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挿絵をクロッキー帖から昇格? [スケッチ・美術系]

sketchbook2_1.jpg ブログ挿絵を、マルマン「クロッキー帖」に描き続けて2冊目が残り僅か。次の「クロッキー帖」を用意すべく世界堂へ行った。

 同じのを1冊買った後に、クロッキー帖より厚く、画用紙より薄いB5サイズ100枚綴りのマルマン「sketch 100sheets B5 soho501 」を見つけた。従来クロッキー帖はコピー紙ほどの薄さで〝淡彩〟と云えども、紙は波打った。

 最近では新宿御苑スケッチ、船の絵などは、紙は嵐に遭ったかのように波打った。それでも「クロッキー帖」に固執は〝挿絵=絵日記の絵〟ゆえ〝1点1枚もの〟ではなく〝綴りもの〟が相応しいと思うから。

 同時に、目下は紙が水彩を吸っても波打たぬ程度の〝アッサリ淡彩〟、つまり〝薄い紙でも波立たぬほどの淡彩〟が目標。だが幾ら何でもコピー紙程度のクロッキー帖に水彩はなかろう、そんな紙では水彩が紙に染み込む味も、滲みの味も出ないだろう~という指摘もあって、少し気にしていたんです。

 そこで見付けたのが、このマルマン「sketch 100 sheets B5 soho501」。クロッキー帖と同じ100枚綴りも気に入った。ネットの商品評を見れば「このスケッチブックで水彩は無理」なぁ~んて投稿もあるが「てやんでぇ~、こちとら、今までクロッキー帖で水彩をやって来たんだ。人それぞれ、余計なことを記すな」である。

 さて、ブログ挿絵を従来通りのクロッキー帖で描き続けるか、新しいスケッチ帖に切り替えるか思案中です。

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モディリアーニの首、永井龍雲 [スケッチ・美術系]

ryuun1_1.jpg 細く長い首ならばモディリアーニだと検索すれば、YouTube『モジリアーニの絵のようなシュールな女の存在』がひっかかった。永井龍雲のアルバム『カトレア』(1994)収録曲。オフィシャルかファンが作ったかはわからぬが、モディリアーニの絵が次々に入れ替わって、あの龍雲の伸びやかな歌声が流れていた。

 永井龍雲のデビュー時は「ポニーキャニオン」で、小生は同社プロモーションペーパーの編集・執筆をしていたから、彼の原稿を随分と書いた。彼の出身地・博多まで取材に行ったとも記憶する。

 デビュー曲は『想い』で21歳か。小生30代半ば。彼のオフィシャルサイトを拝見したら、ちょっといい彼のエッセーが掲載されていたので、以下、簡単に紹介する。

 海外の大学に留学中の娘2人が夏の帰省中(龍雲は福岡出身も沖縄在住)。日本状況に疎い彼女らに、彼はテレビを観つつ「この首相を守るためにみんなで苦しい嘘をついているんだよ」と説明。そして留学先へ戻る彼女らを成田まで見送る。

 まず那覇空港で〝良くない人〟が、前沖縄知事の県民葬出席で来沖の混雑に遭遇。長女がiPhoneでその人を撮ろうと前に出たら、握手の手が差し出されて思わず「こんにちは」と握手。それを喜ぶ娘の姿に「邪心なく素直な良い子に育ってくれた我が子よ」と彼は記す。そして成田へ。それまではしゃいでいたが、ゲートに入る瞬間に三人の眼に別れの涙。「こんな親子の夏はいつまで続くのだろうか」と締め括っていた。

 小生が知っている龍雲は20代前半で「あの龍雲が大学生の二人の娘の、いいお父さんをしている」、「おぉ、今年でデビュー40周年」かとしばし感慨。写真を見ればデビュー当初のアフロヘアではないも、あの頃に音楽評論家・三橋一夫さんからいただい原稿に「(あの声は)神様からの授かり物です」と記されていた喉は、今も健在だった。「首の構造・筋肉のお勉強~細く長い首~モディリアーニ~永井龍雲」と辿り着いたお話でした。

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首美人?首上手の絵描き? [スケッチ・美術系]

kubiiroiro1_1.jpg 首の骨格・筋肉お勉強後に、若い女性の首を幾つか描いてみた。まぁ、難しい!と再認識した。男はさらに筋肉質で甲状軟骨(喉仏・アダムのリンゴ)も逞しく突き出ていよう。

 眠れぬ夜にテレビを観たら、所ジョージの喉仏が大きく飛び出てい、彼のおしゃべりに従って忙しく上下する様に釘づけになった。桑田佳祐の喉仏はそんなに飛び出してはいなかった。さて子供らの首は? 爺婆の首はやはり皺だらけなのだろうか? 興味は次々に膨らんで行く。

 ここに描いた絵では「肩甲舌骨筋」も頸静脈や首動脈も確認できなかった。また多くの縦筋は「広頸筋」らしい。いずれにせよ肥った方・痩せた方・首の短い方・長い方。細い方・太く短かければ猪首で、鍛錬された屈強な首もある。それぞれに胸鎖乳突筋をはじめ鎖骨切痕、頸切痕などの見え方が違ってこよう。

 ついでに〝首美人〟と検索したらgooランキング「スラリと長い首が美しい!有名人ランキング」てぇのがヒットして1位は菜々緒、2位は杏、3位はダルビッシュ有とか。ホントかいなぁと思った。

 浮世絵は胸鎖乳突筋など細部省略で、それがいいように感じた。漫画も首の筋肉・喉仏などをしっかり描き込んだ作もあったが、ちょっと煩いと思った。首の描写は細部に拘ると、それが〝首枷〟にもなるらしい。日本の〝首〟については言わぬが華だろう。

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首〝相〟が不安定 [スケッチ・美術系]

kubikouzou1_1.jpg 人物を繰り返し描くも、恥ずかしながら〝首ってどんな構造なんだろう〟と思っていた。手足は自分で観ることも容易だが、自分で自分の〝首〟を観ることは叶わない。爺さんゆえ、自分のツラを鏡で観るのは髯を剃る時ぐらい。大げさに言えば、手前の顔がどんなツラなのかも知らない。

 男なのに自分の顔をしげしげと観るのは〝ナルシスト・芸人・自画像を描く画家・鏡を観る商売の方々〟だろうか。と思っていたら3歳の孫が「スマホ〝自撮り〟」を当然と思っているのに驚いた。その意では〝スマホ世代=従来世代より自分の顔を最も知っている世代〟なのかも知れない。

 前段はこのくらいにして「首の骨格・筋肉」について無知で、遅まきながら初お勉強。フ~ン、首のあの大きな筋は「胸鎖乳突筋(胸骨と鎖骨についている)で、首下の小さな凹部は「頸切痕」で、左右鎖骨内側の凹部は「鎖骨切痕」などを初めて知った。

 かくして首を少しは上手に描けるようになりそうだが、日本の首相は大統領選と違って国民が直接選べないから〝おぼっちゃま〟が成ったりする。〝お坊ちゃま育ち〟はややもすれば「見栄っ張り・エエ格好しい・嘘もつく・特権意識・上から目線・考えの偏狭・性格に幼稚性」が指摘されるそうな。そんなのに、いいようにやられたら、たまったものじゃない。

 隠居や主婦は昼間の国会中継などを観て〝人となり〟を感じるが、働き盛りの方々はテレビを観る時間も少なく、気になるのは〝経済〟だろうから、なかなか化けの皮が剥がれなかった。やっとここに来て信用できぬ人物だとわかってきたらしい。なぜこんなことを記すかと云えば、絵を描き始めて最初に描いた似顔絵が「2015年9月」(安全保障関連法・可決)のその人だったんです。その時は〝頸切痕〟なんて物騒な名は知らなかった。

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円形信号機から若き日々を [スケッチ・美術系]

nisigutidigi_1.jpg さらに苦手の高層ビル街へ。新宿警察署近くの「新宿アイランド」前にLOVEの赤文字オブジェ。道路反対側は「新宿三井ビル」(1Fにキヤノン修理サービスあり。先日も立ち上らぬストロボ修理が無料だった)

 その十字路が「新宿警察署裏交差点」で珍しい〝円形信号機〟が架ってい、それを描いてみた。なんだか〝塗り絵〟のようになってしまったが、苦手のビル街を描いたことで、苦手意識が薄らいできたような気がした。

 描き終わって、この円形信号機(サインリング)が「GKデザイン」作と知った。GKグループ創業者は栄久庵憲治さん(2015年没)。工業デザイン草分けの偉い方だが、実は氏は小生が若い時分に数年所属の「ヘラ鮒底釣り会・喜楽会」会長だった。

 当時、上井草駅近くに「釣り堀・喜楽沼」あり。何故そこへ、どう行ったかも思い出せないが、釣りを見学していて誘われたのだろう、「喜楽会」へ入会した。

 月例会後に、帰り道が同方向だったかで栄久庵さん、老哲学者、絵描きさん他のメンバーで喫茶店に立ち寄ってしばし談笑が恒例。その談笑が釣りより愉しかったのを覚えている。栄久庵さんはヤマハのバイクもデザインしていて、当時の小生はヤマハ音楽振興会の仕事をしていた。

 当時は仕事一途だったが、このヘラ鮒釣りを機に、子供時分の釣りを、高2からの山岳会(東京白陵会)活動を思い出して、一気に野外遊びに目覚めた。遊びのためにバイク、自動車免許を取得。ランクルにある日はトライアル競技バイクを積み、また海釣りやダイビング機材を載せて走り回るようになった。そんな事も思い出して~(苦手の風景スケッチ克服記6で完とします)

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ツナギを購った萬年屋を描く [スケッチ・美術系]

mannenya3_1.jpg 新宿御苑を出て自転車に跨れば「島の作業ツナギがボロボロで、新ツナギ購入」を思い出し「萬年屋」へ向かった。新宿南口からワシントンホテル前を通って角筈交差点際の黄色ビルへ。

 店頭にツナギが吊るされ〝格安札〟。1階奥壁に3180円の各色ツナギが並んでいた。腰に伸縮自在の蛇腹折り付き。ポケットにあった数千円で買える価格ゆえ、そのブルー色に即決。

 店員が親切で「2階も見て下さい。その上でコレが良いならばMとLの試着をして下さい」。ズボンの上から着ることが多いのでLを購入。店のロゴ、亀のイラスト入りタオルをくれた。

 同ビルは人目を惹く黄色ペイントに亀のイラストが描かれていた。左右ビルを省略し、手前に街路樹と黒塗り高級車を配した。初めて自動車(3台も)を描いた。満足できる絵ではないも〝苦手〟を描いたことで〝よし〟としましょ。

 ネットで水彩画巡りをすれば、本格水彩画に写実派、濡れた(水気たっぷり)抒情派、人物中心、街中心、風景中心など実に多彩多岐。さらに「線と淡彩」、「線画中心」などの描き方もあって、それぞれがグループ(指導者と生徒たち)が形成されている。小生は群れるのが嫌いゆえ、あくまでも〝自己流〟探しです。

 次は最も不得意、描きたくもない高層ビル街の真ん中へ行ってみた。(苦手の風景スケッチ克服記5) 

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カップルを〝さっぱり描き〟 [スケッチ・美術系]

couple1_1.jpg 描き込み過ぎた台湾閣を大反省し、再びプラタナス並木に戻ってベンチに座るカップルを超省略で描いてみた。

 右上に広重風景版画を意識して、プラタナスの葉を大きくデフォルメかつ白スペース風に残した。葉の繁みもプラタナスとわかる描き方で簡略。彩色もサッと幾筆。

 ウム、ちょっと要領がわかってきたぞ。背後から覗き込んできた西洋人が「オォ、ジャパニーズ〝サッパリ〟ネ」と言った。(それは嘘。先日のテレビで建築家・隈研吾と日本修業を経て米国で日本食レストランを成功させたオーナーシェフが対談。二人が〝さっぱり〟コンセプトを話し合っていた)

 〝サッパリ〟の要領を覚えた次は、さらに苦手の建造物(街)を描くことにも挑戦したくなってきた。(苦手の風景スケッチ克服記4)

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台湾閣を描く。写実より省略を [スケッチ・美術系]

goryoutei15_1.jpg 新宿御苑3作目は御苑スケッチの定番、旧御涼亭(台湾閣)。この日もどこかの〝教室〟の年配者らが並び坐ってスケッチをしていた。彩色仕上げまでするのか、蚊の対策は万全か。

 野外スケッチは椅子が肝心だ。身体の安定をもって画用紙、ペンの走りも安定する。小生も鳥撮り用にコールマンの折り畳み傘状になる携帯椅子を持っているが、公衆の場(人前)で椅子に座って絵を描く勇気がない。風景画苦手には景色観察は遠視で、手元は近視で、その遠近調整が少々辛いことも関係している。

 ここは御託を並べても埒はあかない。無理して描き始めれば、風景を〝写す〟ことに己を見失って描き込み過ぎた。小生のような初心者でも、ペン・筆を持てば描けもしないのに、見た通り(写実)に描こうとし、その結果〝無残なお目汚し〟になってしまう。

 人は何故、細部を描こうとするのだろうか。本能や? ゴッホらジャポニズムの西洋画家らは、浮世絵の大胆な省略(デフォルメ)に胆を潰し魅了されたらしい。

 西洋画は〝見るまえに跳べ〟の実存主義的なところがある。その引き換えに一つづつの筆触に責任を負う。比して水彩画は〝描く前に考えろ〟だ。構図やテーマを、白をどう残すか、どう省略し、どんな線で、どう彩色するかなどを描く前にしっかりと頭の中でデザインしてから描き始める。

 細部を描こうとする性癖が本能ならば、ここは浮世絵や水墨画でも描く〝禅的〟な気持ちを持って、思い切った省略(抽象に近いほど)の覚悟が必要だろう。次はこの辺に留意して描いてみることにした。(苦手の風景スケッチ克服記3)

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プラタナス並木を描く [スケッチ・美術系]

platanus1_1.jpg 最初に描いたのは日本最古のプラタナス巨木だが、次に大木戸門方向の「プラタナス並木」を描いた。ベンチに座ると、並木の陰と陽が交互に続くのが面白いと思った。

 昔、ここのプラタナスの穴にワカケホンセイインコが出入りしていたのを見たことがある。

 プラタナス並木と云えば『鈴懸の径』。立教大キャンパスの〝鈴懸の並木〟から佐伯孝夫が作詞で灰田勝彦作曲。あたしは4ビート・アレンジの鈴木章治のクラリネット、平岡精二のヴィヴラフォンが好きだ。

 御苑のプラタナス並木の秋の風情もいい。プラタナスの大きな落葉が、ベンチを埋めるかのように降り積もる。

 昔、某有名写真家が某のジャケット写真をここで撮った。〝早撮り〟の彼のこと、苑の許可なしでサッと撮ったらしいが、子供時分から御苑を知っている者には〝あぁ、この写真の木はあの木だなぁ〟とわかる。そう指摘すると彼は頭を抱えた。某の名は言えぬ。

 そんな鳥や歌や写真家のことなどを思い出しつつ、この絵を描いた。途中で投げ出そうかと思ったが、最初に描いたベンチの板の線(角度)が良かったので最後まで頑張れた。さて、3枚目はどこで描こうか。(苦手の風景スケッチ克服記2)

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新宿御苑2度目のスケッチ [スケッチ・美術系]

taijyu3_1.jpg 2年前の春、暇つぶしに新宿御苑で初スケッチ。「うひゃぁ~、描けねぇ」で、ムキになって始めた水彩画。人物を描くのは好きになったが、風景画は相変わらず苦手。2年振りにクロッキー帖持参で御苑へ行った。

 これまでも幾度かスケッチブックを持参で御苑に行ったが、風景画は描かずしまい。「今度こそ」。新宿門を入ってすぐ右の巨木(明治20年頃に移植の日本最古のプラタナス=モミジバスズカケノキ)を前に、藪を背にしたベンチ(後ろから覗かれない)に座って描き出した。

 向こうに白シャツの男が座り込んで紫陽花を描いていた。鉛筆でアタリを取り、ペンで描き始めて数分か、ブ~ンと蚊が手に止まった。払い避け、まくり上げていた袖を手首まで伸ばす。再びブ~ン、チクッ。

 虫よけ剤を不携帯。最初はヤブ蚊くらいに思っていたが、痒くなるに従って、ひょっとしてネッタイシマカ、ヒトスジシマカだろうか。デングウィルス感染かと思ったら集中力が切れた。

 彩色せずも、せめてペンだけはと頑張ったが「いやぁ、参った・参った」。次のスケッチ場を探しながら、もしもデング熱ならば潜伏期間2~14日後に高熱かぁ~とつぶやきつつ、次は大木戸門方面のプラタナス並木へ向かった。(苦手の風景スケッチ克服記1)

 ★安倍内閣の暴挙止まらず。蛇蝎かの嫌悪感を覚えるあの顔が、テレビに映る度にチャンネルを変えてきた。チャンネルを変えれば〝御用新聞系チャンネル〟だったりで、テレビから離れる日々。風景スケッチの苦手は努力すれば克服できようが、議会無視で次から次へ憲法を変えて行くヤツラの罪は計り知れぬ。〝地獄に堕ちろ〟と記せば、戦前ならば即〝憲兵〟が飛んで来ただろう。チクッ、チクッ。毒がまわって暗黒の大日本帝国時代が甦る。 

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劉生7:松本清張『岸田劉生晩景』 [スケッチ・美術系]

ryuseiend1_1.jpg 松本清張『岸田隆盛晩景』は、岸田麗子『父岸田劉生』が記す「父の研究は鵠沼時代までの画業が多く、京都鎌倉時代の研究は少ない」の指摘から書き出すノンフィクション。まず同時期の研究が少ないのは、見るべき作品がない点と、劉生日記が途切れていることだろうと日記空白時期の劉生像を探りたいと記す。

 京都移住は大正12年10月。新居が落ち着くと、劉生は古美術蒐集にのめり込む。彼の東洋画観を、彼の随筆集から読んでみる。

 ~東洋の美術を見た目で西洋美術を見ると「作られしもの」の感がする。東洋画の美的要素は意思的ではなく自然的・無意識的な深さがある。渋さ、苦さもある。比して西洋画は人為的で騒々しく甘味もある。東洋画には「間抜けさ=深い稚拙感=現実味の拒否・欠如=写実の欠如」が「仙・気韻・真髄」の感を生み出している。

 かくして劉生は東洋画、肉筆浮世絵のいい作があれば、金がなくても「江賀海鯛(絵が買いたい)」先生で、借金も返せない。絵を売りたいが京都にファンもパトロンも少ない。

 大正14年3月、我儘が嫌われて春陽会脱退。旧友の木村荘八、中川一政らは同会に留まった。淋しい。友人の質も変わって酒席通いが始まった。茶屋遊びのお相手は祇園の花菊。当時の日記「昨夜また茶屋へいってしまった。(中略)別に女と深入りする訳ではなく酒をのんでさわぐだけだが自分にはどうもやはり女を弄んだような感じがして罪の感がのこり~」

 だが元クリスチャンの劉生は隠遁者・荷風のように、アナキスト・大杉栄のように、エロス追及の池田満寿夫のように、ピカソのようには性を奔放に愉しめない。いや、手も握れないのだ。デカダンス、退廃美の理解は頭だけ。

 木村荘八は「内心の謎=追及心」が失せて制作面に情熱を失ったと記し、清張は武者小路が記す「家庭の暗い事情」や、麗子が記す「母は女盛りを美しく飾って、取り巻きの若い連中と京の名所旧跡巡りで楽しんでいた」から夫婦間に〝秘められた疑惑〟があったのではと彼らしい推測もする。

 大正15年、鎌倉に移住も酒毒消えず。今度は新橋料亭「幸楽」に流連(いつづけ)から、三流処の茶屋に落ちるも、どこも迷惑顔だ。

 昭和3年秋、満鉄招待で大連へ。画会や肖像画で金を得てフランスへと思うもままならず。大連からの帰路に山口県徳山へ。ここで体調を崩して入院。昭和4年12月死亡。39歳だった。

 清張は最終3頁でこうまとめていた。~ゴッホらの〝模倣の天才〟から写実神秘派へ。そして肉筆浮世絵、唐画の先人画家らの〝形式の模倣の旅〟を続けた。かれの〝リアリズムの手〟が新たな精神の獲得の邪魔をした。エコール・ド・パリが画壇の主流で、それら時代の波と闘ったことで批評家、コレクターから背を向けられた。彼はその先の自己の芸術が発見できぬ煩悩で耽溺生活に逃げ込んだ未完成の画家だった。

 清張、通り一遍の結論だな。清張もまた性、デカダンスには臆病だった。清張に出来たことは39歳で亡くなった劉生を反面教師に、44歳で手にした文壇の座を維持すべく、ただひたすらに原稿を書き続けただけのような気がしないでもない。

 小生は、劉生・晩年の写実から脱した作品群から推測すれば、さらに絶望を深め(ボス的、家長的挫折)、かつ生き永らえば、抜群の写実力を有すも次々に作風展開のピカソのようになれたのではないかという気もする。ピカソのキュビスム開眼は36歳。劉生の死は、美を追求するには余りに早過ぎた。(未消化だが終わる)

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劉生6:京都時代の蒐集耽溺 [スケッチ・美術系]

ryuseienikki1_1.jpg 劉生32歳、関東大震災から8日後の9月9日の日記。~ねころんで「女性」誌の荷風『耳無艸(みみなしぐさ)』などみる。この人も古美術を愛するらし。今の境地にてこの文をみて、かわける時水に会うような心地幾分したり。

 荷風へ言及で、これは確認したい。『耳無艸』は後に改題『隠居のこゞと』。大正12年4月2日『断腸亭日乗』に、~夜随筆「耳無艸」を草す、と有り。『荷風全集』15巻「麻布襍記」に『隠居のこゞと』収録。長文ゆえ雑誌「女性」に連載と推測する。

 内容は、昨今(大正当初)の編集者らの行儀の悪さ(無知)の指摘に端を発し、衣食住全般の堕落を嘆き、良き明治の森鴎外や江戸文化(浮世絵など)を懐かしく述懐。最後は大震災に遭ったが、被害の少なかった山の手に暮らしていて助かったと結んでいた。

 雑誌「女性」や「苦楽」はプラトン社発行で、同社調べも面白そう。劉生の絵に挿入される装飾(描き文字、額縁風模様など)は、同誌の山六郎、山名文夫のタイポグラフィー、イラストにどことなく似ている。

 また鵠沼脱出前、9月20日の日記に「大杉栄が甘粕という大尉に殺された由、大杉は好きではないが殺されるのはよくないと思ってへんに淋しい気がした」。誰が言ったかは忘れたが〝劉生の日記は、荷風の日記と同じくらいに面白い〟なる記述があった。

masuoeniki2_1.jpg 話を戻す。劉生が京都生活を始めたのが大正12年10月。月謝25円の長唄師匠も京都に落ち着いた。当時の京都は古美術の宝庫。まず唐画「雁」を購入し、自らを「陶雅堂」。鵠沼時代に芽生えた唐画、日本の初期肉筆画への関心がさらに深まった。

 「又兵衛」を5~800円で購入、古茶道具を70円で購入。日記にはあれ・これ欲しいと金策ばかりの記述が続く。大正13年正月の日記に「今年もよき年であってくれるよう、よきものの手に入るよう」と記す。骨董商の誘いで茶屋遊び、深酒の遊蕩も始まった。

 借金も返せないのに、欲しい作があれば買ってしまう。自ら「江賀海鯛(絵が買いたい)先生」と称し、「美の鑑賞は創造と同価値」を広言。そして大正14年7月9日に、大正9年元旦から続けられていた絵入り日記が突然終わる。その原因が様々に揶揄されるも、松本清張『岸田劉生晩景』が、この耽溺時代の劉生像を描こうとしているので、この先は同書を読むことにする。

 挿絵は、劉生〝絵入り〟日記の小サイズ超ラフ絵のひとつ。日記内容の雰囲気が伝わって愉しい。またまた余談だが池田満寿夫『尻尾のある天使』(文春文庫)を読めば、画家による同じような感じの超ラフ絵掲載。どこか似ていて面白いも、池田満寿夫の方がアートしている。岸田劉生を例えば永井荷風、大杉栄、池田満寿夫らと比せば、その像もより明確になって来よう。弊ブログ絵もこんな感じのラフ絵が描けたらいいなぁです。(続く)

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劉生5:「内なる美」「卑近の美」など [スケッチ・美術系]

jibunnokao1_1.jpg 劉生の鵠沼時代の充実について、もう少し記す。前回、デフォルメされた麗子像を簡易模写したが、この辺は「内なる美」から「東洋の〝卑近美〟」へ移った例。門外漢の小生には難解だが、岸田劉生随筆集より『東洋芸術の「卑近美」について』をまとめてみた。

 「東洋芸術には、概して一種の卑しさ、下品に見える味があって、実はそこに〝渋い美〟が多く見かけられる。それは露骨な美(端正、偉大、権威、伝統的写実)とは正反対の〝卑近美〟だ。日本の踊は概して西洋の舞踊に較べて端正の味を欠く。歌舞伎の所作にもある種の卑しさに似た渋い美の味がある」

 小生は北斎の裸踊り図を模写したことがある。それが歌舞伎舞踊の「願人坊主」「うかれ坊主」でもあり。その味は下世話で露骨に違いない。劉生はこう続ける。

 「概して東洋美術及び日本美術の味には端正とか、権威とか、精神的というか倫理的感銘が欠けているかのように見えると思う。露骨な美(端正な写実)と〝卑近美〟がある。例えば水墨画の深さは西洋美に匹敵して劣らない。ならば美は二つあるのか。いや、そうではない。東洋の美は露骨性が避けられ、匿(か)くされているのだ。そこに〝渋さ〟がある。一皮剥ぐと、そこに深さ、無限さ、神秘さ、厳粛さがある。それが東洋美術の〝卑近美〟である。ゆえに全美術家は、通俗さを恐れなければいけない」

 そして「デカダンスの考察」へ。デカダンスを分類分析した後で「日本の音曲の江戸末期のあるものは、明らかに本質上のデカダンスでありながら、必ずしも非芸術として捨ててしまえない一種の芸術的な魅力を持つ。一種の芸術的な魅惑となって我々の感情を一種の陶酔に導くのは何故か」

jibinkao3_1.jpg そして自答する。「それは技巧の味覚である。江戸末期の芸術は、多く技巧の繊細に走って、それがますます鋭くなるにつれ、芸術上の本質が腐ってゆく代わりに、技巧の味覚だけは非常に進んだ。その技巧の持ち味が人を或る陶酔に誘うのである」

 劉生の当時の日記を読むと、夫妻で三味線や長唄の出稽古を受け、日々上京の折りには必ず東洋・日本美術品を鑑賞しては蒐集の欲を募らせていた。だが富山秀男著では「劉生のそうした進化が、関東大震災後を契機に欧州から流入の前衛的画風が画壇主流となり、次第は無視されていった」と記す。劉生は油彩で日本画風に、または水墨画を、油彩で大首絵風を描いたりと彼の探求心は限りなく展開するのだが~。

 さて挿絵は劉生自画像の油彩、素描淡彩を一皮崩してみれば、何かが見えてくるような気がしてデジタル処理してみた。ははっ、どちらの絵が油彩か素描かが分からなくなってきた。これで色を抜けば水墨画にもなろうか。こんな遊びはきっと「剽窃・加工」でいけないこと。(続く)

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劉生4:充実の鵠沼時代 [スケッチ・美術系]

reiko4_1.jpg 岸田劉生26歳、大正6年(1917)。より温暖な地・鵠沼へ移転。草土社、白樺派メンバー、そしてバーナード・リーチも訪ね来る。椿貞夫も引っ越して来た。梅原龍三郎は鎌倉で、萬鉄五郎は茅ヶ崎。大正期の湘南画壇はちょっと熱かった。劉生の健康も回復してパトロンも増え〝劉生の鵠沼充実期〟へ。

 若い画家らの信奉者が多かったのは、彼が展開する画論・芸術論などの筆力(父親譲り)も影響大だったろう。大正7年『麗子肖像』から麗子連作も始まる。大正9年元旦から克明な「絵入り日記」(大正14年7月まで一日も欠かさず)を書き始める。この頃の画論「内なる光」について富岡秀雄著では、以下のように要約していた。

 「印象派はものの表面に当る光によって対象を認識し、刻々と変わるその見え方の違いに注目した。だが劉生は逆にものの表面ではなく、ものの奥にあるものを表現しようとした。有形な対象によって形而上の無形な精神まで捉えようとした」

 後期印象派風から、対象の生命感をも細密描写で描こうとする「写実的神秘派」を自称。麗子像、友人肖像などはアルブレヒト・デューラー(ドイツ・ルネサンス期)風に。小生の素人感想では、油彩ゆえ脂ぎった顔をマクロ撮影したような迫力満ちたリアリズム。

 写実を極めると、また次の画境へ向かう。京都での個展を機に、唐絵や肉筆浮世絵への関心を抱く。 麗子像も中国宋元時代の画家・顔輝が描く寒山の顔に似てくる。それまであの画材、技法では絶対に写実は無理と断言していた日本画を認め、さらに水彩画も再認識する。

 「筆触を重ねて美を追求する油彩に比し、唐画や日本画はまず対象美をすっかり飲み込んだ上で筆触少なく描くところに味・美が生まれる。水彩は〝美をいきなり掴む独立した芸術作品〟だ」。新概念を激しく展開。なんだか岡本太郎みたいと思ってしまった。

 大正11年「東洋芸術の『卑近美』に就いて」「写実の欠如の考察」「デカダンスの考察」を発表。瞠目すべき画論。内的にも充実の日々に、大正12年9月1日の関東大震災が襲った。

 「十二時少し前かと思う。ドドドンという下からつきあげるような震動を感じたので、これはいけないと立ちあがり、蓁につづいて立って玄関から逃れようとした時は大地がゆれて~」と緊迫の日記。家屋半壊。充実の鵠沼時代が無残に終わった。

 挿絵は中国宋元期の画家・顔輝が描く寒山の顔と、それに似たデフォルメの麗子像の対比部分模写。

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劉生3:「切通之写生」現場へ [スケッチ・美術系]

kioujinnjya_1.jpg 家に籠って連日読書では運動不足。自転車を駆った。岸田劉生関連書を読書中ゆえ、彼の旧居巡りと相成候。まずは劉生が新婚所帯を構えた妻の実家「西大久保457」小林宅へ。あらっ、ご近所だ。大正時代の地図を見れば、現・新宿職安通りから歌舞伎町方面へ曲がってすぐの鬼王神社隣辺り。

 今はスナックビルとラブホテル群の歓楽街で、当時の面影皆無ながら、104年前の大正始めに22歳の劉生が、ここで新婚生活と思えばなんだか身近な存在になってくる。

 職安通り沿い(鬼王神社へ曲がる手間)には、島崎藤村旧居碑あり。極貧生活のなかで『破戒』執筆中に栄養失調で三人の女児を亡くし、同通りの山手線寄り「長光寺」に葬られている。

 ここから新宿駅南口前の甲州街道を数分走って「西参道」(地図は間違えて〝北参道〟になっている)に入る。突き辺りが明治神宮で、右坂下が小田急線「参宮橋」。まずは「北参道」左側、代々木3丁目側を走って西大久保からの移転先「代々木山谷117」を探す。今は「山谷」地名はなく代々木3丁目だが「山谷幼稚園・山谷小学校」に地名が残ってい、この辺りが劉生夫妻の移転先。

yoyogitizu6_1.jpg 近くに「田山花袋終焉の地」碑あり。花袋がここへ移転は明治39年。彼の『東京三十年』(岩波文庫)に、こう記されていた。「(社から帰ってまで来客の相手はたまらぬゆえ)代々木の郊外に新居をつくった。郊外の畑の中に、一軒ぽっつりとその新居を構えた」

 当時の氏は自然主義文学の拠点、博文館「文章世界」編集主任。忙しかったのだろう。静かな郊外の家で、あの『蒲団』などを執筆。自然主義小説のもうひとつの代表作が、前述の島崎藤村『破戒』。

 次に「西参道」の反対側へ。記憶通り参宮橋側(代々木4丁目方面)は急坂で下っている。劉生の「道路と土手と塀(切通之写生)」や「代々木付近の赤土風景」などはこの辺で描かれたに違いないと、あちこちの急坂を登り降りしていたら、何ということでしょう、「立正寺」脇に「岸田劉生が描いた〝切通しの坂〟」なる碑柱があるではないか。

 勘がピタリと当たった。碑柱に「名作「切通之写生(重要文化財)は大正4年に発表された」とあった。劉生「赤土風景連作」はまさに〝都市開発最前線風景〟だった。ちなみに松本清張『半生の記』文庫表紙も同絵。東京のコンクリート・ジャングルの地下は〝赤土〟で、そこに江戸・明治・大正が眠っている。(続く。次は劉生の鵠沼時代へ)

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劉生2:白馬会から草土会へ [スケッチ・美術系]

ryusei17_1.jpg 当初は水彩風景画を描いていた劉生だが、17歳で赤坂・溜池「白馬会葵橋洋画研究所(黒田清隆が指導)」に入門(挿絵は当時の劉生。痩せていた)。同所で木村荘八と親友に。木村は東日本橋の牛鍋(すき焼き)「いろは第8支店」生まれ。木村の父は愛妾担当の支店を22まで拡大して子供は30人。(岸田、木村の父は共に傑物)

 藤田嗣治が黒田の指導を嫌ったのは有名だが、劉生も黒田の指導日は避けたそうな。それでも3年在籍で、19歳で黒田スタイルの2点で文展入選。その直後、明治44年(1911)からゴッホ、ゴーギャン、マチス、セザンヌなど後期印象派の影響を受けた絵に一変。特にゴッホに夢中。後期印象派を紹介の雑誌「白樺」同人に接近。6歳年上の武者小路実篤と親交。同誌に文章も発表。バーナード・リーチとの交友も始まった。

 大正元年(1912)、高村光太郎筆頭のヒュウザン会に出品。ゴッホ風自画像などで注目。同展に学習院・漢学教授の娘で鏑木清門下生だった小林蓁(しげる)さんが観に来て、それを機に二人は結婚。新婚所帯は妻の実家・西大久保457番の小林宅二階。

 新婚当時の劉生は、訪ね来る客を次々にモデルにして数時間で完成。「岸田の首狩り・千人斬り」と言われたとか。モデルがいなければ自画像の連作、新妻も描いた。次第に後期印象派から離れ、アルブレヒト・デューラーに近づいて写実を深める。

 神経質・癇癪持ちの劉生に、妻の実家の二階は住み難く、早々に代々木山谷117の一軒家へ移転。大正3年に長女・麗子誕生。同年、二科会結成も劉生は監査委員に推されるも辞退。

 大正4年、事実上の第1回草土社展を開催。あの有名作「道路と土手と塀(切通之写生)」はじめ一連の〝赤土の風景〟を描く。同年秋「草土社」を結成。メンバーは木村荘八、中川一政、椿貞雄、高須光治など。同会展観は大正11年まで全9回開催。草土社に集う若い画家らは、劉生を狂信的に崇め、彼もまた独裁。その結束力は凄かったらしい。

 しかし大正5年、25歳の時に肺結核と診断。療養目的で駒沢村へ移転。戸外写生は無理で静物画に取り組む。大正6年、より暖かい鵠沼の別荘を借りる。次第に健康回復で、同地での6年半が彼の最も充実した〝鵠沼時代〟になる。(続く。次回は西大久保、代々木の〝赤土〟巡り)

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劉生1:劉生は岸田吟香の子 [スケッチ・美術系]

ginko5_1.jpg 松本清張の短編『装飾評伝』(昭和33年)を読んだ。概ねこんな内容。~私は、耽溺の末に39歳で病死の天才画家を小説に書きたく思っていた。彼の伝記を某が書いていた。某は彼に師事も、画業的には彼に圧倒されて挫折。私は、彼の小説を書くには某への取材が必要と思っていたが、某の死亡記事を見た。某には妻子がいて、当時の某はその子を連れて彼を訪ね続けた。それが彼を破たんへ誘った。彼が某の妻を寝取った秘密が~。

 天才画家は岸田劉生で、某は椿貞雄がモデルと揶揄されている。実在モデルを、そんなフィクション仕立てにすれば非常に失礼なこと。その後の清張『岸田劉生晩景』(昭和40年)が気になった。

 新潮社『岸田劉生晩景』(昭和55年刊)を読んだ。他に「骨壺の景色」「筆写」「女囚」「鳥羽僧正」と「北斎」(期待したが資料本抄録に過ぎず)の短編を収録。『岸田劉生晩景』は小説でなくノンフクションだった。ならば別の書も読むべきで、富山秀男『岸田劉生』(岩波新書)と画集がわりに別冊太陽『岸田劉生』を図書館から借り、書店で『岸田劉生随筆集』と『摘録劉生日記』(共に岩波文庫)を購った。

 それらから劉生のお勉強。彼は岸田吟香の子。おぉ、青山外人墓地シリーズのジョセフ・ヒコで登場済だ。ヒコが横浜で「海外新聞」発行時の編集手伝いが吟香。彼はヘボンの英和辞書を上海で印刷のために旅立って「海外新聞」は27号で休刊。吟香はその後「東京日日新聞」記者、諸事業展開。40歳の晩婚ながら14人もの子を設け、劉生は明治24年(1891)6月に9番目の子として誕生。

 吟香は銀座2丁目で、ヘボン博士より特許譲渡の目薬(精錡水)会社を経営(劉生書には、その地は現・銀座2丁目の服部時計店の地。富山書には名鉄メルサがある地)。劉生は隣や近所の勧工場(間口1間半ほどで長い通路の両側に玩具、絵草子、文具、漆器などを並べ売っていた)見物が好き。とくに油彩や水彩画の常設展覧所となった勘工場があって、そこで劉生は絵心を育んだらしい。

 なお『岸田劉生随筆集』の冒頭は「新古細句銀座通」で10章にわたって明治の銀座の思い出が〝絵入り〟で記されている。ついでに劉生の親友・木村荘八(荷風『墨東奇譚』の挿絵でお馴染み)の『東京繁盛記』も面白い。

 さて、裕福に育った劉生13歳の時に長兄が、翌年に父72歳が、母が50歳で死去。父が亡くなれば借財があって、彼は中3で退学。熱心な基督教信者になって牧師志望も、牧師から〝気性が激しいから牧師より画家になりなさい〟。燃える信仰心のやり場を絵画に向けたのはゴッホも同じだな。(続く)

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自動ペインティング実験 [スケッチ・美術系]

handouenpitu_1.jpg COREL「Painter essentials5」の「自動ペインティング」で、もう少し遊んでみた。クローンソースは最近ブログ使用の写真と絵。

 まず花の写真を「オイルペイント」加工。〝引き気味〟の風景写真よりもアップ気味画像の方が加工タッチが明確で面白い。ボケ過ぎや強調部分は「ソフトクローン」で当初ディティールを復元し、絵にアクセントをつけてみた。(レイアウトがうまく出来ずにアップ省略)

 次は自分で描いた「半藤一利さんの似顔絵に荷風の丸眼鏡、漱石のヒゲを加えた絵」を「色鉛筆画」処理をしてみた。実際は中太筆で15分ほどの色彩だが、まぁ無数の線でたっぷりと時間を要しての精緻な色鉛筆風に仕上がった。色鉛筆の太さ調節もできれば、もっと面白い絵になりそう。いろいろと試してみたい。きっと、いきなりコノ絵を見せられたら、本当に色鉛筆画と思ってしまうだろう。(絵をクリック拡大で、色鉛筆線がはっきりします)

 次に透明水彩の特性を生かした〝つゆだく〟で描いた芥川龍之介の似顔絵を「印象派風」にして、その上から「カラーホイール」と「ブラシ」で〝白+細ブラシ〟を選んで白目、瞳、鼻筋、爪を描き足した。絵を描いた時にうっかり忘れた指のハイライト部分も、薄黄色+ペンで描き足してみた。さらに大胆に追加タッチを加えれば、不思議な絵が生まれるかもしれない。

akutagawa_1.jpg 以上から、不慣れな「ペンタブレット」を使わずとも、スケッチブックに自由に描いた素描~彩色をした後で、デジタル処理をするだけで充分に面白いと思った。当分はこの方法に慣れて、気が向いたら「ペンタブレット」でも描いてみましょう。以上、デジタルお絵描き遊びのメモでした。

 


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ブログ挿絵、丸2年 [スケッチ・美術系]

nitouhei1_1.jpg つい先日のこと、絵を描くことに〝ぼんやりと飽いた・倦んだ・力が抜けた〟。振り返れば初スケッチ(新宿御苑)が2年前の今日で、丸2年だと気が付いた。同年7月には「ブログの写真をやめた弁」で今後は挿絵で行きますと表明。まぁ概ねそれを貫いて、自分でも「よく続いたもんだ」です。

 描けずに悶々とした時も、思いのほか上手く描けてご機嫌の時もあり。それで今回の〝ぼんやりと飽いた・倦んだ・力が抜けた〟原因はなんだろうかを考えてみた。ややして所詮は〝隠居の閑潰し遊び〟で、自分には「絵を真剣に描くこと、描き続けることのモチベーションが希薄なんだ」と気が付いた次第。ブログだって、いつでもやめたければやめていいのだし、挿絵を写真に戻してもいいんのだし~です。

 絵は端から誰かに教わったワケでもなく、ネット上に満ちる様々な絵や、絵の描き方指導の無数の動画を見たりして始めたゆえに、やる気がなくなったり迷いが生じたら、また改めてネットサーフィンでもして、ネット上に満ちる様々な絵を見て廻るのがいいのかも知れない。

 そうして気が付いたのは、自分の絵がなんだか不透明水彩(ガッシュ系)寄りの描き方(上の絵)になってきて、白絵具も多用し始めている。透明水彩から離れだしているなぁと思ったんです。そこで透明水彩で「いいなぁ~」と思った絵をよくよく見れば、文字通り「ウォーターカラーペインティング」で、絵具が濡れて滴るように描かれているのが多いんですね。あぁ、透明水彩の本来の描き方は〝つゆだく技法〟で、かつ白は描かずに残す技法なんだと再認識。そこを意識して描いてみたのが下の絵なんです。

ryunosuke3_3_1.jpg 二つの絵を見較べて、こう判断した。ガッシュ系は気に入るまで重ね塗り。一方の透明水彩は彩色前にしっかり考え・計画を立てておくのが肝心。この絵なんか指のハイライト(塗り残す)をすっかり忘れている。そそっかしい小生は要注意です。

 さて、ガッシュ系で描くのが好きならば、きっとアクリルや油絵へ行くのがいいだろうし、透明水彩本来の〝つゆだく〟に改めて立ち戻るのもいいだろうし。お爺さんなんだから天衣無縫・もっと好き勝手でもいいし。いやデジタル絵を試みるべく既に「Intuos(インティオス)」(ソフトはCOREL Painter)をPCセット済だし~と迷い出しているんですねぇ。

 絵を描き始めて丸2年。さて、どちらの方向へ行くのがいいのでしょうか。


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若冲の〝酉〟で謹賀新年 [スケッチ・美術系]

tori.jpg 若冲の鶏(酉)をWindows「ペイント」で模写し、新年のご挨拶です。「酒」の「氵」がとれて「酉」。「酉」は〝取り込む〟で商売繁盛。「酉の市」の熊手にもなったとか すべて〝地口洒落〟でございます。

 Windows「ペイント」は、マウスで描く線がぶるぶると震える。若き日に老画伯に出会った。昼間から〝コップ酒〟ゆえ、アル中だったのかしら。手の震えで、絵筆をスポイトに換えた。キャンバスに絵具をぽたり・ぽたり~と垂らし、それは素敵な抽象的風景画を描いていた。

 江戸の絵師らにも、晩年の老人病による手の震えと闘った方々がいたらしい。若冲の晩年はどうだったのだろうか。この鶏の絵を見ると長い線がなく、その短い線も震えているような。背景には、筆の揺れがそのまま杉の葉?になったかの描き方。マウスで描く揺れ線に似ていた。

 小生も老いた。だが煙草・酒を止めたせいか、未だ手の震えはない。錆び付いた身体と頭をギコギコと動かしつつブログを続けます。今年もどうぞよろしく。


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そして古希の〝おまさ〟 [スケッチ・美術系]

omasa1.jpg Windows「ペイント」で鬼平、盗賊を描けば〝女隠密・おまさ(梶芽衣子)〟も描きたくなった。「ペイント」三回目で、少し慣れてきた。

 しかし年増密偵の艶を発揮の〝おまさ〟だったが、描いているうちに婆ぁになってしまった。それも過日放映の最後の「鬼平犯科帳」テレビ放映のためだろうか。中村吉右衛門〝鬼平〟をはじめレギュラー出演陣の、まぁ歳を召されたことよ。声が出ない、声と肌に艶がない。無理をしてはいけません。

 ちなみに彼らの年齢を調べてみた。全編(27年間)出演の〝おまさ〟は、なんと古希を迎えるとか。昭和22年、神田生れ。おや、新宿生まれの我がかかぁと同年だ。吉右衛門が昭和19年、麹町生まれ。あたしと同い年だった。

 同年生まれの粂八(蟹江敬三、江戸川区生まれ)は3年前の69歳で亡くなった。昭和24年、中央区生まれの彦十(江戸屋猫八)も、昭和10年生れの筆頭与力・佐嶋(高橋悦史)もこの世にはいない。

 昭和20年、東京生まれの大滝の五郎蔵(綿引勝彦)は大病を克服して頑張ってい、与力仲間から〝いじられ役〟の若い木村忠吾(尾美としのり、目黒区出身)にして51歳。もう〝いじられ役〟は似合わない。

 それにしても、東京生まれの俳優陣がよく揃っていた。東京弁が自然に使える方々ばかりだったが、今はそれも望めぬ時代だろう。東京生まれは東京在住者の半分にも満たないとか。芸人も電波・活字媒体関係者も然り。小生は新宿・大久保在住だが、街をすれ違う人々の言葉は外国語も多い。

 振り返れば小学生時分は、教室の後ろまで机がビッシリで1クラス5、60名。それが1学年で10組まであって、当然ながら全員が東京生まれだった。東京の人口は2050年まで増え続けて1398万人へ。一方、日本の総人口は今年秋で1億2692万人。前年より16万人減で、すでに減少傾向が始まっていて、約100年後には僅か4286万人(将来推計人口)になるらしい。

 〝おまさ〟をWindowsで描きつつ、東京いや日本の明日は、どう変化してゆくのだろうと思った。


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鬼平を描けば盗賊も~ [スケッチ・美術系]

touzokuhaikei.jpg Windows「ペイント」がちょっと面白くなって来た。今回は「油絵風+背景」を試みた。背景は「ペンキマーク」を右クリック。色を選ぶ。ペンキマークが背景位置にあるのを確認して左クリック。これで塗り潰される。取り消しは右クリック。

 きれいには切り抜けないから、輪郭周辺は同色の〝筆〟で塗り残しを潰して行く。(右か左クリックかを間違えて記したかも知れぬが、やってみればわかる)。

 背景色の上から、さらに別の色を乗せられる。また油絵風は、きりがなく筆を加えたくなってくるが、これはデジタルゆえ適当に止めるのがいいだろう。

 ここまで描いてサイズが「73.1KB」と云うのは、どういうワケだろうか。サイズダウンしなくてもブログアップできる小容量。描く前の設定がいけないのだろうか。

 すでにWacom社の「Intuos(インティオス)Art medium」を初期設定済だが、まだWindows「ペイント」で遊んでみたい。エアブラシ、クレヨン、マーカー、水彩も試し、静物や風景も描いてみたい。


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鬼平・志ん生・荷風と絵 [スケッチ・美術系]

onihe2kaime.jpg もう少しWindows「ペイント」に慣れようと、再び中村吉右衛門の〝鬼平〟を描いてみた。似る似ないより「ペイント」使いに慣れること。

 池波正太郎『鬼平犯科帳』を読み始めたのは何時からだろう。ちょっと仕事に、生きることに倦み始めた五十代の頃か。

 これはかかぁも夢中になって、次から次へと読んでいって、文庫本すべてを揃えた。あたしは一回読めばいいのだが、かかぁは繰り返し読んでいる。中村吉右衛門のテレビ〝鬼平〟も繰り返し観ている。

 そんな歳になってくると永井荷風も読みたくなってくるらしい。早稲田の古本街で全集を購った。駄句を始めたのも荷風句を真似たくてのこと。荷風全集は今も本棚から引っ張り出して読んでいる。

 晩年になると「古今亭志ん生、志ん朝」の落語が聴きたくなってくると誰かが言っていた。随分と前に「志ん朝」のカセット全集を購い、志ん生はダビングで揃えたが、目下のところまだ聴きたいとは思わない。

 一昨年から絵を描き始めた。ヘタなりに面白い。動けなくなったらベッドの上で荷風を読み返し、志ん朝を聴き、絵を描いているかもしれない。そのためにも、絵はもうすこし上手にスラスラと描けるようになっていたい。むろん、そんな時は〝デジタルお絵描き〟ではなくクロッキー帖に鉛筆、ペン、水彩だろうなと思っている。 


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Windows「ペイント」で鬼平を描く [スケッチ・美術系]

onihei10.jpg 古文書講座復習で長谷川平蔵が出てきた。目下は「デジタルお絵描き」模索中ゆえ、Windowsの標準装備アプリ「ペイント」でテレビの〝鬼平〟を描いてみた。

 Windowsをン十年も使っていながら〝描く〟ことの興味なしだったゆえ、標準アプリで絵が描けるとは思わなかった。スタート画面から「アプリ一覧」表示で〝丸いパレット〟マークの「ペイント」アイコンを、デスクトップに貼り付けた。

 現PCはWindows8.1。「ペイント」の筆はブラシ、カリグラフィ・ブラシ1と2、エアブラシ、油絵ブラシ、クレヨン、マーカー、鉛筆、水彩ブラシと多彩。線の太さは4種。図形を描く機能もある。

 早速マウスを動かしてみた。線がブルブルと揺れる。これが「ペイント」の最大特徴か。比して「iPhone」の液晶に描く場合は、線がどこから出て来るか予測不能で、思い通りに描けずに〝ヘタウマ〟風な絵になるのが特徴(魅力)。

 要領がまったくわからぬまま、手探りで描いてみる。まず「鉛筆・黒・最細」でアタリを描く。線が太く灰色でぼやけている。似せて描くのを諦めて、いろいろと試しつつ描いた。こりゃ、慣れるまで幾度も描かないとダメだろう。保存後に「ブラシ・最細・黒」がミリペンのような極細線が描けると知って描き加えてみた。まぁ、ブルブルと震えることよ。

 また同イラストを「jpg」で取り込んで、サイズダウンすれば、本当にボケて汚くなった。まぁ、これにてiPhoneもWindowsも〝お絵描き機器・ソフト〟なしでも絵が描けることがわかった。すでに「Intuos Art」入手済だが、やはり絵は手で描く方がいいような気になってきた。


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デジタルお絵描きの保存ファイルは? [スケッチ・美術系]

sumahotabi_1.jpeg 久し振りにiPhone6sの「メモ・手描き」で絵を描いた。PCへ送信したら、今までは「jpg」ファイルから「png」になってい、その画像をクリックすれば中国語風文字バケ画面になった。

 今までは「メモ・手描き」と「写真・マークアップ」で描いた絵は「jpg」で、「メール・手描き」のみ「png」。それでもPC上で簡単に「jpg」変換し、容量を少なくしてブログアップ。これらが簡単に出来たのだが、すべてが叶わなくなった。

 「あぁ、もうスマホで絵は描けねぇや」。この辺の事情を知るべく某ショップへ電話。「それはGmailの問題だからGoogleに訊いて下さい」とそっけない。次に「Appleサポート」へ電話。「難しそうですから〝Apple Stor〟で直接相談されたら~」。

 「いいねぇ、あたしは新宿だが最寄り店は」。「実はこの電話、北海道で受けていまして、私に土地勘がありませんが~」に思わず笑った。昨今のコールセンターが繋がる先はどこだがわからない。英語圏なら繋がった先が外国の場合もあろう。

 札幌在住らしきお嬢さん?は銀座・渋谷・青山3店舗のうち、渋谷店の予約が取れましたと親身な対応。改めてiPhone6sの領収書66,744円を見れば「Apple Shibuya」で、息子がコレを買ってくれたショップじゃないか。

 すべては「Gmail」の「ネットワークリクエストはタイムアウトになりました」で、リセットしてからの諸々不具合もあり。それを別にし、担当者になぜに保存ファイルが突然に「png」に変わったのかと質問すれば、担当がベテランらしき女性に代わった。

 まず「Gmail」リセットからの不具合と云えば「設定~メール~アカウント~Gmail」の画面を開いた。そこに「メール・連絡先・カレンダー・メモ」との接続選択画面あり。「Gmail」リセット後に塩梅が悪くなったのはこの四つで〝あぁ連動していたのか〟と納得。

 次が本題。手描き絵をGmailでPCへ送信すると、なぜ突然に「jpg」から「png」になったか。「png」クリックでなぜ文字バケするのか。担当者は送信テストを幾度が試みた後に中座した。どこかで調べていたのだろう。再び現れた時に「jpgとpng」や「Gmail」関連記事がアップされたPC持参で、こう説明してくれた。

 「iPhoneサイドではこの辺の変更を一切していませんから、Gmailサイドがイラスト系を〝png〟に変更されたと推測されます。また画像クリックで文字バケ風画面になるのはイラスト制作過程がバケたものですから気になさらくても大丈夫だと思います。〝png〟はiPhoneでもWindodwsでも使えますから、画像右クリックで「jpg」変換で使えると思います」。

 そして、自身のPCに「png」関連のネット記事をアップさせ「〝png〟はイラスト向きのファイルですから、使いこなしてみてはいかがでしょうか」と言った。

 帰宅後、彼女が見ていた「jpgとpngの違い」や「Gmail」のサイトにアクセス し、幾つかを読んでみた。結論は~写真は「jpg(=JPEG)でもいいが、デジタル制作のイラストは容量が軽くきれいな「png」がよい。「jpg」では容量が重く、かつ容量を少なくした時にノイズまみれで汚くなってしまう。というようなことが記されていた。

 また保存形式は他にも作画ソフトのオリジナル形式、BMP、Photoshop、TIFF、Targaなどがあると知った。だが相変わらず自身のiPhoneからPCへ送信の画像は「png」で、それをクリックすれば文字バケしたような画面で、その先に続かない。かくしてデジタルお絵描きは諦めて、この顛末をクロッキー帖で描いてみた。それを見ていた婆さんが言った。「やっぱりお爺さんに〝デジタルお絵描き〟は無理ですよう」。

 追記:上記をアップ後の電車内でネット検索すれば「JPEG⇒⇚PNG」の無料アプリがあった。ダウンロードすれば、瞬時に望みのファイル形式に変換。画像が文字バケすることもない。これで問題解決。こんなに簡単なことを、誰も教えてはくれなかった。


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デジタルお絵描き [スケッチ・美術系]

sumahodee_1.jpg 「狂歌入東海道」シリーズを続けている間に絵を描かなかった。久し振りに絵筆をと思えば、不透明水彩絵具が固まっていた(透明水彩は固まっても可)。新たな絵具を買おうかしら、いやアクリル画に挑戦してみましょうか。

 いや、ここ最近「スマホでお絵描き」をしたのだから、この際〝デジタルお絵描き〟体制を整えてみようかしらと思った。

 小生の絵は〝ブログ挿絵〟程度ゆえ、プロが使うような本格的なデジタル機器は必要ない。調べたらスマホ用の、容量を気にせぬクラウド保存のお絵描き無料ソフト「MediBang Paint Pro」があるそうな。ネット上で「使い方講座」もあるらしい。

 だが、如何せんスマホでは画面が小さ過ぎる。しかも小生の「iPhone6sのGメール」の塩梅が相変わらずよろしくない(実はこの挿絵、最初はスマホ「メモ・手描き」で描いたが、以前のようにPCへJPGで送れず、全てがpngになってい、かつバケている。よって慌てて手描きしたもの)。

 かくしてiPhoneでのお絵描きは避けて、その延長上とも言うべき液晶ディスプレイへ直接描く「iPad pro+Apple pencil」が良さそうだ。だがその費用、ざっと10万円超。iPhoneに7万円を投じたばかりの貧乏隠居は、ここしばらくは我慢です。

 ここまで考えて「あぁ、パソコンがあるじゃないか」と気が付いた。そこで「Wacom社のIutuos Art medium(ペンタブレット+スタイラスペン+簡単ソフト付きで1万6千円ほど)」があると知った。同封ソフトはCorel社「Painter Essentials5」らしい。同ソフトが気に入らなければ「CLIP STUDIO PAINT PRO」(ダウンロード版5千円。立派なマニュアル本も市販されている)もいいらしい。これなら2万円もあれば、とりあえず〝デジタルお絵描き〟が出来そうとわかった。

 ってことで、来年のブログ挿絵はソレで行きましょうか。果たして隠居老人に〝デジタルお絵描き〟が出来ましょうか。翁がそう記せば、媼(おうな)は「馬鹿だねぇ、絵は手で描くもんだよ」と笑った。


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電車内で〝iPhoneスケッチ〟 [スケッチ・美術系]

dennsyade1_1.jpg スマホでお絵描きは、アプリが固まらぬよう簡略な線・色がいい。だが絵は簡略・省略こそが至難。ゴッホ「ああ、二、三本の線で人物が描けるようにならなければ~」と浮世絵を観つつ言ったそうな。

 あぁ、それなのに!スマホの線はどこから出て来るかもわからない。江戸時代の鳥羽絵、大津絵、漫画初期のポンチ絵、今なら絵手紙のような絵になってしまう。

 そんな事を思いつつ地下鉄に乗った。まぁ、乗客の全員とまでは言わぬが、誰もがスマホで何かをしている。そんな光景を眼前にして、はたと閃いた。スマホ熱中の彼らをスマホでスケッチしてみよう。

 絵画系サイトを拝見すれば、電車内で乗客をこっそりクロッキーなどして腕を磨いている方々がいらっしゃる。小生は公衆の面前でスケッチブックを開き筆を走らせる図太さ、大胆さ、勇気はない。また街の「絵画教室」では数千円で「ヌードクロッキー」が開催されているが、これも恥ずかしく参加は出来ない。

 そこで電車内でスマホに熱中の方を、スマホでスケッチしてみた。案の定、スマホでスケッチなどしているとは思わぬのだろう、誰にも気付かれずに描いたのがこのスケッチ。


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日本のルソー、横井弘三展へ [スケッチ・美術系]

yokoitirasi1_1.jpg 久し振りに自転車に乗れば大腿四頭筋がきつかった。脚が萎えていた。GW後の伊豆大島でボケ~ッと過ごしていたせいらしい。身体を動かさないといけない。加えて野暮用続きでブログを更新する気も起きない。

 野暮用が途切れて「若冲展」へと思ったが、ネット調べで超混雑・長蛇の列とか。〝並んでまで食いたくない〟主義は〝並んでまで観たくもない〟。

 そこで自転車で中村橋の練馬区立美術館「横井弘三の世界展」へ行った。閑散とした会場で〝日本のアンリ・ルソー〟の作品群を堪能した。ルソーと同じく独学だが、第2回二科展(大正4年)初出品で、第1回樗牛(ちょぎゅう)賞。翌年に二科賞。〝素朴絵〟は文人画にも、表現主義系にも通じる一面あり。

 会場に入ると、まず若い日の「小笠原島旅行」写生作が展示されていた。なんと、そこに大島「元村風景」と題された作あり。日本のルソーさんが小笠原に一ヶ月滞在したのは大正12年で、伊豆七島の写生旅行は昭和2年、38歳の時らしい。ゆえに元村には未だ港はなく、杭打ちの桟橋から中型木造船へ、そして沖に蒸気船が停泊している図。

 彼には昭和3年刊の『東京近海 島の写生紀行』があるとか。同書には他の伊豆大島スケッチが幾作もありそうで、試みに東京都立中央図書館の蔵書検索をすれば閉架にあり。同館へ行った際に、ぜひ閲覧してみようと思った。

 チラシの自画像は制作年不詳だが晩年70代の作だろう。小生も老人ゆえに、こんな自画像を愉しく描ける心持になっていなければいけないと思った。


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寒桜撮らずに描くぞ今年から [スケッチ・美術系]

toritori3_1.jpg 春の陽気。新宿御苑へ行った。例年より早く寒桜が咲き、群れ舞うメジロを撮るカメラマンが大勢いた。それは小生にも欠かさぬ〝春の行事〟だったが、今年はクロッキー帖にカメラマンの後ろ姿を描いた。十人も描いたか。立ったまま左手でクロッキー帖を支え、右手で鉛筆+万年筆は極めて不安定。帰宅後に二人分を彩色で仕上げた。

 御苑は野鳥撮影とスケッチのご年配方が眼に付いた。野鳥撮影の方は概ね個人か数人で「何か(珍しい鳥が)出ましたか」と声を掛ければ、よほどの狷介翁でなければ野鳥談義が始まり、撮った写真を見せても下さる。「トモエガモがまだいますよ。ホラ、綺麗でしょ」と長玉(超望遠)のご婦人。

 一方、スケッチの方は何故かグループで、携帯椅子に座って彩管を揮っていらっしゃる。そのなか、とても素晴らしい絵を拝見して思わず「凄い、素敵」と口に出た。画面一杯に大樹の幹を色彩豊かに描いていらっしゃった。スケッチ紙は「ブロックタイプ」。画材は「色鉛筆と透明水彩です」と教えて下さった。グループの先生だろうか。

 実はあたしも携帯椅子に座り、さらには画架を構えた安定した姿勢で写生をしてみたいが、他人が行き交う場では恥ずかしくて出来ない。あたしにはどこかに「絵はこっそり描くという〝後ろめたい〟気持ち」があるらしく、これは何なのだろう、問題だなぁと思った。カット絵は〝後ろめたい気持ち〟で背後からこっそり描いた絵。


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ヨガ三人重ね図の弁 [スケッチ・美術系]

balance2_1.jpg 前回の体操図を描いた後、トイレでアイデアが浮かんだ。「ヨガポーズの組み合わせで天空まで描けたら面白そう」と。だがイメージ通りに描けるワケもなく、三人重ねで終わってしまった。

 「人」を描こうと思ったのは、前々回カット絵「胸部CT検査を受ける自分」を描こうとしてハタと困ったことによる。自分の姿を見ること叶わず。CT検査機の記憶も曖昧。だが漫画家ならば、訓練の蓄積によってスラスラと描くに違いない。あたしも少しは「人」を描くことに慣れなくてはいけないと前回の「腰痛体操図」に至った次第。かくして今回は「ヨガ三人重ね図」。


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