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クロッキー帖と腰痛体操の図 [スケッチ・美術系]

youtuutaisou3_1.jpg 己の下手な絵に「スケッチブックはもったいない」と気が付いた。2月に入ってからのカット絵は「クロッキー帖」に描いたもの。名は「クロッキー帖」だが、いわゆる〝クロッキー〟はしないから「エスキース帖」だろうか。

 いや「エスキース」の意もスケッチや下絵だから、あたしの場合は「いたずら描き帖」が相応しい。「スケッチブック」だと構えてしまうが「いたずら描き帖」だと鼻歌交じりで気軽にペンを走らせることができる。

 その気軽な気分は例えば「原稿用紙+万年筆からワープロに切り替えた時」の気分に似ている。原稿用紙の時は、気合を入れて書き出したものだが、ワープロにしたら咥え煙草にコーヒー、鼻歌交じりでキーボードを叩き始めて、調子が出て来た時にヨシッ!となる。絵を描き始めたばかりの者にとっては、まずは上手下手より〝描く習慣〟が大事だろう。かくして気軽に描ける「いたずら描き帖」は、マルマンのクロッキー帖でバッグに入るSサイズと、ポケットに入るSQサイズを手許に置いた。紙はコピー紙よりやや薄い。

 小生の机横には、使用済みコピー紙を半分に切って裏面使用のメモ紙の束が常備されている。これはメモの使用後はゴミ箱で、後で「あの時のメモは~」とゴミ箱を漁ることままなり。メモも「いたずら描き帖」を使えばいいかもと思っている。

 この絵の参考は、大病院整形科にあった「慢性腰痛を軽くする体操」チラシ。紙が薄いから軽く水彩を乗せただけで紙が波打ってしまう。


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小川千甕:絵は何でもありがいい [スケッチ・美術系]

zenga1_1.jpg 某画家の随筆集に「純粋絵画VS原稿料の絵」趣旨の章があり。結論は「ファインアートも職業になれば嫌なことも付きまとう」で締め括っていた。絵描きもお金が大事とハッキリ言えばいいのにと思った。「絵を売ることを知らぬ?」熊谷守一も、極貧生活を見かねた画商やコレクターらによって人気画家になった。

 上記が絵に関するお金の話。次に「画家のデッサン力VS漫画やイラストの画力」云々も騒がしい。そんなのどっちでもいいじゃないかと思う。モネは写真を見て描いたと指摘されて「写真を見て描いても、満足に描けない画家が多い」と一蹴した。

 小川千甕(せんよう、1882~1971)の本(図録)を読んだ。彼は15歳で仏画師へ奉公。20歳で欧州帰り洋画家・浅井忠の門下生に。人体デッサンや写生に励み、次に陶器の装飾(デザイン)絵付け。28歳で上京し「ホトトギス」に挿絵。各誌に時事漫画も描いた。31歳でヨーロッパ遊学。帰国後に日本画「珊瑚会」結成。(34歳で伊豆大島滞在)その後は俳画、南画(文人画)、禅画も描いた。昭和42年、85歳で上野松坂屋で武者小路実篤・熊谷守一と三人展。88歳の米寿展後に没。晩年は子供みたいな絵を描いていた。

 彼にとっては純粋絵画もイラストや漫画も、デッサンの上手下手も関係なく何でもありだったような気がした。あたしは絵を描き始めて1年に満たぬが、歳相当の絵ならば枯れた俳画のような絵を描くのが相応しいような気もする。そう思って小川千甕の晩年の禅画「芭蕉庵」一部を真似してみた。

 神田川沿いの「関口芭蕉庵」には、この絵のような5㍍ほども天に伸びた立派な芭蕉が繁っている。カット絵は「コピー紙+鉛筆+透明水彩+万年筆(プラチナ・カーボンインク)+筆ペン+修正液」。画材も何でもあり。


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浦沢直樹:描いて描いて描きまくる [スケッチ・美術系]

urasawa1_1.jpg 世田谷文学館「浦沢直樹展~描いて描いて描きまくる」へ。同館へは昨年の「植草甚一展」へ行った。小生には〝漫画体験〟がない。かかぁは若い時分に「ガロ」を読み、結婚当初は「マーガレット」を買っていた。

 過日、息子の家のトイレに入ったら「パタリロ」の魔夜峰央「翔んで埼玉」あり。読み始めたら「お爺さん、倒れたんですか」と息子嫁の声でトイレから出た。そう、息子が子供時分に漫画単行本を揃えてい、それらをちょい読みしたことがあった。

 昨年、偶然観たテレビ「漫研」に釘付けになった。同番組は浦沢直樹が人気漫画家の仕事場を訪ね、漫画誕生の秘密を探る内容。彼らの線画の妙に感心した。かつ同番組に満ちる熱気に惹き込まれた。今どき、これほど熱く仕事をしている人々は珍しい。

 かくして「浦沢直樹展」へ。彼は長編連載漫画大ヒット作家。そのなか「YAWARA!]と「MASTERキートン」は息子の書棚からちょい見した記憶がある。同展ガイド本購入。12時間のロングインタビュー収録。5歳で漫画を模写。小2からコマ割り漫画を描き始めた。「オタク」と思いきや小学3~6年は学級委員。中学は陸上部でギターも覚えた。高校は軽音楽部。大学は経済学部でバンド活動。小学館採用試験ついでに編集部へ漫画原稿持ち込み。これが同社新人コミック大賞入選でプロ漫画家へ。以来ヒット街道まっしぐら。単行本149冊。

 同書には、画塾でデッサンをしたなぁ~んてことは一言も語っていない。5歳からの漫画模写・創作であの画力を得たらしい。壁面一杯の下書きから完成原稿展示は圧巻も、一点絵を額装の「ギャラリー」コーナーは特別な感動なし。漫画はタブローではなく、コマ割り(物語展開の構成・演出)で読ませるものゆえだろう。

 人気漫画家ゆえ会場は平日でも満員かと思ったが、入場者はパラパラで拍子抜け。帰宅後に漫画好きの方々のブログを拝見したら彼の漫画には賛否さまざまな意見。漫画家も多い。さらに今の若者は皆さんが評論家で、かつての少年らが漫画に夢を託したような状況ではもないらしい。

 先日、出版業界データが発表された。出版物は20年前の40%減。漫画単行本は横ばいも、漫画雑誌は激減。世界に誇る日本漫画の明日は大丈夫かしらと心配した。一世を風靡した「大友克洋」は漫画のペンを置いたとか。浦沢直樹はこれからも「描いて描いて描きまくる」のだろうか。これを機に、漫画にも注目してみようか。だが漫画は図書館にはない。えっ「漫画喫茶」「スマホマンガ」?。あたしには未知の世界がまだまだありそう。カット絵は同展チラシ写真から。少しは似ているかなぁ。


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ピカソ:描いて描いて描きまくった [スケッチ・美術系]

picasso152_1.jpg 絵を描き始めて水彩画入門書を読み、併せて十数名の内外画家の関連書を読んできた。だがその先へ進めない。図書館の「美術系棚」には入門書・鑑賞ガイド本・画集の他は僅少。読みたい本がない。画家らは「描いても書かない」らしい。画家には文章を書けない人が多い。それは失礼ゆえ彼らは「文章以上の世界に棲んでいる」と解釈した。

 そんなワケで余りに厚い(5㎝)ので敬遠していた『ピカソⅠ 神童1881~1906』(ジョン・リチャードソン著の翻訳評伝書)を手に取った。少年期の記述に「描いて描いて描きまくった」という文あり。画家にはそんな時期があるのだろう。

 「描いて描いて描きまくった」と呟いていたら、世田谷文学館で「浦沢直樹展 描いて描いて描きまくる」開催中を知った。美術館ではなく文学館開催がミソか。ちなみに世田谷美術館では何をやっているかと調べたら、ピカソに鉄彫刻を教えた「フリオ・ゴンサレス展」。ついでに雑誌「美術手帳」を見れば、画家ではなく同じく漫画家・浦沢直樹特集だった。

 漫画に押されて、日本現代絵画はどこに行ったやら。素人なりに推測すると、かつて絵描きらを支えていた「パトロン」は死語に近く、「画家と画商」の関係も旧態依然の感じ。今の絵描きらは、どんなシステムで絵を換金しているのだろう。純粋絵画(ファインアート)ゆえ、極貧生活に耐えつつ絵筆を握っているのだろうか。

 過日観たテレビで、某新人画家の絵が上海だったかのアジアンオークションで初めて値が付くシーンが紹介されていた。脳裏に「中国バブル」や「資本主義の終焉」やらの言葉が浮かんで来た。なんだか曖昧で胡散臭い感じもした。一方、漫画家は原稿料や単行本印税で、それはそれでハッキリしている。

 浦沢直樹は5歳から漫画模写を始めて、たぶん画塾でデッサンもせずに経済学部卒業と同時に人気漫画家一直線らしい。同じく「描いて描いて描きまくった」ピカソは、15歳でデッサンを極め、早や娼家に出入りし、修道院より依頼の宗教画を売ったらしい。

 以上、純粋絵画と漫画、デッサン力と漫画の画力、出版業界と画商やオークションなど諸テーマ〝ちゃんぷる〟で記した。カット絵は15歳のピカソ。微妙に似ていない。どこかの線をちょっと直すと似るのだが、どこを直せばいいのか分からなかった。


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植草甚一と谷岡ヤスジのヘタウマ [スケッチ・美術系]

uegusayasuji_1.jpg 北斎の足を模写しつつ、ピカソ「足」のデッサンを思った。ピカソは美術教師の父の元、14歳でデッサンを極めたとか。「絵の基礎はデッサン」は常套句。これは「ゴルフの基礎はスウィング」に似ている。一流ゴルファーも子供時分からクラブを握って10代でシングルへ。他スポーツや器楽演奏でも幼児教育が肝心。カラオケ番組を観ているとプロ歌手より上手な子らも登場する。

 それら子の技に舌を巻くも、彼らに魅力は感じない。概して優等生にも同じ感がある。だが絵には他分野にはない「ヘタウマ」が存在する。「ヘタウマ」系の人は「ヘタ」ゆえに〝人間味〟があるのか、文章面やキャラクター面でも人気者が多い。

 例えばあの蛭子さんは「絵がヘタ」と言われると、決まって「上手になるよう努力はしているんですがねぇ」と言うが、真っ赤なウソだ。上手に描いたら蛭子さんの絵ではなくなる。「ヘタウマ」の人は〝より上手に描きたい〟という自然な欲求を絶った「諦観の達人」のような気もする。

 「ヘタウマ」元祖の一人に谷岡ヤスジがいた。小生は1970年に某PR誌で「植草甚一氏と谷岡ヤスジ氏」に対談していただいた。こう記して時代確認をネットですれば、なんとその4年後の1974年の植草甚一編集「ワンダーランド」改め「宝島」2月号(B4変型の第6号休刊告知号)表紙を谷岡ヤスジ氏が描いていて、ちょっと驚いた。あれから二人の交流が続いていたんだ。

 その休刊号の古本は、今でもネットで買えるが、小生の企画・編集でお二人に対談していただいたPR誌はもう探しようもない。あの時、二人は「ヘタウマ」の楽しさ、境地を語り合っていたような気もするが、天国に行かないと確かなことはわからない。


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小松崎茂と藤田嗣治、池田大作や [スケッチ・美術系]

komatuzaki5_1.jpg 昨年末に小松崎茂が描く零戦や戦艦の〝海〟を模写アップ。その時は画集参考だが、今年は評伝『異能の画家 小松崎茂』(根本圭助著)を読んだ。面白かった個所をメモ。

●映画館でクロッキー:昭和10年、20歳。挿絵画家を目指した彼は、映画「油地獄お艶殺し」他を手許も見えぬ映画館内で毛筆クロッキー訓練。凄い努力です。●クロッキー会:音羽町の瀬戸物屋二階を岩田専太郎がお金を出して若手挿絵画家のクロッキー会場にした。後に挿絵画家として大活躍する青年らが集っていた。皆さん、しっかり腕を磨いていた。

●藤田嗣治は偉かった:小松崎は昭和17年、日本橋三越で開催「陸軍美術」に『ただ一撃』(50号油彩。敵機を追撃の隼)を出品。藤田嗣治が同美術理事長で「よく描けている」とほめた。後日の陸軍美術主催スケッチ会に出席すると当時の大画家らが勢揃い。モデルは麻布三連隊の重装備兵士。宮本三郎がくわえ煙草でスケッチをすれば、藤田「宮本君、煙草を消しなさい」に宮本「ハイ」。日本画家がモデルを写真に撮れば「君は写真屋か。絵描きは絵を描きなさい」。それほど藤田嗣治は偉かった。

●長者番付の画家の部で第2位:30歳、終戦。戦意高揚作を描いてきた彼はGHQに睨まれていると、出版界に戻るのをためらった。再び仕事復帰すればまた大人気。三日徹夜で仕事をこなす。編集者らも泊まり込みで原稿待ち。そのなかに日本正学館発行「冒険少年」あり。社長は戸田城聖で青年を伴っていた。彼の名は池田大作。

●もうひとつの戦中戦後史:評伝だが、上記例からも伺える通り、彼が出会った人々の多彩さ。東京大空襲の体験記や復興の姿。同書は挿絵史でもあり、さらにもうひとつの戦中戦後史。「松岡正剛の千夜千冊」にも取り上げられていた。読み応え充分です。●なお小生は「小松崎茂の絵に夢中になった世代」よりやや下の世代で、プラモデル趣味なしゆえ、彼の絵は完全スル―だった。


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新春に黒の遍歴定まりぬ [スケッチ・美術系]

carbon2_1.jpg 図書館でかつて借りた本を、また借りてしまった。印象少なくも興味あるテーマゆえに再び手が出たのだろう。山田浩一著『楽しい万年筆画入門』。

 同書で万年筆の黒インクで水彩にも使える(その上から彩色しても滲まない)顔料インクがあると知った。セーラ―「ナノインク・極黒」とプラチナ「カーボンインク・ブラック」。後者は使わぬと固ってオーバーホールが大変だとあった。

 それを読んで、今までのパイロット「色彩雫・竹炭」からセーラー「極黒」に入れ替えた。「よし、これで万年筆で絵を描こう」と喜び勇んで水彩を乗せれば「アァ~」って感じで黒が滲み出て線は墨ボカシに、色は黒の混色へ。「なぁ~んだ、ダメじゃん」。

 それで「万年筆+水彩」を諦め、以後は耐水性ボールペンを多数試みたが、まだ〝お気に入りペン〟は決まっていない。万年筆はふと思い立って、ン十年振りに持った。安価な「ラミーサファリ」を3本。通常の文字書きに「パイロット・ブルー」を、校正用赤に「色彩雫・躑躅」を、そして3本目のサファリは黒インク「竹炭」から「極黒」に替えたが前述通りで使用頻度が減った。

 だが黒インクを入れたサファリは、ペン先がひっかかるので砥石で何度も砥ぐなど手を入れて愛着もある。再び『楽しい万年筆画入門』を手にしたのを機に、今度は本に頼らずにネットで調べた。案の定「〝極黒〟は滲みます」と断言のサイトがあり。一方「プラチナ・カーボン」はマメに使う、キャップを忘れないに留意して使っている方々がいた。しかも「専用クリーナーセット」までちゃんと発売されているのを知った。

 あたしの万年筆は安物ゆえダメになっても惜しくない。早速「カーボンインク」に入れ替えた。1年も経ずに黒インクは「竹炭~極黒~カーボンインク」への遍歴也。カット絵の左二つのインク瓶を「極黒」で描いた。やはり滲む。文字の上に水彩を乗せると黒が滲んで汚くなっている。比して右の「プラチナ・カーボンインク」は微塵も滲まぬ頼もしさ。なんだか良さそうなので、細字のサファリをもう1本欲しくなってきた。

 追記)後日アップするが北斎の手を面相筆、耐水性ボールペン、カーボンインクで模写した。この際、ボールペンは後で鉛筆あたりを消しゴムで消そうとしたらインクがすれた。一方「カーボンインク」は描いた直後に消しゴムを強く当てたがそんなこともなかった。よほど速乾性・定着性共に優れているとわかった。そして4本目のサファリを買ってしまった。インクは別にしてサファリ外装色は黒・青・赤・黄。お爺ながら4本の色違いサファリを見てニヤニヤ。愉しい。


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箸置きを筆に下ろして春よ来ひ [スケッチ・美術系]

hasioki2_1.jpg 昨五月の「初スケッチ」からブログの写真を絵に替えて後悔しきり。描く習慣が未だに身に付かない。ブログで池田満寿夫、竹久夢二、藤田嗣治、佐伯祐三、マリー・ローランサン、モネ、五姓田義松、熊谷守一、マティスと初めて画家関連書を読む記もアップし、「絵の練習は模写から」とソレも試みたが半年では修業にもならない。

 絵を描くのはボクサーが日々トレーニングを怠らぬと同じで、練習を怠ると手が動かないらしい。マティスは寝起きにクロッキー十枚程とか。「クロッキー」を検索してみた。

 まぁ、男女絡みヌードクロッキー公開サイトもあって「ヌードを描くのはスピリチュアルゆえ(マティスと同じようなことを言っている)、老人もクロッキー会参加で元気になりましょう」と呼びかけていた。そりゃ~最もだ。小生と同年輩ご婦人が、若い男性の勃起を目の当りにしたら描く手も震えようぞ。またヌードクロッキーが各所開催で驚いた。これは漫画・アニメ系を目指す若者が多いためだろう。大型書店の絵画コーナーには人物画のためのヌード集、男女絡み写真集がズラッと並んでいた。

 絵画系ブログの多いこと。それらネット巡りをしていたら、初心者のあたしは何をどう描いていいのか完全に迷ってしまった。絵はとにかく〝描く習慣を身に付ける〟ことが肝心らしい。とりあえず机にある箸置きを描いて〝描き初め〟にした。これは机上で彩色の際の絵筆置きに利用。今年は絵が少しでも上手く描けるようになりますように。


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お散歩スケッチ用具を整える [スケッチ・美術系]

kokeisuisai1_1.jpg 寒いが晴天なり。新宿御苑へ散歩と思った。今までは概ねカメラ+望遠レンズ持参だが、コレが次第に重くなった。歳だな。最近のコンデジ進化は著しく、ポケットカメラで600~1200ミリ望遠も可能とか。コンデジカメラに切り替えましょ、と思っていた。

 そんな折に絵を始めたから、今はカメラよりスケッチブックを携帯したくなった。公園で画架を立てるなんてことは恥ずかしくて出来ないから、ポケットからスケッチブックをちょいと取り出しての早描きがいい。最も小さいサイスのスケッチブックは「F0」とか。B6 よりやや大きい142×185㎝ほど。

 「F0」サイズを検索すれば、これにセットのように「携帯固形透明水彩」が絡んで来た。これまた調べればスマフォ程の大きさ(厚みはある)の12色セットあり。これに「水筆ペン」使用ならば筆洗容器・水なしでも彩色できるらしい。

 そこまで調べたら欲しくなった。新宿御苑散歩はやめて新宿世界堂まで歩いた。スケッチブックは「ヴィファールブック中目F0 S20W」を買った。あたしの冬用の小汚いジャンパーのポケットにギリギリ入った。

 次に携帯固形透明水彩絵具。チューブ式「ホルベイン」を使っているから、同メーカーの12色セットを入手。これであたしは自転車だろうがウォーキングだろうが、気が向けばいつでも右ポケットからスケッチブックを、左ポケットから固形水彩絵具が取り出せるようになった。

 後日、準備万端で新宿御苑へ行った。人が多かった。あたしには人前でスケッチするなんてこたぁ~、やはり出来なかった。絵よりまず先に〝図太い神経〟が必要らしい。絵の道は、遥か遠く厳しい。


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いつかは〝海〟のスケッチを~ [スケッチ・美術系]

umi3_1.jpg 小松崎茂の幾冊かを図書館より借りているので、「ゼロ戦」に続いて他に何かを模写してみようと思った。だが人殺しの戦車・戦闘機・軍艦などを描くのは気が進まない。そこで軍艦に描かれた〝海〟部分を模写してみようと思った。

 波は、昨年春に山東京伝『江戸生艶気蒲焼』原文(くずし字)・挿絵(浮世絵)の筆写をした時に、同じ筆ペンで葛飾北斎『神奈川沖浪裏』を模写したことがある。伊豆大島の磯沿いにロッジがあるから〝海・波〟は馴染んでいる。何時間眺めていても、飽きない不思議さがある。

 いずれは波主役のスケッチ(写真では何度も撮った)もするだろうから、小松崎茂の絵を参考に〝海・波〟の描き方にも慣れておこうと思った次第。最初は模写だったが、描いているうちに原画から離れて、勝手に荒れた海になって行った。(波の脈筋を捉えると海が描けるような気がした。今度船に乗ったら、その脈筋を素早いスケッチで捉えてみよう。)

 芝浦~大島間のジェット艇船窓から海を見ていると、こうした波間に海鳥が、時にトビウオが飛び交う光景を観ることができる。写真・動画は別にして、絶え間なく変化する(表情を変える)海・波のスケッチは〝描いても・描いても〟切りが無いだろう。


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芭蕉旅立つ千住にて小松崎展 [スケッチ・美術系]

komatuzaki2_1.jpg マティス関連書を読んでいた11月某日、「荒川ふるさと文化館」開催「小松崎茂展」を観に行った。上野京成駅から「千住大橋駅」下車。ここから隅田川を渡ると、そこは芭蕉旅立ちの地(奥の細道矢立初の碑あり)だった。「行春や鳥啼き魚の目に泪」。〝魚の泪〟はそれまで世話になった日本橋魚河岸の鯉屋「杉山杉風」の別れの泪と解釈したい。

 さて同展は小松崎茂の少年雑誌の口絵・挿絵、プラモデル箱絵など。それらは概ね原寸ゆえに、その緻密な描写を知ろうと思えば、顔を近づけての鑑賞になる。だが作品保護でえらく暗い照明。入念に筆触などを鑑賞したかったが叶わなかった。「観終わった後で購う図録でじっくり鑑賞」と思ったが、図録は全作品縮小掲載で目論見は外れた。

 帰宅後、図書館で改めて「ロマンとの遭遇~小松崎茂の世界」(図書刊行会)、「小松崎茂と昭和の絵師たち」(学研刊)、「SFメカニックファンタジー 小松崎茂の世界」(ラピュータ刊)を借りた。氏のプラモデル箱絵「零式艦上戦闘機ゼロ戦52型」を簡易模写。面相筆を動かしつつ、若かった頃を思い出した。

 小生はずっとフリーだが、会社員生活が2社計4年ある。最初の1社目にアクリル絵具でメカニカルイラストを描くフジノ君がいた。エンジン断面図や巨大タンカーなどカタログ用イラストを描いていた。2社目にカット絵のイノちゃんがいた。その後は多くのカメラマンと仕事をしたが、〝絵を描く仕事〟の人との付き合いはこの二人だけだった。彼らはどうしているかなぁと思った。もし彼らがこの零戦模写を見たら「ダメだよ、ゼロ戦はもっとシャープに描かなければ~」と叱責するに違いない。

 追記)戦争中に㈶機械化国防協会が編纂の雑誌「機械化」で戦闘機、戦艦、戦車などを描いていた小松崎茂は、昭和18年の第一回陸軍美術展に「ただ一撃」を出品。陸軍美術協会理事長から賞賛され、それを後年まで自慢していたとか。その理事長こそ、あの藤田嗣治だった。


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娘とリディアに看取られ84歳で没 [スケッチ・美術系]

kirie1_1.jpg<マティス・メモ11ラスト> ●1945年、75歳。「これから装飾をやる」と切り絵コラージュ「ジャズ」に専念。ピカソと共に当時のマティスを訪ねたフランソワーズ・ジローは、こう記している。「彼の滑るような指の動きと切り出される絵に息も出来なかった。凝縮と省略を特徴とする切り絵」。そしてリディアの秘書としての有能さに感心。

●マティスとリディアの関係はまさに一体。他画家らの羨望の的。すでにマティスは妻と最後に会ってから6年余も経ていた。●1947年、生涯最後の油彩画「青いテーブルのある赤い室内」「ザクロのある静物」「ヴェネチアン・レッドの背景とザクロのある静物」。

●この頃になって「フランスが無条件で誇れるのは芸術だけ」と、マティスを国宝級存在にする動き。●1947年、英国にピカソとマティス作品を貸し出す。サロン・ドトーヌはマティスを称える特別室を設置。●1949年、南フランス、コートダジュールのニースの北の山裾、ヴァンス村に礼拝堂造りに着手。ステンドグラスはパリで制作。●1951年、「ロザリオ礼拝堂」完成。●1954年11月3日、娘とリディアに看取られて84歳で没。

●リディアは15年前から用意していたスーツケースを持ってアトリエを去り、代わって妻アメリーがアトリエに入って遺品整理。●シミエの教会で告別式。リディアは呼ばれなかったとか。

 1954年と云えば昭和29年。マティス没の日に東宝「ゴジラ」公開。力道山の活躍でテレビ普及。そんなに昔のことではない。これにてマティスのお勉強はひとまず終わり。最後のカット絵は、車椅子で切り絵をするマティス写真を、万年筆でコピー紙に描いた。

  なお他に読みたい書は「マティス画家のノート」(みすず書院、6480円)、ジェームス・モーガン「マティスを追いかけて」(アスベクト刊、3024円)。後者は60歳を迎える初老夫妻(編集者から作家)が、家を売ってマティス足跡を旅するドキュメント。あたしには家を売ってまでマティスの旅をする程の気持ちはなく、これら本も古本屋で巡り合ったら買いましょ、という程度。晩年マティスの姿を想像すると、なぜか荷風さんの隠棲暮しの方がいいなぁ~と思ってしまった。うん、絵だって荷風さんが「断腸亭日乗」に時々描く程度の絵が描けたらそれでいい、とも思った。


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妻と娘がゲシュタポの手に安否なし [スケッチ・美術系]

musume2_1.jpg<マティス・メモ10> ●1939年、ヒトラー、ポーランド侵攻。フランスは英国に次いで宣戦布告。マティスはリディアに戻ってくれと懇願。裕福な老人画家と若く美しい女の二人暮し。リディアは屋根裏部屋の寝泊まりで一線を画す。

●ヒトラー、フランス侵入。フランス降伏。●戦時下にモデルを40回も使って「夢」を1年かけて完成。(かなり抽象っぽい絵で果たしてモデルが必要だったや?)●1941年、71歳、リヨンで結腸手術。昼夜交代の看護婦を雇い、新しいモデルを何人も雇う。静物画連作で「マグノリアのある静物」。ピカソは「マティスは魔術師だ。超自然の色彩ではないか」(赤い敷物、黄色の貝と花瓶と花、紫と緑の花瓶)●1943年、絵具も入手できず。

●1943年7月、連合軍がイタリアを支配下に。翌日、ドイツ軍がニースに侵入。娘マルグリットが共産党地下組織の密使として活躍。妻アメリーも地下組織から英国諜報部へ渡す報告書を作成。●1944年4月、娘と妻がゲシュタポ(ドイツ秘密国家警察)に逮捕される。マティスはボードレール「悪の華」挿絵を描く。8月24日、パリ解放。

●アメリーはフレンヌの刑務所で6カ月収監。娘マルグリットはレンヌで投獄され、家畜用トラックでドイツのラーフェンスブリュック強制収容所へ送られ、連合軍上陸情報を得んと死に追い込むほどに厳しい尋問を繰り返し受ける。10月初めに釈放。

●ピカソは共産党に入党していたことを公表し、再開されたサロン・ドートンヌはピカソを称賛する場になった。ピカソは政治的発言でさらに人気を高めたが、本物の苦しみをなめたマルグリットは覚めていたとか。●カット絵は、マティスが描いた若い頃の娘マルグリット(先妻の娘)の簡易模写。


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輪になって裸体踊れと軽さ増し [スケッチ・美術系]

dance1_1.jpg <マティス・メモ9> 飽きてきた(マティスも好きじゃなくなってきた)ので端折る。●1909年、パリ郊外イシーに移転。翌年「ジャズ」「音楽」出品。巨大キャンバスに「ダンス」●1911年「茄子のある室内」。後にモダニズム第一歩と言われる。●1912年、夫婦でモロッコへ。

●1913年、米国3大都市で個展。パリで不人気も米国では絶賛。(同年は大正2年、藤田嗣治渡仏)。●パリのアトリエに版画のプレス機導入。●ドイツがフランスに戦線布告。パリから外国人が消えた。イギリスも参戦。イシーのマティス家は陸軍本部として接収され、南仏コリウールへ。

●1915年、戦争画家として前線へ(どんな絵を描いたのだろうか。藤田嗣治はロンドンに避難)。●1916年末に休戦。●1918年「マティスとピカソ二人展」。●1919年、ニースへ。70代後半のルノアールを訪問。ルノアールは最後の力で「浴女たち」完成。マティスはロシアバレエ団の舞台・衣裳を担当。

●1920年、故郷の母死去。(●1922年、藤田嗣治「寝室の裸婦キキ」で一躍人気画家へ)●1923年、娘が結婚。次男はコルシカ島の娘と結婚するも2ヶ月で離婚。先方の父が銃を持ち、次男をNYに逃がす(後にNYの画商として成功)。●1925年(55歳)ドヌール勲章。●1927年、カーネギー国際展でグランプリ。

●1930年、タヒチへ。同年再びカーネギー賞審査のため渡米。ピカソを選出する。●1935年、65歳。24歳リディアをモデル・秘書として雇う。●1936年、パリで10年振り個展をするも〝ピカソの時代〟。「マティスは軽い、軽薄、退廃芸術の典型」などのレッテル。ドイツでもマティス作は退廃にて全美術館から追放。

●1938年、ニースに2部屋購入。ドイツはオーストリア併合しチェコを狙い出す。●妻の主張でリディアを解雇。リディア自殺未遂。●1939年。妻が別居契約書と所持品二等分手続き。 戦争あり、栄誉と不人気の上下動、子らの満足できぬ結婚、リディア解雇と妻の別居。まぁ波乱の30年で、心乱れ乱れたろうに裸婦を描き続けた。


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華麗なるマティスのモデル遍歴 [スケッチ・美術系]

model1_1.jpg<マティス・メモ8> マティスは妻も娘も裸体モデルにすれば、マティス家には常に家族同然で暮すモデルがいた。だが彼は常に妻の夫、子らの父だった。一方、ピカソは好きになれば抱きたい。結果妻二人・恋人五人。だが彼女らに全裸ポーズをとらせて描くなぁ~んてこたぁなかった。

●ピカソの恋人フランソワーズ・ジロー著「マティスとピカソ」には両巨匠のアニマ、アニムスを分析。マティスにはマザーコンプレックスがあったらしい。以下はマティスの主なモデル遍歴。ここから画集を見れば、制作年からどのモデルを描いたかがわかる。他にも〝何か〟が見えてくる。

●1910年頃、画家とモデル・メルソンの関係に、妻アメリー不快感で夫婦間に溝。妻最後の「マティス婦人の肖像」。●1916年、イタリア女性ロレッタ。阿吽の呼吸。描くこと50回。長男ジャンが彼女と結婚したいと言うも招集令状で結婚に至らず。●1919年、49歳の時のモデルは19歳アルノー。打てば響く知性あり。2年間、彼女を描き続ける。

●1921年、アンリエット・ダリカレールと出会う。ダンサーでヴァイオリンも弾き絵の才もあり。(1926年にアンデパンダン展出品で1点買上げ)。7年間続く。●1927年、17歳のリゼットがモデルに。●1935年から24歳のリディアを雇う。黒髪、青い眼、妻の付き人、マティスのモデル、秘書もこなした。

●1938年、リディアに嫉妬したか、妻の主張でリディア解雇。彼女は自殺も図るが一命を保つ。マティスが請うてリディア復帰。●1939年、妻が別居契約書作成。所持品二等分。●1954年11月3日、娘とリディアに看取られた84歳で没。

●リディアは15年前から用意してあったスーツケースを携えてアトリエを去り、その後に妻が入って遺品整理。他にマティスのモデル数知れず。全裸体モデルで、舐めるほど近づいて描いたマティス。彼の〝男〟はどうなっていたんだろう。あの小難しい顔は、内なる欲望を抑圧し続けたゆえでもあり、と思えてきた。小生はなんだかピカソの方が好きになってきた。

●カット絵はリディアを描いた「夢」の簡易模写。広角レンズっぽい微妙なデフォルメがいい。舐めるほど近寄って描いているゾ、「あぁ、舐めたい」とマティスが言っている。舐めりゃいいのにね。


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裸婦描き原初探りて明日を見ゆ [スケッチ・美術系]

model2_1.jpg<マティス・メモ7> セザンヌ、マティス、ピカソのトライアングルに絡む〝性〟の意を解明する隠居遊びです。

●そもそもセザンヌはなぜに「売春婦たち」(1871年頃)を描いたや。当時のパリは荒廃して淫らな性が氾濫。子供時分からの友人ゾラは、堕ちる女たちを書いたことから(永井荷風も最初はゾラに影響されていた)、セザンヌの関心も頷ける。だが女たちは虐げられ堕ちた後は反逆する、従属する女から雌豹となり、性を武器に攻撃に転ずる。オズオズと覗き見する男たち。そんな図を描けば当然ながらアカデミズム絵画への、キリスト教影響下の絵画への反逆になる。同作は高らかに絵画の革新・反逆の狼煙だったと推測したい。

●「売春婦たち」から35年後、今度はマティスが1906年のアンデパンダン展に、北アフリカから戻って描いた「青い裸婦」を出品。「極端に歪んで、驚くほど醜いく、不快で最低だ」と悪評。してやったり。彼はアフリカ美術注目で、女の原初的な性(出産・繁栄・母)の逞しさ・野生・生命力に気が付いた。アカデミズム絵画の女性像の裏側の真実をアピールして、絵画革新の道もここにありと訴えた。●彼はフォーヴィスム数年にして裸体へ舵を切った。「私が惹かれるのは静物でも風景でもなく人体です」。平たく言えば「女体宣言」。

●ピカソは、マティスと違って女にポーズをとらせた絵は描かなかった。だが、いい女がいれば抱きたい。結果、妻二人・恋人五人の修羅場で、女の怖さ・強さをイヤと云うほど知った。これまたアカデミズム絵画に描かれる女性像の裏を見た。伝統を拒否するならば遠近法も写実法も糞くらえ。かくしてセザンヌ「売春婦たち」を剽窃してキュビスムの狼煙を上げた。裸体ポーズを描かなかったピカソだが、死ぬまでエロスを描き続けた。

●これにて隠居遊びのセザンヌ「売春婦たち」、マティス「青い裸婦」、ピカソ「アヴィニョンの娘たち」のトライアングルの裏に秘められた意図解明を終わる。カット絵はマティスとモデル。こんなに近寄って描くなんて、どこか変、病気っぽいのです。(続く)


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セザンヌとマティスとピカソの関係や [スケッチ・美術系]

katateage2_1.jpg <マティス・メモ6> ●ピカソのキュビスム原点作「アヴィニョンの娘たち」(1907年)には、アフリカ美術の影響があって、彼のそこへの関心経緯に二説ある。

●まずマティスがアルジェリア旅行でアフリカ美術へ興味を持ち、スタイン家でピカソに会う時に小さなアフリカ彫刻を持参。するとピカソは、その彫刻が気に入って手放さなかった。もう一説は、マティスがアフリカ彫刻のことをドランに話し、ドランが熱をあげてピカソを民族博物館へ連れて行って、ピカソも夢中になった。

●いずれにせよピカソはアフリカ美術にヒントを得て「アヴィニョンの娘たち」を描いた。遠近法を無視して、立体を平面化して分解・再構成。キュビスムの意図は別にして、同作はマティス「青い裸婦~ビスクラの思い出」の横寝の女を縦にすれば同じポーズになる。

●また同作は、セザンヌ「売春婦たち」の女性ポーズにも似ていると言われる。「アヴィニョンの娘たち」のアヴィニョンは、バルセロナのアヴィニョン通り=売春通り。セザンヌ同作と無縁であろうはずもない。

●マティスが極貧時代に大枚を投じて購い、30年余も持っていたセザンヌ「3人の水浴の女たち」は、「売春婦たち」に端を発したシリーズで「水浴を覗く男達」(池田満寿夫はよく〝覗く男〟らを描いていた)を経た作品。ここからセザンヌ・マティス・ピカソのトライアングルが、見えない糸で繋がっていると推測される。

●マティスは彫刻「横たわる裸婦」を二度も作っている。最初は歪み切った裸婦。時を経て写実的な裸婦を作った。最晩年83歳の「青い裸婦Ⅱ」になると、模様化された感じ。セザンヌの水浴シリーズも晩年の「大水浴図」になると裸像群が自然に溶け込んでいる。

●カット絵は、マティス「青い裸婦~ビスクラの思い出」、ピカソ「アヴィニョンの娘たち」、マティス最晩年の「青い裸婦Ⅱ」の一部簡易模写。次はセザンヌ「売春婦たち」も加え、それら作品群の裏に秘められた謎を解いてみたい。(続く)


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世代越えマティスとピカソの不思議縁 [スケッチ・美術系]

bousi1_1.jpg<マティス・メモ5> ●ピカソのグループは当初〝フォーヴィスム〟を異質の思っていたそうな。●末期結核ながらマティス「裸体の男」などのモデルを務めたゴルベールが、病状悪化で自身が編纂の権威ある美術評論誌執筆が出来ず、若い助手アポリネール(後にローランサンの彼氏。詩「ミラボー橋」、小説「若きドン・ジュアンの冒険」)にマティスの画論を聞き取らせた。アポリネールはこれを卑劣にもライバル誌に発表して前衛美術評論家としてデビュー。(彼はちょっと狡い所がある奴らしく、ローランサン関連書を読んだ時も、そんな記述があったような) 経緯はどうあれ、これによって印象派に次ぐ逞しく激しい革新の波が渦巻くことになった。

●1906年、マティスはアルジェリアに約2週間の取材旅行からコルウールに戻って「青い裸婦、ビスクラの思い出」を描いた。アフリカ美術の影響で、その裸婦は野性味・生命力・逞しさが満ちていた。一方、ピカソ(26歳)もアフリカ美術の影響からキュビスムの原点になる「アヴィニョンの娘たち」(1907年夏)で注目の存在になる。

●スタイン家の夫妻(マイケルとサラ)がマティス作を蒐集し、スタイン兄妹(レオとガードルード)がピカソを応援。またマティスはロシアの繊維業界の雄シチューキンがパトロンになって生活一変。マティスはシチューキンを〝洗濯船〟に案内(1908年、マティス38歳)して「アヴィニョンの娘たち」を見せ、ピカソ作の蒐集も薦めた。かくしてマティス、ピカソ両雄の人気急上昇。

●マティスはモンパルナスの廃修道院に移住して、やっと家族一緒に暮らせるようになった。教室も設けて後輩を指導。だがすぐに自分がグループ・リーダーには向かぬ資質だと認識して教室を閉じることになる。リーダーになるには内省的過ぎたのだろう。彼の声に耳を傾ければ理論的・分析的で明晰なことを言っているのに気付くが、如何せん人を引っ張って行くパワーと魅力がなかった。比してピカソはヤンチャなガキ大将的資質だ。

●それでもマティスはピカソを応援し、若い画家らがサロンに入選し、作品が売れるように尽力した。マティスとピカソの違いについて「マティスは戦火の町で怯え育ち、〝家業を継がぬ・法律の勉強を途中放棄・10年経ても画家として眼が出ぬ〟と嘲笑を浴びてきた。一方ピカソは子供時代から称賛を浴びて育った」と分析される。40歳にならんとするマティスと20代半ばのピカソによる絵画革新のムーブメント。

●ここで両者の違いを自分なりに把握すべく、次回はマティス「青い裸婦、ビスクラの思い出」とピカソ「アヴィニョンの娘たち」から二人の不思議な関係を探ってみる(続く)。●カット絵はフォ―ヴの第一波、マティス「帽子の女(マティス婦人)」の一部簡易模写。


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野獣なら吠えてみようかマティスぞへ [スケッチ・美術系]

mado1_1.jpg<マティス・メモ4> ●1905年、マティス夫妻は南仏コリウール(スペインに隣接)へ。カラフルな果実、ピンクの家、漁師たちの生活。光と色が溢れていた。多数作品をパリに持ち帰った。伝統的手法と手を切った作品群。

●同年サロン・ドートンヌに「コリウールの開かれた窓」「帽子の女(マティス婦人)」そして「日本の着物」「散歩道」を出品。展示された第七室には他にドラン、マルケ、ルオー、ヴァラマンクらの作品。「野獣(フォーブ)の檻」と評され〝フォーヴィスム〟誕生。 

●「帽子の女」が500フランで売れた。点描が消え、よりゴーギャン風へ。これはコリウールにゴーギャン友人のダニエル・ド・モンフレがいて、彼の家でゴーギャン作品群を見たせいらしい。次に顔アップの「マティス婦人の肖像、緑の筋のある女」も大話題。

●1906年「生きる歓び」で点描のシニャックと決別。マティス個展がドリュエ画廊で開催。画商やコレクターが次々と誕生。画商ドリュエが近作まとめて2000フランで購入。ヴォラールが旧作まとめて2200フランで購入。後に経済支援とマティスに野心を与えるロシアの繊維業界の大物セルゲイ・イワノヴィッチも接近。スタイン家が「生きる歓び」を買い、スタイン兄妹を通じて〝洗濯船〟のピカソと知り合う。この時マティス36歳、ピカソ25歳。

●この時期のマティス急評価は、こう説明されている。「1905年:サロン・ドートンヌで人々は嘲りと笑い声を発し/1906年:敬意を払うようになり/1907年:畏敬の念をもって接した」。マティスの絵はコレクターが先を争って求め出す。同年セザンヌ死去。

 カット絵は「コリウールの開かれた窓」の簡易模写。この絵にはスーラの点描とゴーギャンの平塗りがミックスされている。影がない。実景を超えて光と色が溢れている。(続く)


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襲ひ来る事件や誹謗耐へに耐へ [スケッチ・美術系]

otoko1_1.jpg<マティス・メモ3> ●1902年、パリで10年を経ても画家として独立出来ぬ彼に、実家から月100フランの仕送りが絶えた。そして妻の実家パレイル家に大トラブル発生。妻の両親が仕えるアルベール(元司法大臣)が終身年金基金を持ち逃げ(当時のフランスを賑わせた「アルベール事件」)に巻き込まれ、マティスも両親擁護に奔走。

●披露困憊して実家のボアンで静養すれば、地元民は「父の商売を継がない。法律家の勉強を途中放棄。画家としても無能」とバカ扱い。マティスの頑なさ、プライベート侵害へ過剰反応、内省的など人から敬遠気味の印象は、これら辛い体験もあってのこと推測した。

●1903年、息子二人を故郷に残してパリへ。「セザンヌが正しければ、私も正しい」呪文を唱えるように呟きつつ渾身の絵画修行。●「アカデミー・カミロ」入学後、ややして理想教師に出会った。ロダンの助士を務めたブルーデン(代表作「弓をひくヘラクレス」)。彼の彫刻教室で「外見のリアリティではなく内面の感情の表現」の大切さ。「視覚的な単純化」を教えられた。彼の盟友で美術評論家ゴルベール(代表著作「線の倫理」)を裸体モデルに彫刻「奴隷」制作。ゴルベールは末期結核。マティスは死にゆく彼(1907年没)をモデルに3年間で油彩、素描100回余。モデルと画家の真剣勝負。

●1904年、アンデパンダン展に油彩画6点を出品。「卵の静物」が400フランで売れた。次第に画商が注目。同展主催の独立美術協会副会長にしてスーラと共に点描の新印象派画家ポール・シニャックと南仏サントロペで交流。彼の説く点描と、セザンヌの「思いのままの色彩で描く」の両路線に葛藤。だが同時期に携わったゴッホ展準備を通じて「点描」から解放される。独自の道を歩み出し、次第に前衛画家として注目を浴び出したのが35歳。

 カット絵は、死にゆく男をモデルにした「裸体の男―奴隷」の一部模写。マティスはすでに細部単純化を身に付けている。「マティス=女体」イメージだが、最初に取り組んだのが男性裸体だったとは。(続く)


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絵に賭ける夫支える健気妻 [スケッチ・美術系]

suiyoku2_1.jpg<マティス・メモ2> ●マティスはカミールと別れた直後に、23歳アメリー・パレイユに惚れた。前妻が痩身・優美・はかなげだったのに比し、アメリーは豊かな胸・快活さ・情熱的な南部トゥールーズ出身。●28歳で結婚(1898)。新婚旅行は、新妻が夫にターナー作品を見せたいとロンドンへ。そしてマルセイユから船でコルシカ島(イタリア半島付け根の西の海、フランス領)で5カ月。ここでマティスは色彩開花。55点を描く。印象派(後期)へ大きく舵を切って歩み出した。

●1899年、長男ジャン誕生。息子を新妻の故郷に預け、パリで新生活スタート。アメリーは帽子屋開業だが、マティスの絵が売れるはずもない。〝ヒモ〟状態だが、セザンヌ「水浴する三人の女」(1600フランで、ロダンの石膏胸像がおまけ付き)を買った。この絵はマティスが37年間も持ち続けた。「この絵が私を精神的に支えてくれた。私はこの絵から信念と忍耐力をもらった」。

●1900年、30歳で次男ピエール誕生。アメリーは夫に妻子を捨てた闇を見たのだろう、前妻との娘マルグリットを我が子として育てることを決めた。(多くの書がマルグリットをアメリーが産んだ子としている)。帽子屋と三人の子を抱えた妻の励みは〝夫が絵に専念〟。なんと健気な。

●最年長で「アカデミー・カミロ」入学。●1902年、静物画が130フランで売れた。先がちょっと見え始めた時にアメリーの実家に不幸が襲った。(続く)

 カット絵はセザンヌ「三人の浴女」模写。両側の木と地で三角形の構図。特徴は粗い平行筆触。底辺に三人の浴女。裸婦の粗い描写から、裸婦描写より構図主眼の習作だろうか。いや、一連の水浴図の当初は〝覗く男〟が描かれていたから「性」の何らかの意が含まれていようか。セザンヌは水浴図を50点も描き「大水浴図」に発展させている。さて、マティスはこの絵から何を得たか。解説文をいろいろ探せば「マティスはセザンヌの色彩の構築、その後に色彩の単純化、構図の平面化を学んだ」なる記述もあったが、小生の判断は資料を読み進んだ後にしたい。

 セザンヌは印象派から孤高のポスト印象派へ。そして1906年没で翌年「サロン・ドートンヌ」で回顧展が行われている。マティスはこの絵から精神論を言っているようでもあり、ならば同じく法律を勉強しながら絵画に転向した先輩として励みにしていたのじゃないかとも推測されるが~。(続く)


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師と妻子捨てて行かねば革新へ [スケッチ・美術系]

matissehatue1_1.jpg<マティス・メモ1> ●マティスは1869年大晦日、祖母の住む北フランスは織物の町カトーで生まれた。父はパリの百貨店勤めで、帽子屋で働く母と結婚。故郷近くのボアンで雑貨店経営。●1歳、ボアンにドイツ侵攻。●1880年、25歳の五姓田義松は渡仏し、翌年からルーブル美術館で模写開始。この時、マティスはまだ10歳。

●マティス17歳、パリの法律学校で学び、故郷で法律事務所で働くも満足せず。●1889年、徴兵検査不合格。本人は後に腸の病気と言っているが実際はヘルニアだったそうな。●1890年、20歳。1年間の療養中に母から油彩道具を貰う。油彩入門書と多色石版画を参考に最初の絵、題して「本のある静物」を描く。これを機に法律から画家志望。

●21歳、父の反対を説得してパリへ。最初の画塾に失望し、ギュスターヴ・モロー(幻想的作品が多い象徴主義の画家、60歳)の教室へ通う。●モンパルナスで友人と共同生活。帽子屋で働く19歳のモデル・カミーユ(カトリーヌ・ジョブロー)と所帯を持つ。師の勧めでルーブル美術館の古典作品を模写。●24歳、娘マルグリット誕生。翌年、5度目の挑戦で「エコール・デ・ボザール」(国立美術学校)入学。●1896年、国民美術家協会のサロンに5作品出品。「読書する女」が政府買上げ。画家として生きるメドを得る。

●だが、夏滞在のブルターニャ(フランス北西部の半島)の別荘主、ピーター・ラッセルから印象派の「色彩を最優先にし、感情に従って描く」を教えられる。ラッセルはパリの画塾でゴッホ、ロートレック、エミール・ベルナールらと同塾。ロダンのモデルをしていたマリアンヌと結婚していた。時流はすでにポスト印象派の時代。

 これで画風一変。象徴主義モローが怒り、妻も「やっと掴んだ実績(写実の)を捨てるのか」と呆れる。絵画の新たな流れを知ったら、もう元へは戻れない。師と妻子と別れ(捨て)、新たな絵画を模索し始めた。この時、27歳。

 カット絵は、マティス最初の絵「本のある静物」簡易模写。模写しつつ、私事だが小学生の頃に描いた「達磨ストーブ」の絵が、何かのコンクールに入賞し、本人知らぬ間に額装されて上野?かどこかに展示された事を思い出した。それで図に乗って〝画家になりたい〟などと思わずに、本当に良かったと振り返った。朧げながら多色のストーブ絵で、ちょっと印象派風だったような。あの絵は手許に戻らず、どこへ消えたのだろうか。


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裸体にも小難しいぞマティス顔 [スケッチ・美術系]

matisse1_1.jpg<マティス・メモ:まずはじめに> 藤田嗣治はマティスが建てたニースの「ロザリオ礼拝堂」を見て、自分も礼拝堂を建てようと思った。マティスの礼拝堂はステンドグラスが特徴で、藤田の「平和と聖母礼拝堂」には見事なフレスコ画が描かれている。

 マティスは礼拝堂完成から4年後に84歳で亡くなり、藤田は礼拝堂完成から2年後に81歳で亡くなった。マティスはモネより29歳後輩で、ピカソの12歳先輩、藤田の17歳先輩で、1869年12月31日生まれ。

 マティスより11歳後輩の熊倉守一は「ルオーの厚塗りが嫌いで、マティスも嫌いで、ピカソほどわかりやすい絵はない」と言ったとか。1歳違いのピカソとは資質が違うのにピカソの何がわかって、マティスの何が嫌いかは言っていない。寡黙はずるい。

 小生はマティスの絵を見て「いいなぁ」と思った。アンリ・マティスは果たしてどんな人物で、どんな絵を描いた画家なのだろうか。その絵は画集で見ることができるも、その絵の意や人物についてわからない。

 ならば〝安易〟を求めずに分厚い関連書さまざまを読んでみることにした。最初のカット絵はマティス似顔絵。その風貌は、白髭を蓄えた晩年の志賀直哉に似ている。同じく細菌学者パスツールに似ている。色彩鮮やかでエロチックな絵が多いから享楽的・楽天的・助平で下世話な顔がお似合いだろうに、なんでこんなに小難しい顔をしているのだろうか。まぁ、読みつつ私流箇条書きにまとめて行くに従って、その謎が解けるかもしれない。以下、参考にした関連書一覧です。

 460頁もの分厚い評伝、ヒラリー・スパーリング著『マティス~知られざる生涯』(訳本、2012年刊)、ジル・ネレ著「マティス」、「マティスとモデルたち」図録、フランソワーズ・ジロー「マティスとピカソ~芸術家の友情」、メアリー・トンプキンズ・ルイス「セザンヌ」訳本、フォルクマール・エッサ-ス「アンリ・マティス」訳本、ジェームズ・H・ルービン著「印象派」訳本、ネットPDFの大久保恭子「世紀の転換期におけるヌード」他。


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へたも絵のうち=熊谷守一(3) [スケッチ・美術系]

morikazu2_1.jpg 熊谷翁はどんな絵で人気を得たのだろう。今回は前々回に続き「裸婦」「ネコ」を水彩で簡易模写。こんな感じの絵に加え、書と墨絵も売れた。絵は赤い輪郭線をもって幾つかの平塗り色塊で構成。しかも小さい板に描かれ、これを画友らは「天狗(仙人)のおとし板」と言ったそうな。

 画集には、これら絵がいかに優れたデッサンに基づいているかや、輪郭線の狭間・境界について小難しく解説されているが、隠居の絵画趣味(の小生)にとっては、それほどでもない写実力と思った。美術学校前の数点は〝ちゃんと描いている〟が、以後は荒々しい筆跡のフォーヴィズム、キュビズム的油彩と、五姓田義松が遺した風景画ラフ(習作)ばかり。例えばピカソが十代で写実を征服し、その後の写実打破とは大きく違って、熊谷翁は端から細部を描くのが苦手、億劫、ものぐさだったように思えてならない。

 これら絵に至る前のクロッキーも画集にあって「無形なイメージを含む無数の線が次々に塗り潰されて残った線の研ぎ澄まされて~」なぁんて記されるが、小生の感想は普通か下手なクロッキーが、推敲されてまともな線が残されたと思ってしまう。(素人は平気でこんなことが言える。改めて素人っていいなぁです。でも墨画はいい。美術館のカラスの絵は思わず見入って動けなかった)

 「上手は先が見えているが、下手はどうなるかわからないスケールの大きさがある」と言ったとか。二科研究生には下手を奨励、下手に元気を与えたそうな。(これも素人ゆえ言える事だが、二科は芸能人が入選する例からも伺えるがてぇした絵は少ない)。昭和40年、85歳の時の座談会では自身の絵について「写真や医者みたいに細かく見る見方もあるが、自分が絵を描くときは、或る物の明るさがどれだけあるか、或は色でもみんな寄せ集めた色がこれだけあるという風に見ている」と説明。

 画集を見ると、そんな絵を描き始めたのが50代後半からで、最初は風景画や裸体画が多く、次第に身の回りの花や昆虫や猫や鳥を描くようになっている。「簡明な形の面白さ、モダンな色が魅力。時代や流行、世俗を超越」の評価で人気画家へ。

 そんな絵にふさわしいのが寡黙だろう。彼の著作も「聞き書き」。ゆえに彼の絵を論ずると〝愚〟になる。あたしも細部を描かなくなったら寡黙になろう。熊谷守一翁の絵についての隠居お勉強はここまで。


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へたも絵のうち=熊谷守一(2) [スケッチ・美術系]

kumagai3_1.jpg 熊谷守一は明治13年(1880)生まれ。おや、五姓田義松の渡仏年だ。藤田嗣治より6歳先輩。父は製糸工場経営から初代岐阜市長、衆議院議員になった孫六郎。守一は父晩年(45歳)の子。4歳で生母から離され、岐阜市の女工400名を有する製糸工場隣接の元旅館の屋敷へ。妾二人が同居で、彼女らに育てられる。大人等の愛憎や損得の醜い姿を見ながら育つ。

 明治33年に東京美術学校・西洋画科専科入学。黒田清輝や藤島武二らに習う。同期に大島を背景にルネッサンス風肉体美の男が漂流船に立つ「南風」を描いた和田三造、裸の漁師らが獲物を肩に行進する「海の幸」を描いた青木繁ら。熊谷や青木らは黒田清輝と彼の師コランがアカデズム系ゆえに評価せずも、黒田は彼らに自由に描かせたとか。

 熊谷2年の秋に父急逝、破産。熊谷の卒業制作は「自画像」。他は文展に出品拒否された「轢死」、入選の「蝋燭」。暗く重くパッとせず。卒業後は樺太調査隊帯同の絵記録係2年。故郷で日傭(ひよう=切り出した木を川で運ぶ仕事)など。35歳で東京に戻るが「二科」出品の他は描かず、働きもせず。余りの極貧を見かねた友人らの援助で暮す。

 42歳で結婚。次々に子を設けるも、絵を売って生活することを知らず。絵に値が付いて売買されるのも理解できない。極貧ながら多数野鳥を飼い、好きな機械修理やチェロを弾く。45歳、次男が亡くなった時に、思わず亡骸を前に絵筆を握った。感情が筆跡・色に溢れた傑作。

 同年、新宿遊郭裏に「二科研究所」ができ、友人らの計らいで〝主任〟。週一の指導報酬で家賃が払えるようになる。妻が実家から得たお金で現・美術館の地に家を建てるも家財道具なし。植物を育て、虫や鳥と遊ぶ日々。余りの無欲・極貧に、周囲から援助の輪が広がる。個展の手配、コレクター出現。薦められるままに書いた書や墨絵が大好評。帰国中の藤田嗣治とも共同展。58歳にして、初めて絵を売って生活することを覚えた。カット絵はチェロを弾く熊谷翁の写真より。次は彼の絵について。(続く)


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へたも絵のうち=熊谷守一(1) [スケッチ・美術系]

morikazu1_1.jpg にわか絵画趣味の小生は、熊谷守一翁を知らなかった。それは絵画系検索中にYouTube「レオナルド・フジタの晩年」に引っ掛かって、それを食い入るように観ていたら、それが終わると同時に熊谷守一の生前(94歳)映像に切り替わったんだ。

 そんな偶然で知った熊谷翁。調べれば池袋・要町近くに「豊島区立熊谷守一美術館」(豊島区千早町2丁目)があるとか。その辺りは東京大空襲まで「池袋モンパルナス」なるアトリエ村(佐伯祐三や中村彜らのは〝下落合アトリエ村〟)があって芸術家が集まっていたらしい。

 熊谷守一は明治13年の岐阜生まれで、同地に45年間在住。97歳没後は二女の画家・熊谷榧(かや)が私設美術館を設立。2007年に豊島区に守一作品153点を寄贈して現美術館になったそうな。まずは図書館で熊谷翁の画集など3冊を借り、自転車を駆って要小学校裏の同美術館に行った。画集で「尾長」を見たが、「そろそろ美術館はこの辺かしら」と思った数軒手前で〝オナガの群れ〟に遭遇した。

 まずは熊谷守一がどのような絵で有名になったかの、その一例に「尾長」と風景画「氏家桃林」を模写してみた。これらを幾作も模写してみれば、あたしも細部を気にせずに絵が描けるようになるかも知れないと思った。

 細部描写を放棄し、赤い輪郭線で区切った幾つかの色塊で平面構成した作品群。これらはベルナール、ゴーギャンらの「クロワゾニスム」と共通すると思えるがどうだろうか。さて写実・細部描写の域から脱しなかった五姓田義松が、これら絵をもって人気を博した画家がいたと知ったら、腰を抜かさんばかりに驚いたんじゃないかと思った。

 熊谷守一とはどんな人物で、どういう経緯でこういう絵に辿り着いたのだろう。同館で求めた翁の『へたも絵のうち』、大川公一著『無欲越え 熊谷守一評伝』、数冊の画集から〝細部を気にせぬ心〟をちょいと学んでみたいと思った。(続く)


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ピカソや熊谷翁になれなかった義松 [スケッチ・美術系]

moriiti1_1.jpg 五姓田義松展の図録には風景画〝習作〟とされたラフが幾作もあった。それらを見ていてふと閃いた。「彼はここから細部描写に入って行くが〝ものぐさ=熊谷翁〟は、ここから細部無視。幾つかのブロックにまとめた平面塗り構成で仕上げた」と。

 義松には細部を描き込む自信があって、熊谷翁は細部描写が面倒くさいか、書き込むことで曝け出される己が恥ずかしくて〝逃げた〟と思った。この推測が正しいかを検証するために、義松の習作(ラフ)から熊谷守一だったらこう仕上げると模写図を描いてみた。

 これをかかぁに見せると「あらっ、この単純な絵の方がいいわ」と言った。風景画の描き方がこれで良いのなら〝楽〟である。だが、実際はそう単純ではないだろう。ここで若くして写実を極めたピカソの場合も考えてみた。「ピカソ石版展」図版に「二人の裸婦」や「闘牛」が写実から次第に〝飛んでいるピカソ〟になる過程がリトグラフに収められていた。「闘牛」全10点のなか3点を模写。

picasso1_1_1.jpg 最初の写実風の牛から、各支点を結ぶ線が生まれて抽象化され、最後の10作目では一筆書きのような線画になった。同図録解説によると「ピカソはこうして作品を仕上げるのではなく、これら過程は想像力の展開ゆえ〝完成作〟はない。最後の線画は滋養を吸い取られた形骸」だろうと記されていた。これがピカソの〝描くことが生きること〟の意なり。

 これまたよく言われることだが「ピカソは写実的に描くことを十代で征服し(義松と同じ)、後は出来上がったものを次々に破壊する宿命になった」。義松は写実力を得た後の進化・破壊・創造を放棄したために自らの才を朽ちらせてしまったのだろうと考えられる。

 義松が写実からの進化に挑戦していれば、ひょっとして日本の明治にピカソが出現したかもしれない。以上、隠居のてなぐさみ美術のたわごとでした。これにて五姓田義松を終え、次に熊谷守一翁へ移る。


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義松の風景画を模写して [スケッチ・美術系]

fukemosya2_1.jpg 五姓田義松の多数風景画から17歳・明治5年作「横浜根岸相沢村」(10.7×26.2㎝)を簡易模写。風景スケッチのコツが掴めるかもしれないと、チマチマと筆を動かした。それを(左)かかぁに見せれば「あら、いいじゃないの」と言った。

 だが隠す必要もないから告白すれば、風景スケッチになると決まって困惑する。どう描けばいいのかわからない。「水彩画=風景スケッチ」イメージがある。初心者向け水彩教本は概ね風景画だが、「いいなぁ」と思う絵には出会わない。あたしは絵の初心者だが、すでに多数画家の風景画を見ている。

 見たまま細かく正確に描けば写真に近づく。写真を超えた美しいアニメ背景もあり、風景写真にデジタル処理の絵もある。広告向きのイラスト風の風景画。写実力を磨けば超写実画もあろう。いや、短い筆触で印象派のように、または立体を放棄し平面的に描こうか。水平線や遠近法からも解放されて抽象画風に描こうか。いや、そもそも公衆の場に画架を立てるなんぞ恥ずかしい行為があたしに出来るワケもない。

 一方、厳しい自然に分け入って自然の神秘・一瞬の美を求める写真家もいる。月日を要し動物生態を撮る写真家もいる。今や世界の観光写真も溢れ満ちている。写真ではなく〝風景を描く〟ってなんだろう。

 「なにも描かない白が最も美しいんですよ。人間は愚かだから何かを描きたがる」と言ったのは97歳の熊谷守一翁らしい。彼が「スケッチ旅行」でものにする絵は、細部を気にせずに括った数色の平塗り構成で、マティスの風景画にも通じて、これまた〝いい味〟だから、絵を描き始めた隠居の頭はますますこんがらがってしまう。


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義松はなぜ忘れ去られたか? [スケッチ・美術系]

yosimatu7_1.jpg 五姓田義松はワーグマンに6年間師事し、明治4年・16歳で独立。当時の油彩材は高価で、主に鉛筆と水彩で洋画を習得。だがそれらとて輸入品。前回と同じく図録解説に私見を挟めば「日本初の鉛筆工場」が新宿御苑脇にあったことも付け加えたい。

 信州高遠藩主・内藤家屋敷(新宿御苑)の玉藻池と現・内藤町の間に水が流れていた。江戸市中通水に余った玉川上水を流す渋谷川。そこに米搗き水車が四つ。明治20年に「眞崎仁六」が水車一つを借りて日本初の鉛筆工場を作った。大正5年に彼は三菱鉛筆に迎えられ、そこが同社創業の地。そう記された絵入り「鉛筆の碑」が内藤神社脇に人知れず建っている。(下のカット絵参照)

 話を戻す。図録解説には水彩絵具を自作したとある。その詳細も気になるが、義松が洋画習得に心血を注いだ「鉛筆画・水彩画」は他洋画家より優れ、かつ風景画には印象派を知るよしもないが水面の光の揺らぎまで描かれていると説明されている。

 明治10年(22歳)、第1回内国勧業博覧会で洋画家の最高位受賞。翌年に明治天皇の北陸・東海道御巡幸に供奉。23歳で宮内省より依頼の孝明天皇(12年前に崩御)の肖像画を完成(京都に遺された肖像画を参考に、洋紙で裏打ちされた和紙に水彩画)。昭憲皇后肖像画(油彩)も完成。その2年後に高橋由一が例の〝ミカドの肖像=明治天皇〟を描く。

 義松の渡仏は明治13年(1880)25歳。翌年にサロン入選。後に日本洋画界を政治的にもリードする黒田清輝の渡仏はその4年後。彼の「読書」がパリのサロンに入選は、義松入選から10年も後のこと。

enpitukojyo1_1.jpg 義松の渡仏、サロン入選がいかに早かったか。だが西洋絵画の革新はもっと早かった。義松渡仏時に、ドガはもう〝踊り子〟を描いていて、6年前の1874年に印象派第1回展。黒田清輝が帰国して東京美術学校・西洋画科教授になった頃には、モネは早や晩年だった。

 義松は日本で身に付けた洋画をもって本場に挑戦した。その結果、印象派の流れに乗れなかったことで、帰国後は次第に忘れ去られたらしい。では黒田清輝が新しい絵画を学んで帰国したかと言えばそうでもない。彼が師事したコラン先生も伝統的アカデミズムの画家。黒田の代表作「湖畔」はアカデミズムに印象派要素少々の感。

 明治画壇をリードするには、黒田清輝が有していた〝柔軟さ〟と〝政治的気質〟が必要だったような気がしないでもない。似顔絵カットはチラシや図録に掲載「五姓田義松の白黒写真」(帰国後)から勝手着色。ニ枚目に描き過ぎて微妙に似ていないが、どこか頑な感じは出せたか。(続く)


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横浜「五姓田義松展」へ [スケッチ・美術系]

yosimatutiti1_1.jpg テレビ「日曜美術館」で知った神奈川県立歴史博物館「没後100年 五姓田義松~最後の天才」展。図録発売が遅れて10月23日以後とかで、それを待って出かけた。

 最寄り駅「東新宿」(副都心線)に乗れば、東急東横線~みなとみらい線「馬車道」まで直通。同駅から地上へ出れば目の前が「神奈川県立歴史博物館」だった。その旧館が明治37年建立の横浜正金銀行本店。思わず「おぉ、荷風さんの正金銀行じゃないか」と呟いてしまった。永井荷風が同銀行ニューヨーク支店で働き出したのが明治38年。そこからフランス・リヨン支店勤務になった。

 にわか絵画趣味の小生は、学芸員の説明会があれば聴講する。説明は五姓田義松の経歴から始まった。父・弥平治は紀州藩士の子として江戸で生まれ、幕末の状況判断で町絵師になった。初代五姓田芳柳。彼は横浜開港で洋風に似た作風を身に付け、息子を口説いて横浜在住の英国画家ワーグマンの元に入門させた。その時、慶応元年で義松10歳。

 翌年に日本洋画の祖・高橋由一が37歳で入門。明治になると義松は横浜に移住し、絵の修行を本格化。幕末・明治初期の油彩材は輸入品ゆえ、まずは鉛筆と水彩で洋画の勉強。16歳で独立すると、風景画や風俗画を描いて居留地の西洋人に売って一家を養ったとか。時は明治4年頃。彼の鉛筆デッサンを見れば、現・画学生らが当然のように駆使するクロスハッキングが自在に使われ、立体・陰影が描き出されている。

 同展では、義松が遺した膨大な「鉛筆デッサン+水彩』作品が展示されていて、図録はそれらを全収録。水彩で絵を描き始めた小生には理想の教科書・お手本になった。義松は作画中の父の姿を多数スケッチしている。まずはその一枚を模写。当時の絵師はこんな格好で絵を描いていたんですねぇ。(続く)

 ★神奈川県博開館50周年記念プロジェクト 千葉様 コメント返信がケラれて使えませんので、ここで返信です。まずは素敵だった展覧会「五姓田義松展」をありがとうございました。さて、こんなブログがお役に立てればどうぞご自由に使って下さいませ。当方の郵便番号は<000-0000>です。50周年企画頑張って下さい。楽しみにしています。


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