酒匂川コウライアイサ迷ひ来て [私の探鳥記]
朝焼け。晴天なり。頭より身体が動いて「鳥撮り行」準備を始めていた。東新宿駅から小田急線。中高年のハイキング姿に山ガールが混じる。大学運動部の女子、サッカー少年と母・・・。みんな降りてもまだ先。高校の頃から慣れ親しんだ小田急線だが「新松田」乗り換え、各駅二つ目「栢山駅」は知らなかった。目指す鳥はいるだろうか・・・。
報徳橋下流へ。双眼鏡で、先ずは鳥より鳥撮りの群れを探す。三脚に超望遠が並んでいた。遥か対岸に、点のようなコウライアイサ♂(高麗秋沙)がいた。世界的希少種。絶滅危惧種。寄り添うカワアイサ♀。カラスが襲う度に逃げてい、やがて下流に飛んだ。
何度が繰り返して、中州対岸に寄ってきた。特徴のうろこ模様がわかる。長い冠羽をなびかせている。カメラマンは百人は超えていた。時折、動きに合わせて一斉連写音。「あっ、飛んだ。」
コウライアイサが飛び去った酒匂川上流を振り返れば丹沢の山々。学生時代に降りるべき駅をやり過ごして、幾度も山に分け入った。河原で夜を明かしたことも幾夜。最後の人家から「ローハイド」が流れていた。フリー当初は江の島線通い。クライアントのワンマン社長が江の島に置く36フィートクルーザーに毎週末乗っていた。
もうしばらくコウライアイサのシャッターチャンスを粘ってみようか。
鉄砲と自転車と野鳥の相関関係 [私の探鳥記]
昨日、ひょんなことで「貞奴」関連本探し。すでに4冊は読んでい、他にないかしらと探索し、新たな3冊を借りたが、しっかり書かれたのは1冊のみ。図書館検索からネット検索したら、なんということでしょ・・。茅ヶ崎市で「川上音二郎没後100年・川上貞奴生誕140年」記念イベントで、先日まで「貞奴とその時代の自転車展」つぅのが催されていたのにビックリ。今夏「徳川慶喜は自転車好きだった」(その1~3)を記したあたしのアンテナがビビッと反応した。
川上夫妻が帰国後に住んだのが茅ヶ崎で、そこで貞奴が自転車の練習をしたという記述がどこかにあって、貞奴が乗っただろう当時の茅ヶ崎の自転車を展示したものらしい。そんなネット巡りから「日本自転車史研究会」のサイトに辿りついたら、貞奴が晩年に夫婦然と暮らした福澤桃介が自転車ビクター号を前にした写真があった。で、面白いと思ったのは貞奴関連ではなく、概ね以下の記述だ。
・・・宮田自転車の創業者も、静岡(慶喜移住地)で発見された国産ダルマ自転車を作った人も鉄砲鍛冶師だった。宮田自転車は本所区菊川町で鉄砲工場を建て、日清戦争で大量受注。その後も狩猟銃が売れたが、明治34年の狩猟法改正で売れなくなった。そこで同年10月から自転車製造を始めた。鍛冶職人~鉄砲作り~自転車作りの流れがあったとは驚いた。
そして、、その変遷の裏に鳥獣保護があった。明治28年(1895)に狩猟法制定。明治34年(1901)に鳥獣の保護繁殖を目的とする禁狩区制度創設。大正7年(1918)に狩猟法全面改正。とは言え密猟は止まらぬ。中西悟堂らが「日本野鳥の会」を設立したのが昭和9年(1934)で、彼らの熾烈な戦いで野鳥をはじめ鳥獣保護が浸透して行った。
かくして「鉄砲と自転車と野鳥」の相関関係が浮上した。ねっ、だから鉄砲ならぬ超望遠レンズを背負い、自転車に乗って野鳥撮りに行くってぇのは道理にかなってんですよ。この辺を調べるのも面白そう。
百舌飛びて巡る季節の愉しさや [私の探鳥記]
久し振りに葛西臨海公園へ行った。今まではバイクか、東西線「西葛西」+バスだったが、今回は「葛西」下車+小チャリ。東西線の朝は早い。7時前にもかかわらず通勤客が多い。皆さん、くたびれた顔・・・
愉悦かな隠居遊びの朝電車
あたしだって、つい最近までワーカホリックだった。働いて働いて、今は酔狂に胸ときめいている。駅舎を出て、小チャリを覆ったユニクロ黒セーターを脱がせ、自転車セットまで数分の早業。自転車に跨ると、じっと見ていた閑人がニヤリと笑った。鳥撮り+ポタリング。
秋っていいなぁ。鳥撮り各ポイントを一周し、東渚の堰堤に座り込み、海を眺めつつコンビニおにぎりを二つ食って寝転がった。そう、百舌を撮った。野は日々紅葉し、冬鳥たちで賑わってくる。さぁ、今度はどこでプリミティブを愉しみましょうか。
熊手よりソリハシシギの干潟かな [私の探鳥記]
千葉の干潟の「オオソリハシシギ」。実は3.11直後の13日に浦安に行った。息子は米国から帰国中で、成田に着陸出来ずに横田基地から関西空港。新幹線で帰京途中だった。
浦安駅に着けば、液状化の砂塵が凄いからとマスクを渡された。家が傾き、道路に亀裂が走り、道と建物に1mの段差ができ、マンホールが空中に突き出ていた。「シロガネーゼ」ならぬ「マリナーゼ」が住むといふ高層マンションのリゾート風街並の無残な姿・・・。
塚本洋三「東京湾にガンがいた頃」を読むと、1950年代までは東京ディズニーランドを含めて一帯は干潟だったとある。交通も総武線「本八幡」のみ。そこからバスで行徳橋下車で9キロも歩いて、やっと干潟の野鳥観察だったとか。今はどんどん埋め立てられ東西線、首都高速湾岸線、JR京葉線。その先に追いやられるようにかろうじて干潟が残されている状況。
先日、テレビの開高健特集で、彼がこんなことを言っていた。「後進国ではひとたび自然が壊されるとなし崩しの破壊になるが、先進国の方がプリミティブが残されているんだ。自然保護の考えが浸透しているんだな」。
オオソリハシシギの採餌姿を見ながら、日本はどっちなんだろうと思った。
都鳥渡り忘れか秋干潟 [私の探鳥記]
オナガらのふと姿消し夏木立 [私の探鳥記]
先日の台風で激しく揺れる枝にも悠然と止まっていたオナガらが、昨日ふと姿を消した。営巣の小枝を運ぶ姿、交尾らしきも目撃して、観察の楽しさが深まっていたのだが…。今は夏木立の繁茂が空しい。消えた原因はなんだったのだろう。
とは云え、マンション7階から眼下のオナガを観察するなんてことは稀なこと。そんな日々が半月ほど続いたことをラッキーとしましょう。オナガらはなんらかの理由で此の地は営巣に向かぬと判断したのだろう。
花鳥風月は、複雑にこんがらがった頭を、その単純な摂理をもって人を「素」に戻してくれる力がある。例の鳩山さんも、韓国のヒヨドリを見て身を引くことを決意したとか。それにしても日本の政治の魑魅魍魎よ。日本が良くなる日は、政治家が消えた時なのかもしれない。
ウグイスの満腔の歌長閑満ち [私の探鳥記]
新宿の自宅ではオナガ、ムクドリの鳴き声が聴こえるも、島のロッジではコジュケイ、ホオジロ、ウグイスの囀りに満ちていた。「ホーホケキョ」の力強い囀りは、辺りの気をも長閑にする島暮しならでは。台所に立てば窓から手の届く辺りで囀っていたりもするが、姿はいつも藪の中。
埼玉県北本で身を低くして枝から枝に渡る姿を撮ったが、囀っているいい写真が未だ撮れず。写真は防風林梢頭で囀っているところで遠くて逆光。双眼鏡で覗くとクチバシを反るほど開け、満腔これ絶唱。ヨシキリの囀りの姿に似ていた。
噺は変わって、昨日のこと。ひょんなことで「Google」地図を見て、ついでに大島を検索すれば凄い詳細写真で、我がロッジもしっかり写っているのには腰を抜かすほど驚かされた、確か以前はこれほどの地図ではなかったと思うのだが、いつからこんな写真になったのだろう。一方、新宿のマンションを検索し、これを「ストリートビュー」こ切り替えればマンション玄関から入っていけるほどの映像で丸裸にされた感なり。大島地図には未だ「ストリートビュー」はなくて安心。情報過多のちょっと怖い世の中になりましたねぇ。島は長閑がイチバン。
オナガらとひととき遊ぶ隠居して [私の探鳥記]
自宅ベランダから観察中の「カラスVSオナガ」攻防は、どうやらオナガが勝って居着たようだ。読書に飽きれば、ベランダから望遠レンズでオナガの観察。多い時で6羽を見たが、概ね4羽が居着き、止まる場所も決まってきたようだ。
オナガはこれまでに、何処からともなく矢のように飛んできて、彼方に矢のように飛んで行く群れを何度も見てきた。彼らの領域はかなり広そうだが、小群で居着いたってことは繁殖体制に入ったのだろう。時に木陰の中で二羽が寄り添っている姿も見るが、未だ巣作りの気配はない。カラスの針金ハンガーの営巣ではなく、オナガの繁殖が観察できましょうか・・・。小鳥なら遠くて撮れぬ距離だが、大きなオナガはここから撮っても充分。隠居の無聊の愉しみになった。写真下は向こうの団地屋上に揃った4羽。
カラス去りオナガが集く街になり [私の探鳥記]
大島で日々「カラスとトビ」の攻防を見て、新宿に戻れば自宅前で「オナガとカラス」の攻防。カラスが威圧するも、オナガはしたたかに居座っている。先日のテレビが「東京のカラスが甲府市流入」と報じていた。東京からカラスが去り、ひょっとするとオナガ増殖…と思っていたら、番のオナガを援護するように他の4羽が飛んで来て6羽揃う雄姿を見せた。カラス去りオナガの時代が本当に来たりして…。オナガは西日本では姿を消したが、東京では着実に殖えている。
そうこうしてるってぇと、遠くの水道塔てっぺんにカラスが集った。「東京のゴミも管理が厳しくて棲み難くなってきた。俺らグループも甲府に移動すっか」とでも話し合っているような黄昏た風情なり。ぼんやり望む東京スカイツリーも、いよいよクレーン外しが始まるそうで、この写真30分後には左クレーンが低くなった。
自宅窓からの観察でも、それぞれに物語は進行している。街にオナガが殖え、スカイツリーは聳え、少女は大人になり、大人は老いて死んでゆく。昨今、故人になった方々の思い出もある。児玉清さんと日本最初のゴルフ場(六甲)で一緒にラウンドしたこと、長門裕之さんが真鶴マリーナにボートを持っていた時分にボート談義を伺ったことがあった。
産座にと棕櫚採るカラス気魄満ち [私の探鳥記]
繁殖へ創痍カラスの哀しさや [私の探鳥記]
朝6時前からカラスが鳴いている。1週間ほど前から、翼が一部白化のカラスが眼に入っていた。昨日の朝、そのカラスを撮ってみようと思った。見ていたら、枯れ木から俄かに新緑に変った欅に巣を作っていた。撮った写真をみれば、翼は白化ではなく初列~次列風切の元半分の羽が抜けて羽軸のみ。翼を広げると空が透けて見えていたのだ。怪我か疥癬か?繁殖するには身体も細い。満身創痍の♀だが♂を誘うように交尾を始めた。♂が針金ハンガーを運んでいた。
そんなカラスの営みを観察していたら、行政改革も出来ずに借金まみれ、その上に未曾有の地震・大津波と最悪原発事故に襲われた日本も、まさに満身創痍だと思った。力を結集できぬ政治家たち。都内では区議選が行われているがなんという空しさよ。
片割れのハトも撃つかと福田言ひ [私の探鳥記]
キジバト写真は三度目。最初はアオバトを撮った後の花水川で「番の水浴びシーン」。二度目が「400ミリ手持ちMFの話」でアップ。今回は志賀直哉のエッセー「山鳩」を昨日読んでのこと。内容はこふだ…
熱海の山荘で山鳩の番が眼に馴染みになってゐた。そこに福田蘭童君が、今、撃ってきたと小綬鶏、山鳩、鵯を持ってきて呉れた。熱海の広津和郎君のところに行かうとなったが、バスが来るまで三十分あった。蘭童君はその間に裏山で山鳩と鵯と頬白を撃ってきた。後日に気付けば見慣れた山鳩の番が一羽になってゐた。蘭童君は「そんなに気になるなら残った方も片付けやうか」と云ふ。鳥にとって彼はそういふ恐ろしい男である。
蘭童君をネット検索すれば洋画家・青木繁の子。尺八名手で「笛吹き童子」「紅孔雀」のテーマ曲や多くの映画音楽を担当。1935年に大島ロケへ向かふ船上で純情派女優・川崎弘子と肉体関係をもって「レイプ」と大騒ぎされ、離婚して川崎弘子と結婚したそうな。ハナ肇とクレージーキャッツの石橋エータローは彼と先妻の子。開高健の釣の師匠とか。35年の大島ロケで何の映画を撮ったのだろふと調べてみたがわからなかった。「橘丸」就航の年で大島ブーム最中。あたしも大島ロッジを建てた当初、木の上にいる番のキジバトを双眼鏡で覗いていたことを思い出した。
病み上がり頬掠め飛ぶツバメ見ゆ [私の探鳥記]
風邪。昨年も同時期に寝込んだ。寝たり起きたりの憂鬱な日々だが、昨日、窓の外を飛び交うツバメを見た。昨年のツバメ初認は新宿御苑で3月26日。3軒隣マンション地下駐車場天井で営巣のツバメは4月14日に見た。
昨年のツバメは天候不順が影響したか辿り着いた時は疲れ切った感じだったが、今年のツバメはえらく元気が好い。望遠レンズで狙ったが、文字通り頬を掠め飛ぶこと度々で、標準レンズでファインダーを見ずにシャッターを切った。手前側はマンションが並び、向こう側は高層団地。その狭間を4、5羽が行ったり来たり。寒桜、染井吉野が散り、次が八重桜。ツバメが来れば御苑のカイツブリも営巣開始か。昨年はこの時期に葛西でシマアジを撮り、干潟の土を集めるイワツバメも撮った。税務署も今日で終わろう。ツバメに元気をもらって、鳥撮りにまた行きましょ。
鳥よりも知らぬ景色に胸踊り [私の探鳥記]
鳥撮りは撮影地明かさず…がルールとか。だがあたしの場合は、鳥との出逢い以上に「見知らぬ風景」に胸ときめく。まずは机上で、あの鳥が居るというあの場所はどんなところなのだろうかとネット検索。地図や乗り換え駅を調べ、初めての郊外電車に乗る。車窓に早や興奮気味。ここからバスに乗ったり歩いたりで現地着。未知の緑地(山野)への期待感。望遠レンズの鳥撮りがいれば、そっと後を着けてポイントにたどり着く。そんな方がいなければ、自ら全域を彷徨って自分のポイント地図を作る。鳥より風景散策の方が胸躍っていたりする。
昨年末から行った撮影地を挙げると★小田急線「田町駅」からバスで「薬師寺公園」(マヒワ、ルリビタキ他)。★東上線で「国営武蔵丘陵・森林公園」(何も撮れずも迷子になるほど広大だった)。★中央線「武蔵小金井」からバスで「浅間山公園」(コジュケイ他)。★同じく「武蔵小金井」からバスで「小金井公園」(イカル、コイカル他)。★北総線「大町駅」から徒歩で「大町自然観察園」(オオアカハラ、ヤマシギ、ヨシガモ他)。★東西線「葛西」からバスで「葛西臨海公園」(ギンムクドリ)。★「松戸」駅から徒歩で「江戸川土手」(キガラシシトド、オジロビタキ、タヒバリ)。★東上線「坂戸」から道がわからずにタクシーでワンメーター「浅羽ビオトープ」(ハチジョウツグミ他)。★小田急線「向ヶ丘遊園」からバスで「生田緑地」(ルリビタキ)。日本民家園を見学して帰りは徒歩で駅。
これら撮影地の地図等の資料は、黒く分厚いバインダーに収録。撮った野鳥はブログにアップだが、実はそれぞれの地を彷徨った思い出は溢れんばかり。先日、川本三郎「言葉のなかに風景が立ち上がる」の読書備忘録を記したが、ブログの鳥写真を見れば、それぞれの風景を彷徨った思い出がきりなく甦ってくる。今は近郊電車運休などでジッと我慢の爺。美しい風景が地震・津波で破壊され、多くの尊い命が失われた。朝刊には原発レベル6相当、チェルノブイリ原発事故に匹敵の土壌汚染もみつかる…とあり。美しい景色が汚染された。考えなくてはならぬ問題が山積している。
支援の輪広がる報に鷗舞ひ [私の探鳥記]
ニュータウン遺った緑のルリビタキ [私の探鳥記]
あたしの鳥撮りは自宅・新宿から1時間圏内、東京郊外が主。川本三郎による「東京郊外」はこうだ。
…東京の郊外は、大正十二年(1923)の関東大震災のあとに開けていった。とくに杉並区や世田谷区などの西への発展という形をとった。戦後の高度成長期に、それがさらに西の多摩地区や、周辺の埼玉や神奈川へと広がった。当初の郊外は「一戸建ての郊外」だったが、それが昭和三十年代には「団地の郊外」、さらに昭和四十年代以降は「マンションの郊外」へと変わっていった。(「言葉のなかに景色が立ち上がる」より)。
新宿から1時間というと、ここで記された「一戸建て・団地・マンション混在の郊外」の、ニュータウン建設で遺された緑(公園)での鳥撮りってことになる。鳥撮りを始めて、初めてそうした郊外景色を眼にして妙な感慨に襲われる。永井荷風は明治の都市化にとり遺されたさびれた光景に去りがたくなる感慨を求めて「日和下駄」を著した。あたしの郊外体験はそれとは逆の「あぁ、都心から離れたこんな地にもビッシリと人の営みが…」という妙な感慨だ。その意では、あたしの鳥撮りはニュータウン散策でもあり。そんな鳥撮りポイントには行けば、必ず地元の鳥撮りに逢う。ニュータウンでの希望に満ちた暮らしを経ただろう隠居世代たち。このルリビタキはそんな郊外に遺された緑(公園)の野鳥観察小屋で、双眼鏡だけの老婆と共に世間話をしながら撮った。
をし鳥の群れ舞ひ立ちて夢幻かな [私の探鳥記]
ホオジロや島に帰れと背で誘ひ [私の探鳥記]
ハチジョウツグミの“出待ち”に初撮影地を散策。ホオジロの番がいた。八丈ならぬ伊豆大島のロッジ暮しでは朝も昼も鳥のさえずりに満ち、それは主にウグイスとホオジロ。ホオジロは4~5月に梢頭で天を仰いで唄い、秋には地に降りて薄などの実を啄んでいた。「一筆啓上仕候」と鳴くそうだが、口笛で「ワッツミーTV」と吹けば、負けずに力強くさえずり返してくれる。
頬白は一筆啓上天に鳴き/ホオジロや隈取り面に負けぬ見栄 …すでに島で撮ったホオジロ写真に以上2句を添えている。ロッジを建てて今年で20年。だんだん通う回数が減ってきた。久しく島暮らしをせずロッジ放置の負い目があって<ホオジロや島に帰れと背で誘ひ>。上が♂下が♀。
藪んなか鳥も通わぬツグミかな [私の探鳥記]
ハチジョウツグミは対岸の遠く藪ん中から出て来なかった。「そろそろ水呑みに来るぞ」。そんな声を掛け合って川際に出て来るのを待つが、あたしは午後1時で諦めた。写真は藪から出た一瞬。400ミリでは拡大トリミングしても証拠写真にもならず。いずれリベンジ。まずは見たということでライフリスト157。
かつて新宿御苑で「ハチジョウツグミ撮れました」と訊かれた。ハテなと調べれば京都御苑に出ているらしく、その方は御苑違いの早とちり。かくしてハチジョウツグミを知った。しっかり撮ってみたかったが・・・。
八丈鶫。なぜ八丈か、よくわからぬ。細川博昭著「大江戸飼い鳥草紙」に滝沢馬琴が著した「禽鏡」一覧表があり、ツグミ・ハチジョウツグミ・トラツグミ・クロツグミ・・・とあり。天保5年(1834)刊。ネット調べでは、それより26年前、文化5年の佐藤成裕「飼籠鳥」に載っているとか。この時代の八丈島は「鳥も通わぬ八丈」で渡るには黒瀬川(黒潮)が阻んでいた。重罪流刑地。まさかその時代に鳥観察が行われたとは思えず、そんなに遠い八丈から来たんじゃないかというほどに稀な鳥・・・の意かと勝手に思った。
雛まつり桃より紅のマシコ撮り [私の探鳥記]
昨日は3月3日、雛まつり。真冬のような寒さが戻って躊躇したが鳥撮りに出た。我が家から数分の副都心線から東上線。事前調べが好い加減でバスがわからず。目的地まで1メーターとかでタクシーに乗ってしまった。
デジカメ・長玉・三脚がズラリッ。お目当てはハチジョウツグミで、足許のベニマシコには眼(カメラ)も向けぬ。彼らにとっては見飽き・撮り飽きた鳥か。「おぅ、どこから来た」と地元の方。「新宿」「おぉ、遠くから来たなぁ」。時折ハチジョウツグミの動きに親切なアドバイスを下さる。「遠くから来たんだ、しっかり撮って行ってくれよ」。だがハチジョウは川向こうの藪ん中から一向に出て来ぬ。並んだ鳥撮りの間で北本、舞岡辺りの珍鳥情報が飛び交う。珍鳥狙いの鳥撮りに混じると、あたしなんか初心(ウブ)なもんだ。老いてもウブ。ベニマシコみてぇだ。紅猿子、照猿子。季は秋だが鳥は鳥撮りの眼の方が確か。冬鳥でよし。Long-tailed Rose Finch。写真下は♀だろう。番で飛び交っていた。逆光ゆえ眼を出すべくハイキーにした。
寝て本を読む先にゐるメジロかな [私の探鳥記]
姿を消したメジロらがベランダのローズマリーに戻ってきた。「新宿御苑の寒桜へ遊びに行っていた…」と勝手に思っているが、本当のことは知る由もない。
フローリングのホットカーペットに寝転び読書で、読み疲れベランダに眼を向ければメジロが癒してくれる。風流なり。先日、同じ7階の親爺と地下鉄で一緒になった。メジロの話をすれば「オウムも来るし白い鳥も来るよ」に驚いた。この辺でも見かけるオナガか、はたまたワカケホンセイインコかとその特徴を云えば、やはりオウムの篭脱けらしく、白い鳥はハクセキレイらしい。街でもそれなりに野鳥は愉しめる。
我孫子よりバスのA公園でまた珍鳥カラフトムシクイとか。喧嘩が起こるほど鳥撮りが群れたらしい。珍鳥1羽に連日50~100人がカメラを向ける。一方、伊豆大島のサイトを拝見すればヒレンジャク数十羽を、ギンムクドリを撮っているのはたった一人らしい。かくも野鳥の愉しみさまざま。海辺に寝転んで読書し、読み疲れたらヒレンジャクの群れってぇのもいいかも。「隠居後はマンションを賃貸に出し、海小屋で島暮しを…」と思っていたが、街暮しも捨て難く…。
群雀団塊とても瓦解せむ [私の探鳥記]
毎朝、パソコン内画像から浮かんだ句をもってブログアップも、画像がなくなってきた。さぁ、カメラを持って外へ出でよ。しかたなく群雀…。
そう云えば、雀のいい写真を撮ったことがない。この時も群雀の飛び立ちシーンを狙って連写だが撮れなかった。思えば何度も同じ失敗をしている。群れゆえフォーカス定まらぬか。いや、雀の飛び立ちは思っている以上に高速かも。いえ、雀だと常に好い加減だからか。時に数羽の雀が絡み飛ぶ写真を見るが、それも撮れていない。写真の修行不足否めず。
群雀を見れば、子供時分のすし詰め教室を思い出す。団塊世代よりちょっと先輩だが、それでも一クラス50名を越え、教室の後ろまで机が迫っていた。それで6、7組もあったと記憶する。ずっとフリーゆえ、同期と会社人生を共に歩むというのも知らん。すでに隠居だが細々と続く仕事の担当者は孫世代のお嬢さんだ。平日に鳥撮りに行くと、ここで初めて同世代とお逢いする。もう10年も前のこと、小学校クラス会に何度か出席したが、まずは亡くなった方への黙祷から始まった。毎年、ボロボロ欠けて行くのを実感。そう思うから、鳥撮りに行って同世代親爺に逢えば「おぉ、互いによくぞここまで元気に生き抜き、鳥撮りを…」と肩でも抱きたくなってくる。雀もここ20年で個体半減らしい。雀の美しい写真をいっぱい撮りたい。
ツグミらは余が寄れば跳び寄れば飛ぶ [私の探鳥記]
田辺聖子「ひねくれ一茶」を読んでいたら、一茶のこんな句が載っていた。<庭の蝶子が這えば飛び這えば飛ぶ> あたしは反射的に<ツグミらは余が寄れば跳び寄れば飛ぶ>とつぶやいた。「ヨ」のリフレインと、「跳ぶ」と「飛び」。リズミカルでしょ。
かつて鳥撮りの要のひとつ「飛び立ち距離」について記したことがある。どこまで近くに寄って撮れるか…。あたしは400㎜で手持ちゆえ、なるべく近くに寄って撮りたい、手持ちゆえジワジワと忍び寄るのも得意。で、ツグミやシロハラらとしばし鬼ごっこ…。
でもなんですなぁ、鳥撮り3年で早やツグミやシロハラにカメラも向けぬほど摺れてしまった。「摺れっからし、莫連、阿婆擦れ」。鳥撮り当初は、そりゃもぅ、ツグミ撮るにも胸ときめいたもの。だが初心はたちまち失せる。この調子だと珍鳥でなければ撮る欲も失せる。それでは詰まろうから、今までに何度か撮った鳥は当写真のように「ただ撮る」域から脱せねばならぬ。瞬間の美しさ、珍しい仕草、情緒・情感・風情ある写真…。そのへんは執拗さや粘りが肝心で、せっかちのあたしが最も苦手とするところ。隠居道楽の鳥撮りもちょっと難しくなってきた。
タヒバリや斜め舞台の土手に舞ひ [私の探鳥記]
タヒバリは江戸川土手で撮った。ヒバリはヒバリ科だが、タヒバリはセキレイ科。和名は田雲雀、犬雲雀、畦雲雀、溝雲雀、土雲雀。季語は冬。ビンズイに似ているが眼の後ろに白斑なし。
あたしの記憶が確かなら、「ひばり」ならぬ石川さゆりが青山劇場1回目に初めて斜めステージを採用。今も斜めで通している。平らな舞台を観客に見易いように後方を高くした斜面ステージ。土手斜面に群れ舞うタヒバリを見て「あぁ、斜め舞台だ」と思った次第。<タヒバリや斜め舞台の土手に舞ひ>。タヒバリでライフリスト156。
石川さゆりは目下、3月の御園座公演の芝居「夢売り瞽女」立ち稽古中。昨夜、同事務所の孫のような若いスタッフが、その稽古スナップをメールで送ってくるはずも着信なし。現場のてんやわんやが伺える。数年前まで十年間ほど五木ひろし密着取材をしていた。立ち稽古はよく築地本願寺でやっていた。本殿右の建物にそんな稽古場があるんですね。忙しかった彼は他の出演者が仕上がったところにポーンと入って、それで完成させていた。歌のステージの演出は自分で「松園明」なる演出家名でやっていた。
尾を立ててオジロビタキのひとり旅 [私の探鳥記]
昨日の続き…。キガシラシトドを数分連写後に、わずか上流のオジロビタキのポイントに向かった。土手斜面にはタヒバリが群れてい、葦原の焼け跡に鳥撮りらが三脚を並べていた。ややしてジョウビタキとお目当てのオジロビタキ登場。山渓ハンディ図鑑「日本の野鳥」にはオジロビタキで載っているが、日本に飛来は正しくはニシオジロビタキとか。稀に旅鳥または冬鳥として飛来。
ギンムクドリ、キガシラシトドを含めて稀少・珍鳥・迷鳥は概ね一羽旅。撮り人には家族や仲間がいて、タヒバリも群れていたが、一羽旅の稀・珍・迷鳥らは仲間とも逢えず繁殖の機会もなかろうに…と思った。<尾を立ててオジロビタキのひとり旅> ライフリスト155。
朝5時半頃に家を出て葛西でギンムクドリ、松戸でキガシラシトド、ニシオジロビタキ、タヒバリやジョウビタキも撮って松戸駅のカフェで一休みしたのが11時前だった。珍鳥尽くしの滅多にない鳥撮り。熱いコーヒーを飲みつつ「こんな日も稀で珍なり」と思った。
キガシラや悟堂の愛を伝えをり [私の探鳥記]
昨日の続き…。葛西でギンムクドリ撮影後、西葛西駅から松戸駅へ。以前より「松戸の江戸川にキガシラシトド」の報が鳥サイトにあり。「さて何処でしょう」。ネット巡りを重ねれば「駅から10分の江戸川土手」。「駅から最寄の土手に上がって双眼鏡で長玉・三脚の人を探せば…」と眼鼻を付けていた。
土手に上がれば、眼下で鳥撮りセッション中。手持ちの気軽さで、三脚の方々の隙間からフォーカスすれば、頭部わずかに黄色の迷鳥キガシラシトド。数分連写をもって集団から外れた。関東では1935年振り。「よくもまぁ昭和10年の記録があったなぁ」と調べれば、「日本野鳥の会」創立の翌年。中西悟堂が同会啓蒙に盛んに探鳥会を催し、会報「野鳥」編集発行に情熱をたぎらせていた時期。昭和10年の記録に納得。悟堂さん、今日の鳥撮りブームを何とみよう。<キガラシや悟堂の愛を伝えをり> うむ?<伝えてをり>か<伝えたり>か? ちなみに永井荷風「すみだ川」出版の年。2年後の「墨東綺譚」新聞掲載のために玉ノ井通いも始めたころ。今戸橋から山谷堀を遡って吉原大門まで歩いてもいて、途中で同小説冒頭で出てくる古本屋を発見している。
キガシラシトドの漢字は黄頭鵐。「鵐(しとど)」はアオジ、ノジコなどの古名で青鵐(アオジ)、黒鵐(クロジ)でお馴染み。「鵐目(しとどめ)」は金属・皮製品にあけた穴の縁を飾る金具で、鵐の眼に似ているからとか。写真下は黄色の頭。繁殖期に頭は黒く、この黄色が鮮やかになるとか。ライフリスト154。キガシラシトド連写後に、ちょっと上流のオジロビタキのポイントを教えていただいた。
ギンムクにオジロビタキにキガシラを [私の探鳥記]
タイトルは句でも呪文でもなし。関東の鳥撮りならピンとくる珍鳥3種。正確にはギンムクドリ(銀椋鳥)、ニシオジロビタキ(西尾白鶲)、キガシラシトド(黄頭鵐)。きのう、早起きして午前中に葛西から松戸への一挙撮り。朝5時40分に家を出た。道路には薄氷か霜か、歩けばビシッビシッと音がした。東西線・早稲田から乗った車中で浮かぶ句をメモ。<珍鳥を求め歩まむ霜の音> <珍鳥を求めサクサク霜を踏み>。 西葛西駅からはバス。そしてレンタルサイクル。「磯の小路」でしばし待ったが、ギンムクドリの“フォトセッション会場”は「上の池」対岸芝生だった。カメラ放列50余…。
ギンムクドリ。本来は中国東南部棲息で冬季に東南アジアで越冬。それが日本へ迷い込んだらしい。沖縄諸島ではたまに見られるらしいが本州では稀な冬鳥。嘴が赤褐色で先端が黒、脚は橙色、風切部分にブルーの金属光沢があった。かなりシャッターを切ったが10分もいただろうか。ライフリスト153。西葛西駅から八丁堀~上野~松戸へ。キガシラは明日…。
柄長の柄そちは茶杓のゆがみ文字 [私の探鳥記]
エナガの飛び写真。句は<柄長(えなが)の柄(え)そちは茶杓(ちゃしゃく)のゆがみ文字>。
普段のエナガの尾は真っ直ぐだが、飛び写真を撮ったら湾曲していた。かくして「茶杓のゆがみ文字」。この句の基は地唄「茶音頭」の~♪柄杓の竹は直ぐなれど そちは茶杓のゆがみ文字…から。この「茶音頭」はお点前の作法を取り入れ茶道具や銘茶などを並べて、〆は“恋する人と末長く幸せに~”となっているとか。この「茶音頭」…うれしいのは、当ブログで何度か(※)登場の俳文集「鶉衣」也有翁の「女手前」からの抜粋歌詞とか。作曲は菊岡検校。その全文がどうなっているかと「鶉衣」をひもといたが見つからず。さて、どの書に収められているのだろうか。
※横井也有翁(やゆうおう)については、11月10日「揃い踏む南畝荷風のウズラかな」 11月11日「也有翁剃髪の弁かく語り」などで記している。
ヨシガモの光る緑や谷戸の池 [私の探鳥記]
大町自然観察園でオオアカハラ、ヤマシギを撮り、さらに谷戸を進むと池三つ。一番奥の池にエメラルドグリーン煌めくヨシガモ一羽。谷間ゆえ木洩れ日さす場所に泳ぎ入れば、そのナポレオンハット風の頭部羽冠の見事なことよ。 <ヨシガモの光る緑や谷戸の池> 風切り羽が長く鎌状になっていて蓑を着ているように見えることから蓑鴨とも。季語は冬。ライフリスト152。
昨日、鳥撮りサイト巡りをしていたら「松戸の江戸川土手下辺りにキガシラシトド」、「渡良瀬遊水地の鷹見台辺りにコミミズク」、「見沼の公園辺りにオジロビタキ」、「葛西にギンムクドリ」らしき…情報を得た。昨年撮り逃がした「トモエガモ」は何処にいるのでしょうか。さて、ライフリスト稼ぎに出かけましょうか、いや、読書しましょうか…。「おまいさん、ちっとは仕事をおしよ」とかかぁが言う。
ヤマシギや亡き愛犬の血が騒ぎ [私の探鳥記]
近くに大勢の鳥撮りがいたが、撮っているのは自分だけ。ヤマシギは肉色の長い嘴を泥ん中に深く差し込んで餌探し。何枚撮っても嘴は泥だらけ。ずいぶん経ってから、あたしのレンズ先に誰かが気付き叫んだ。「ヤマシギが出ているぞぉ~」。ワッと群がる鳥撮り。マヤシギが藪沢沿いに走った。追う鳥撮り。ヤマシギは脱兎のごとく藪ん中に逃げ込んだ。
<ヤマシギや亡き愛犬の血が騒ぎ> ヤマシギは英語でWoodcock。ヤマシギ猟で鳥を飛び立たせる仕事をしていて「cock」からコッカーの名を冠した犬がいた。米国に渡ってアメリカン・コッカースパニエル。実はアメリカで8年、我が家で8年を暮して天寿を全うした亡き愛犬がコッカーだった。今も家族それぞれがお気に入りの遺影を身近にするほど愛し愛された存在。あれは或る夏のこと。海岸の少年らの花火が銃声に聞こえたのだろう、温厚なコッカーが突如猛々しく突っ込んでいった。猟犬の血が甦ったのだろう。きっとヤマシギを見たら先祖の血が騒いで気も狂わんばかりに興奮したかも知れない。
その肉は旨いとか。盛んな猟で保護種になった国もあるとか。その羽模様、夜行性、仕草から不思議系だな。写真下は、鳥撮りに追われてドッコイショと木を跨いだユーモラスなカット。それでも1/160secでブレているからそれなりに動きは早かったん。ライフリスト151。