同協会にはアーリア人を弱体化させたのは劣った人種(ユダヤ人)と交わったのが原因で、劣った人種が国を支配してドイツが弱体化した~という説を信じていたそうな。

 1919年、ヴェルサイユ条約で約2600億マルクの賠償金が課せられたワイマール共和国には〝救世主〟が必要と思っていたエッカートは、野戦病院から帰還したヒトラーが聴衆を巻き込む演説姿に注目した。ヒトラーに魅了されたのは他にもいて、裕福な家の出のルドルフ・ヘスが1番弟子。教師の息子の18歳で人種主義崇拝のハインリヒ・ヒムラーもいた。

 エッカートはヒトラーの身なりを整え、マナーを教え、裕福な後援者を紹介し、彼の信念や理論の精査にも取り組んで彼を磨き込んで行った。まさに父子の関係~。ヒトラーが彼らの宣伝トップに収まると党名を「国家社会主義ドイツ労働者党」(頭文字からナチス。党名は一見左翼風も、労働者を共産主義から守ることを狙った意)へ。トゥーレ協会がアーリア人の起源を示すとした鉤十字をマークにした。

 条約でドイツ軍は軍規模縮小が求められていたが、戦争を愛する現役軍人レームは、秘密裏に義勇軍設立と兵器拡充をしていた。レームはその目的手段としてヒトラーに近づいた。1920年、エッカートとレームは、ナチス宣伝に新聞社を買収。エッカートが編集主任で、ヒトラーを〝救世主〟として売り込んだ。

 そこに曲乗りをしていたゲーリングが参加。かく体制が整うに従ってエッカートは側近の輪から外れていった。1922~1923年に超インフレがドイツを襲った。彼らにとって反乱を起こす絶好の好機到来。1923年11月に革命断行するも、16名が射殺されるなどで失敗。ヒトラーは禁固刑5年。ゲーリングは負傷してオーストリア亡命後にモルヒネ依存症へ。義勇軍を率いたレームも投獄。側近から外されて革命不参加だったエッカートは、彼らが獄中にいる間にアルコール依存症で死去。ヒトラーは獄中でルドルフ・ヘス(ミュンヘン大学政治経済専攻)に口述(ほぼ共著)させたのが『わが闘争』第1巻。ヒトラーは禁固5年も、翌年12月に釈放。その理由は後述。

 イアン・カーショー「ヒトラーのカリスマ的共同体は、まず彼に最も近い人々、ヒトラーに直接仕える〝従者〟によって構成され、彼らはその忠誠に対するヒトラーの報いを受けることで成り立つ(日本の戦国時代もそうだし、今の閣僚人事もそうと言えなくもない。ヒトラーが連立政権から独裁政権になるに従って、報いを得んとする〝従者〟らの嫉妬と闘いが過熱して、仲間内の悲惨な粛清事件も起り、ヒトラーのカリスマ性はさらに強くなって行く)」。またイアン・カーショーは「カリスマ支配」の脆弱性も指摘で、日本の長期一強総裁の崩壊(辞任)をも言い当てているようで実に面白い。

 写真は「HITLER'S CIRCLE OF EVIL」のタイトルバック。写真下はゲーリング。安達造著『ナチスの真相』(昭和8年アルス刊。国会図書館デジタルコレクションより)

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